逃走劇
一三〇〇万人以上の人口を有する大都市、東京。
世界でもトップレベルのインフラが敷かれているが、人が多ければ闇もまた深い。
「くそっ、くそっ、くそっ、くそがぁぁぁぁ!!」
その場所は、昼だというのに一切の日が届かぬ場所だった。
呪詛を纏い、目を血走らせる男は、無闇矢鱈と剣を振り回していた。
「何でだ、何でだ、何でだぁぁぁ!? 何で、奥伝ですらない女にぃ、俺が負けるんだよぉぉぉ!!」
狂気を孕んだ声が周囲に反響するが、反応する者はいない。
男が持ち込んだ光源では、空間の端にすら届かないほど広いので不思議ではないが。
(――――――)
「ああ、あぁあ、そぉう、だ。理性的になれぇ、ならなきゃぁ、雑魚にだって負けるんだぁ」
男は、頭の中に直接語りかける声に耳を貸す。
近くに魔導師がいたとしても、男以外には届くことのない声に。
「まずは、数ぅだ。兄弟子や師匠はぁ、負けぇたよなぁ? ならぁ、なぁら、時間がいるな。ねずみ算式に増やしていけばぁ」
妖刀《綿霧》の特製を知るのであれば、誰もが思いつく一手。
だが、実行するのは正気を失った者か、狡猾な者のいづれかに限られる。呪詛に侵された者が増えれば増えるほど、露見する可能性が高まるのだ。
この呪詛がもっとも効果を発揮するのは、人知れず感染者を増やせるという点。
感染者に潜ませた呪詛はコントロールする術があれば、露見したときには手遅れという状況を作り出すことも可能。だが、男に出来ることは襲う者を大雑把に指定する程度。数を揃えるよりも前に対処される確率の方が高いのだが、呪詛に侵された男には自分が失敗する姿を想像することが出来なかった。
「決まれば、まずは出てぇ……っ」
焼けるような痛みが、男の足を止める。
「くそ、がぁ……まだぁ、痛むなぁ」
痛みの心当たりは一つ、フレデリカの火界咒だ。
呪詛のみを焼くように調整されただけあり、男の身体に残るのは日焼け程度のダメージのみ。
だが、呪詛に浸食された精神は、小さくない痛みを感じていた。
(――――――)
「だなぁ、傷を癒やさねぇと、剣も振れぇねえからな。ここの陰気でぇ、呪詛を活性化させねえと」
男が光の届かぬ場所を選んだのは、魔導学的に呪詛と相性のいい場所だからだ。
陰陽道の陰陽五行説に照らし合わせれば、そこは水の陰気が集う地点。それも、計算され尽くされた上で水の陰気を集めている。
呪詛の陰気が一つ増えたとして、回復のために消費したとして、バレることはまずない。
(――――――)
「……ぁあ、誰だぁ?」
「本当にいるとは」
バレるはずのない場所に、初老の達人がいた。
「師匠ぉ? なんでぇ、いるんだぁ?」
「ケジメをつけるためだ」
男に残された、数少ない理性は知っている。
潜伏先に選んだ場所は、国が管理している特殊な施設。偶然入る者はおらず、そもそもが人の意識にのぼることがない場所。
限りなく安全で、見付かるはずのないそこに、男の師と兄弟子達が集結していた。
「残る《綿霧》は、お前の保有する一つのみ。おとなしく」
「甘いんだよぉ!」
男は光源のランタンを踏み砕き、師に斬りかかった。
不意を突いたのに、脇腹を軽く斬ることしか出来なかったが、呪詛の発動条件は満たした。
「さぁ、師匠! もう一度、剣聖をぉぉ?」
「無駄だ。《綿霧》は研究され尽くされた呪詛。あるとわかっていれば、対抗策などいくらでもある。儂を含めた二三人。二度と振るえぬ身と知れ――やれ」
完全な暗闇の中、剣士達は迷いなく男に斬りかかる。
「おい師匠ぉぉぉおおお!! 武門の誇りはどこぉに捨てたぁぁぁ!?」
「黙れ。このような不祥事を起こし何が誇りか。儂の代で流派を潰すことに思うことがないわけではないが、それを拭う機会を与えられた以上、一人の武人として責を果たすのみ」
己の半生を捨てるに等しい覚悟は、弟子達を奮起させた。
魔導や科学によって暗視を得た彼らは、殺しても構わないという覚悟で襲いかかる。
(――――――)
「ぁあ、あぁ、この数は無理だぁ」
