剣士への問い
亡霊は、妖刀《綿霧》の呪詛に寄生する精神体だ。
かつては人であったが、肉体は何百年も前に土に帰り、現在は呪詛を通して人から人へと取り憑く亡霊である。
(ここが、剣聖の内面)
これまでに何百、何千という人の内側を見続けた亡霊は、立ち尽くしていた。
(美しい……)
そこは、広大な世界であった。
空には雲一つない快晴がどこまでも広がり、地にはさざ波一つない水面。
どこまでも広がる水面は、水鏡となって快晴を映している。
青だけが広がる世界の中心には、悠太が一人きりで剣を振っていた。
(本当に、人の内面なのか? これほどの静寂を、人が生み出せるのか?)
内面とは、人がどのように生きてきたかを映す鏡だ。
野山を駆けずり回るならば山が、町中であれば町が、友人が多ければ友人が、孤独を感じていれば一人だけ。
ならば、青と己だけの世界を生きる悠太は、どれほどか。
(彼は、剣聖だ。誰一人心のにいれずして、あれほどの高みに至れるものか……。位階の高い剣士ほど、人を内に入れるというに……いや、孤独な者ほど取り憑きやすい。好機と思うべきだ)
本来であれば、心の中心を探すことから始めるのだが、悠太の内は探すまでもない。
水面を波紋で乱しながら、悠太に近付いていく。
(無防備な、剣聖と言えど若輩ということか。この様子ならばすぐに……む?)
青い静寂が支配する世界はが変化していく。
快晴だった空には雲が出現し、悠太に近付くほどに数を増やしていく。空一面がどんよりした雲で埋め尽くされ、今すぐにでも降り出しそうな曇天が広がる。
すると、次は水面が変化する。
(このぬかるみは、泥? 抵抗と呼ぶにはささやかにすぎる)
珍しいことではない。
侵入者が内面の中心に到達することは、他者に自分を乗っ取られることに等しい。故に、人は無意識に抵抗するのだ。中心に到達しないように、ありとあらゆる手段を使い、侵入者を排除しようとする。
悠太の場合は、水鏡の隠された泥のようだ。
(歩きにくいが、この程度であれば支障なし)
沈む、沈む、沈む。
近付くごとに、どんどんと亡霊は泥に沈んでいく。
始めはつま先が埋まる程度だったのに、つま先が足の甲、くるぶしと、だんだんと深くなっていく。膝近くまで沈んでしまえば、もはや歩くことは不可能。だが亡霊は諦めず、泥をかき分けていく。
(何だ、これは? なんだ、この世界は? なぜこのような、泥の上に立てる?)
まだ距離があるのに、亡霊は胸まで泥に沈んでいた。
人の内面で距離を数値化することは出来ないが、現実に当てはめれば一〇〇メートルほど。悠太の元に着く前に、頭のてっぺんまで泥に沈むだろう。
そして、悠太の足場も、亡霊と同じなのだ。
(泳ぐ? 否だ。理屈ではない。多くの内面を見た経験が言っている。ここでは、立たなければならない。立つ以外の行為は許されない」
沈む、沈む、沈む。
いくらかき分けても、進んだ距離よりも深く沈んでいく。
想像よりも早く首まで泥に沈み、ついには唇が泥に触れ、亡霊の足が竦んだ。
(沈みきれば、どうなるのだ? いや、泥の上に剣聖は、なぜ剣を振り続けるられるのだ?)
薄暗い曇天の下でも、悠太の顔を視認できる距離にあった。
進むのを休み、顔を注視して、亡霊は愕然とする。
(なんだ、アレは? 彼は一体、何を見ているのだ?)
