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ヘイジーワールド(パイロット版)

作者: 芝大樹

 カスミは焦っていた。机に並ぶ行列は、お構いなしに次から次へと自分の前に割り込んでくる。

 長机の向こう側でパイプ椅子に腰かけた人物も、そんなカスミに気をとめるふうでもなく、手にした封筒を割り込んできた人々に機械的に渡していく。

 だが、カスミは無視されることにも、順番を抜かされていくことにも腹は立てていなかった。

 それよりも、実際のところ、やはりカスミは焦っていたのだ。

 このままでは、自分の存在を気づかれることもなく、机は片付けられてしまうだろう。それは命にかかわる――大げさではなく――切実な問題なのだ。

 いよいよ行列は途切れ、その人物は席を立った。長机の端に手をやる。

 ――片付けられる!

 何か方法はないものか、カスミは必死に考えた。自分をどうやったって無視できない、なんとしてでも気づかれる方法を――。

 そして、叩きつけた。

 まるで感情をぶつけるように、自分の持ち場が記入された紙を、ばんと盛大に机に叩きつけた。

「ああ……」

 その人物は、カスミにでもなく、また勢いよく叩きつけられたその音にでもなく、ただ机に置かれた用紙に反応したみたいであった。その紙に書かれていたアルファベットと数字の無機質な羅列に。

 その人物は用紙と同じ符号が印刷された封筒を探して、机の上に置いた。

 カスミはその封筒を奪うようにして、ポケットの中に突っ込んだ。そそくさと、その場を立ち去る。

 ともかく、これで今晩は久しぶりのご馳走にありつけそうだ。

 ――アキラ、喜ぶだろうな。

 にかっと笑う少年の顔をカスミは思い浮かべていた。


 帰り道、カスミはスーパーに寄って夕食の材料を購入していた。

 カゴいっぱいに――というわけにはいかない。無駄なものを買う余裕がなかったのもあるし、何よりもたくさん購入したところで、結局はそれらをダメにしてしまうのがオチだったからだ。

 ――冷蔵庫があったら、冷たいもの、いつでも飲めるのにな。

 そんな、考えても仕方のないことを頭に浮かべながら、カスミはセルフレジに向かった。

 セルフレジがある店は本当にありがたい。ここでもレジに並ぶ行列があれば、やはりカスミは簡単に割り込まれてしまうだろう。だが、この時間帯はスーパーに来ている客自体が少なく、カスミはすぐにセルフレジで商品の購入処理をすることができた。

 もちろん、その間もレジに客は来る。だが、カスミが商品のバーコードを読み込んでいる途中で、そのレジに割り込んでくる人間はいなかった。

 カスミに気づいていたわけではない。レジの表示画面を見て、そこが今利用中であることをただ認識しただけのことであった。


 カスミは住処――どんなに頑張っても家とか部屋とは言えない――に向かって、街中を歩いていた。

 歩く――ただそれだけのことなのに、どうしてこんなにも困難なことのように感じるのだろう。

 スマホのながら歩きをしている人間だけでなく、普通に前を向いて歩いてくる人間にも気をつけなければならない。

 誰もが遠慮なくカスミにぶつかってこようとする。どうしたって、カスミの方が避けなければならないのだ。

 うっかり追突してしまっても、相手は気にとめるふうでもなく、ただ何かの障害物に当たったのかと顔にハテナマークを浮かべるだけだ。それはそれで気が楽ではあったが――。

 だが、それでもやはりぶつかってしまったときには、カスミは小さくごめんなさいと呟いてしまうのだった。

 街中を歩いていると、ときどきカスミは自分が見られているんじゃないかと感じるときがある。もし自分の姿を瞳に映すことができる者がいるなら、それは同じ境遇――仲間と言っていいものかどうか――の人間だ。

 だが、同じだからこそ、その相手から自分に声をかけてくることはないだろう。どっぷりとその状況に浸り、体の芯まで受け入れてしまった者達からは――。

 そう思うと、私はまだそこまでは踏み込んではいない、手前でとどまっている、まだマシな方なのかも――と考えてしまう。

 ――いや、五十歩百歩だ……。

 私もいつかはそうなるのかもしれない。

 働かなくても、お金も物も何だって手に入る。盗めばいいのだ。盗んだところで誰も気にもとめない――要は気づかないのだ。

 盗まれたことは、売上の金額や定期的なルーチンワークの際に数が合わないと騒がれるか、そもそも気にすることさえないのかもしれない。

 しかし、そういった行為に及ぶことは、今のカスミにはまだ抵抗があった。罪悪感があった。

 余程のことがない限り、つまりはいよいよ自分の命に危険信号が灯りそうになるときでなければ、その――ヒトが定めた――罪に手を染めたくはなかった。


 街角の何気ないビルとビルの間の路地――隙間というのが正解だろう――にカスミは入っていった。人一人がなんとか通れる幅しかない。

 空気が澱んでいる。ここでは、すべてのものが循環システムの輪からはずれ、滞留を余儀なくされている。

 恐竜が地上を闊歩していた時代から、例外なく空気は折り重なり、堆積し――その密度はひどく濃く、そして重かった。

 足を一歩前に出すだけでも、まるで水の中を進んでいるときのように、何かが糸を引いて抵抗してくるようだった。慣れない濃密な空気に肺もぜいぜいと苦しめられる。

 やがて、どうにかして路地を抜けると、そこにはぽっかりと空間が口をあけて待っていた。中央には――まるでその空間が避けるようにして――一棟のビルが取り残されていた。

 人は忘れられる。

 場所もまた、忘れられていく――。

 ここはそういう場所の一つであった。

 カスミはビルの非常階段をためらうことなく上がっていった。

 そのビルは当然のように閉鎖されていたし、仮に入れたとしても電気は通じておらず――つまりはエレベーターも生きてはいなかっただろう。

 幸いにも――本当に幸いなのかは分からないが――ビルは五階建てであった。これがタワーマンションだったなら目も当てられない。

 カスミは屋上に上がった。そこには生活感のある景色が広がっていた。

 どこかから拾ってきた古びた木箱の上にはコップや皿がのっていた。ブルーシートでつくられたテントらしきものも見られた。物干し竿には洗濯物が揺れていた。その隙間から、澄んだ秋空がのぞいていた。

「おかえり」

 幼い声がカスミを迎えた。ブルーシートのテントから少年が姿を現した。

「もしかして、今日はご馳走なの?」

 カスミは手に下げていた袋を持ち上げ、にこりと笑顔を浮かべた。つられるように、少年も微笑んだ。


 中学三年の春、突如、私は世界から忘れられてしまった。

 こんなことってある?

 どうして、私は友達からも、そして家族からも、忘れられなければならなかったのだろう……。


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