呪詛に侵されようと、男は剣士だ。
兄弟子や師匠は己よりも優れた剣士であり、呪詛によって操れたのは不意を突いてのことだと理解している。油断なく、そして《綿霧》の呪詛に対策を取られている以上、男に勝ち目はなかった。
だから、恥も外聞もなく逃げた。
「追え、追えええ!」
「暗視があっても、見失えば追いつけない! 急げ!!」
「ああ、ポイントまでは絶対にだ! 指示があれば絶対に従え、最優先だ!!」
逃げるのに必至で、男は気付かなかった。
己が師が追ってこないことに。
「……しつぅ、っこい!」
「声が聞こえた、こっちだ!!」
追跡する兄弟子達に演技はなく、本気だからこそ気付かなかった。
追う速度を変え、追う人数を少しずつ減らすことで、とある地点に誘導されていることに。
「……はぁ、はぁ、ぁあぁ」
(――――――)
「ここぉ、かぁ? ……分かったよぉ」
男は、作業用のハシゴを登っていく。
追い立てる声は遠いが、だんだんと近付いてくる。追いつかれるよりも早く登らねば、と焦りながら手足を動かす。そして重い鉄の塊を押し上げ、男は外に出た。
「…………っ、まぶし」
男が潜伏していたのは、地下施設だった。
雨水を逃がし、東京を水没被害から守るための巨大施設。
ずっと地下にいたため開ききった瞳孔が、外の光に慣れるまで男は無防備だった。
「逃げ、きったぁ……のか?」
思考がまともであれば、違和感を覚えただろう。
ハシゴを登る音は響いていたはずなのに、兄弟子達が諦めるはずがないと。
「はは、ははは、は……っっ。次はぁ、どこに隠れるか」
「俺がお前を逃がすと思っているのか?」
「誰だ!」
男は、またもや失態を犯す。
声をかけた相手を認識して、固まってしまったのだ。
呪詛も、理性も、狂気も、すべてが吹き飛んで真っ白になったのだ。
「誰だ、ねえ。お前が望んだ剣聖だ。色々と手間をかけたが、やっと会えたな」
最弱の剣聖――南雲悠太。
男が負けたフレデリカの師であり、男が斬りたくて斬りたくて仕方ない相手が、目の前にいる。
「剣聖、剣聖、剣聖ぇぇぇええええええ!!」
がむしゃらに、無心に、衝動のままに斬りかかった。
身体の動く限り、息の続く限り、後のことなど考えずに、ただただ斬りかかった。
「んー? フーは本当にこんなのに負けたのか? 残念とか以前に、論外だぞ」
男がどれだけ斬りかかっても、悠太には届かない。
髪の毛一筋分の差で、男の剣は外れてしまう。あまりにもギリギリの距離に、霞や幻に斬りかかっているような錯覚さえ受ける。
後一歩、ですらない距離。
それを自覚してしまった男は、ついに剣を振るう腕を止めた。
「……はぁ、はぁ、はぁ、……くそ」
「気は済んだか? じゃあ、もう一度だ」
悠太は歩いて距離を取る。
二・八メートル。ちょうど、剣道や魔導剣術の試合を始める距離だ。
「なんの、つもりだぁ……」
「時間が合ったからな、色々と考えたんだ。どうするのが一番良いのか」
呪詛を祓うだけなら、祓魔剣を一当てするだけなので剣すらいらない。
だが、それでは簡単に終わりすぎる。剣聖の畏怖を知らしめることは出来ず、同じようなマネをする模倣犯が出ないとも限らない。
悠太は、何もかもを砕かねばならなかった。
二度と剣聖や、剣聖の縁者を襲うなどと思う芽さえも。
「こい。自尊心からアイデンティティーまで全部、斬ってやる」
「……はっ、剣も持たないでか?」
「お前ごときに必要があるか? フーの一足一刀をまともに受けも出来ないお前が?」
「……ふざぁけるな。俺はぁ、あの女に勝ったんだぞ!!」
「勝った人間はな、穴蔵の底に逃げないんだよ。あと隠れ潜む以前に、呪詛の対応でも負けてるな。フーは自力で祓って、お前は乗っ取られかけている。外道に落ちる前に、警察に自首するのをオススメするぞ」
「黙れぇぇぇえええ!!」
男の剣はやはり、悠太には届かなかった。
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