悠太は、どこも見ていなかった。
いや、亡霊には何一つ理解できるモノが存在しなかった。異常なほど鮮明に自分自身を再現しているのに、人らしさが何一つ反映されていないのだ。
人と見紛うほどに精巧で、表情のない人形のように、ただそこにあるだけ。
それなのに、一振りは常に全身全霊。
修羅神仏にすら届くだろう絶技でさえ、まだ足りぬとばかりに剣を振る。
(………………ああ)
亡霊が何かを悟った瞬間、内面からはじき出された。
泥と曇天の世界から、現実へと帰還する。
「……あぁ、ぁぁ、……ぁあ」
異様なほどに乾いたノドからは、言葉にならない何かが吐き出されるだけ。
「どうした、亡霊。俺を後悔させるのだろう? 痛い以外は何一つ変わらないが、もういいのか?」
忌々しく思うほどに、悠太に変化は見られない。
亡霊ははじき出されたが、妖刀《綿霧》の呪詛は確実に届いたというのに。
腹に突き刺した剣から血がしたたり落ちる以外に、悠太は何も変わらない。
「……剣聖、お前は、何を望んでいる? いや、あれほどの剣を振りながら、なぜ動かないのだ!?」
人の内面、精神世界で起こることは、本人の理想だ。
ならば修羅神仏すら斬り伏せる腕を持ちながら、素振りを続ける悠太は、その技量に満足していないことを意味する。
「いや、こうして亡霊の相手をしてやっているだろう。これで動いていないとは」
「――違う! もっと大局の話だ! お前ほどの腕があれば、天下に意を示すことすら容易いはずだ! なのになぜ、このような場所で燻っている! 剣に対する冒涜であろうが!!」
叫ぶと、亡霊の身体から力が抜けた。
呪詛で無理矢理動かしていた身体が、ハンガーノックであることを思い出したように。
「なるほど、理解した。お前はその手合いか。ノリで亡霊と呼んだが的を射ていたらしい」
得心がいったらしい悠太は、亡霊を逃がさぬよう右手首を握りしめる。
「まず基本的なことだが、大きな勘違いをしている。剣で天下に意を、と言っているが、剣術や剣道は別に高尚なものではない。時代遅れの遺物か、茶道や華道のような礼節を学ぶ手段の一つか、人を殺すだけの技のどれかだ。この中に天下を動かすような要素があるか? 俺にはあるようには思えないぞ?」
「剣聖ともあろう者が剣を穢すか!? 武士の誇りを忘れたか!!」
「武士、ねえ。もしかして、江戸か明治の出身か? だとしたら多少は理解できたが、いいか? お前の勘違いは、武士=政治家。武士=剣士。故に、剣士=政治家、という間違った三段論法を使っているから生まれたものだ。現代で社会を変えたいのなら、素直に代議士を目指すか、活動家にでもなってデモや仲間集めて政界に進出しろ。剣士であることはむしろマイナスに働くぞ」
悠太は剣に幻想など抱かない。
武仙という剣の極みを知るからこそ、剣がなくとも出来ることを知っているのだ。
「事実、お前は剣で世界を変えられたか? 目にしたか体験したかは知らないが、明治維新で剣が何の役に立った? 明治政府が勝った理由は、最新鋭の銃や大砲、それをもとにした戦術や、盤外で繰り広げられた政略・戦略の数々だったはずだ。もちろん、それは戦国時代でも変わらない。剣で出来ることといったら、テロリズムか暗殺くらいだ」
亡霊は己の口から、反論をひねり出すことが出来なかった。
悠太の目が、同じだったから。泥と曇天の中心で、何一つ映さずに剣を振り続けていた、人形のような目と同じだったから。
「……ならば、お前は何のために剣を振るうのだ? 剣聖と呼ばれるまでに剣を極める必要性は、どこにあるというのだ!?」
「質問の仕方が間違っている。剣は何を為すための道具だ? 剣で出来ることは、何かを斬るだけだ。それ以外の要素は不要だし、不要な要素があるモノを剣とは呼ばない。だから、剣士にはこう聞くべき何だよ――お前は何が斬りたいんだ、と」
亡霊はここにきて、泥の正体を理解した。
あの泥は欲だ。悠太の内に澱む、何かを斬りたいという欲そのものだ。
なればこそ、妖刀《綿霧》が意味を持たぬのも分かる。妖刀の呪詛よりも深く、濃く、煮詰まった呪詛のごとき欲を持つ者に、通じるはずなどないのだから。
「ならば、剣聖よ。お前は何が斬りたいのだ?」
「アレだよ、アレ」
悠太をマネて、亡霊は空を見上げる。
目を眩ませるほどの快晴が広がっていた。
「俺がアレが斬りたくて、剣を学んだんだ。どやったら届くのか、どうすれば不必要なモノを斬らずにすむのかとか、課題は多いが。俺はアレを斬るまでは止まらない」
「……そうか」
あまりにも馬鹿げた理想を前に、身体を支えていた呪詛は力をなくした。
呪詛とエネルギーを失った身体は、今や悠太が握る手によって支えられる。
「遺言くらいは聞いておくぞ。伝える相手がいるなら、だが」
「ならば、剣聖と呼ばれる境地を見せていただこう」
「端からそのつもりだ。使わないと、亡霊を殺せないからな」
武仙流「心」の理・奥伝――祓魔剣、絶招・虚空。
無形を斬る剣を、剣を用いずに十全に振るう。剣すら不要と言わんばかりの絶技は、亡霊を存在ごと斬り裂いた。
(……ああ、君ならば届くだろう。あの……)
消えゆく亡霊が最後に思い出すのは、悠太の内面での出来こと。
沈みゆく光景が逆再生され、己が悠太の内面に降り立ったところで、彼は完全に塵へと返るのだった。
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