暗い念
そのまま、維月は問題なく過ごしていた。
最初は維心も十六夜もそれは案じて、維月の一挙手一投足をつぶさに見て気を遣っていたが、問題なく月にも昇る事が出来て、碧黎が行なった処置が上手く行っている事が分かってから、段々に案じる事も無くなった。
今はあちこちひと月おきぐらいに月と地を行ったり来たりして、地上の平穏を保つ努力をしていた。
とは言っても、地も月も、陰は存在しているだけで良いので、何かをしているわけではない。
それでも、居るだけで穏やかに保つ事が出来るのだから、やはり存在には意味があるのだなと維心も理解していた。
そんな最中、今は地の陰である維月が、居間で庭を眺めながら、ふと、ため息をついた。
隣に居た維心は、その深いため息に気になって維月の顔を覗き込んだ。
「維月?何か見えたか。」
維月は、維心を見た。その目は落ち着いていて深く、陰の地の時の光だった。
「はい…。父とは意識はもう繋がっておらぬので、父が何を見ているのかは分かりませぬ。父は、私よりずっとたくさんの事を見聞きして理解し、同時に数ヵ所に存在する事すらやってのけるので、私とは処理能力が圧倒的に違いますの。ですけれど、月の時には見たくても見えなかったものが、簡単に見たいと思っただけで見えまする。何しろ、皆が皆地上に存在しておりますので。」
維心は、頷く。
「何か見えたか。」
維月は、下を向いて頷いた。
「はい。本当にもう、どうしているのかしら、と思っただけで見えますの。とはいえ、私は見たいと思ったその場所しか見えませぬ。恐らく母は慣れておったので、父のように広域に何ヵ所も見ておれたのでしょうけれど、私にはまだ無理。今は…」と、また息をついた。「千夜殿ですわ。そして、瑤子殿。私は幸せだなあと思った瞬間、ふと、あのお二人が気になりましたの。そうしたら…パァッと重なるように二ヶ所が見えて。私は同時には見られないので、まずは千夜殿、そして瑤子殿を見ました。」
あの二人か。
維心は、思った。
千夜は炎嘉によると離宮に捨て置かれ、瑤子は奥宮で出戻りの皇女として静かに暮らしているはずだった。
思えばあの二人は、一度は華々しく神世で皆にかしずかれて過ごしたが、今は不遇の身の上だろう。
「…あまり良うない境遇であろうな。」
維月は、頷く。
「はい。千夜殿はとてもやつれて顔つきも変わっておりました。あれほどに愛らしい顔立ちであったのに、お寂しいようで回りには従う侍女も僅か。高瑞様を恨んでおるようで、そんな恨みの歌ばかりを書き付けて…弓維との婚姻も近いのに、このままで良いのかと案じられます。宮では婚姻の式の準備で慌ただしく、華やかな様であるのに、あの離宮だけはシンと忘れ去られたように静かで。とても見ておられぬ様子でした。」
あれを恨んでおるか。
維心は、顔をしかめた。弓維とはここで仲良く育ったので、あれが行けばそれなりに明るく楽しめるかと思っていたが、恨んでいる異母兄の妃となると無理かもしれない。回りも接することを良しとはしないだろうし、更に恨みは深くなるのでは。
とはいえ、もう婚姻の荷もあちらへ運び入れ、式の日は迫っていた。
「…今更高瑞に婚儀を先送りにとは言えぬし、先送りにしたからと良くなることでもあるまいな。」
維月は、また頷く。
「はい。恨みはとても深いようなので、とても一朝一夕には晴らせるものではないでしょう。案じられますわ。」
維心は、話題を変えようと言った。
「それで、瑤子の方は?」
維月は、また遠い目をした。
「…こちらもお寂しくお過ごしであられます。蒼に対する気持ちはもう、薄れておるようですが、こちらは己の不運を嘆いておられて。思えばどこへ嫁がれても大切にされたであろうほど、出来たかたであるのです。それが、駿様の宮の侍女達の事件に巻き込まれたばかりに、あのような事に。悠子様も気を遣ってお訪ねになっておりますが、気は晴れぬようですわ。」
あちらも、あの気の枯渇からいろいろあった。
何より、宇州の気持ちが様変わりし、帰れる妃は帰し、そうでない妃は残してきちんと奥宮に部屋を与えて世話をし、毎日日替わりで通うようになったようだ。
気が復活した獅子の領地では、なので今ではこれまで以上に穏やかに回っているらしい。
そんな中で、不幸な婚姻から帰って来ている瑤子は、それはつらいかもしれない。
確かに不運であっただけで、瑤子自身には何の責もないように見えたからだ。
「…あれも不運であったものよ。しかし、そういう婚姻は多いもの。宇洲は此度の事で考え直してああして順に通うようになったが、普通の王は世話さえしておれば良いだろうという考えであるから。最近でこそ、主がそういう風で、我がそれに従って主だけを貫いておるゆえ、神世の王も少しは遠慮しておるが、宮の中ではどうなっておるかまで我には分からぬ。それに、他の神の後宮の事は、あれこれ詮索せぬのが我らの倣い。だからこそ、炎月が生まれた時も誰が生んだと詮索されずに済んだし、我もそれを許すことが出来たのだ。主も分かるであろう?いちいち奥宮の中まであれこれ聞かれては面倒であろうが。」
維月は、頷く。それはそうなのだ。結局、他人の家庭をあれこれ詮索するのは良くないと維心は言っているのだ。人同士でも、それはしないことだった。
「はい…分かっておりますわ。私も、気になりますし見ないように致します。簡単に見られないように、父に遮断の仕方を教わっておきまする。見えてしまうと、気になって仕方がありませぬので…。」
維心は、頷いた。そうするより、他ないからだ。
弓維の婚儀は、もう二週間後に迫っていた。
二週間後、維心と維月は夜明けから侍女達に慌ただしく着つけられて、高瑞の宮へと向かう準備をしていた。
弓維も、今日は婚儀ということで、高瑞から贈られた婚儀の衣装を身に着けて、今日は龍の装いとはまた違った形に着付けられ、それは美しかった。
準備が終わって居間に並んで座る維心と維月の前に、その美しい弓維が訪ねて来て、深々と頭を下げた。
「お父様、お母様。本日、高瑞様の宮へと参ります。これまで、何くれとなくお世話をして頂き、またいろいろな事をお教えいただきまして、心より御礼申し上げまする。」
維心は、頷く。
「高瑞は穏やかだが芯の強い王。主は目が高いと思うておる。婚儀の衣装を見ても、あちらの職人の腕も申し分無いし、ここを出ても遜色ない生活が出来よう。いつなり里帰りして参って良いからの。心安く参るが良い。」
維月も、微笑んで言った。
「誠に良い縁で望んで嫁ぐことが出来て、大変におめでたいことだと思います。高瑞様は礼を尽くしてくださる大変の心映えの良い神であられますから、あなたも幸福になれると思いますよ。それでも何か困ったことがあれば、あなたにはお父様がいらっしゃるのですから、ご遠慮なくおすがりになれば良いかと思います。」
弓維は、涙ぐみながら微笑んだ。
「はい、お母様。」
そうして、それはそれは美しい弓維を連れて、高瑞からの迎えの輿が待つ、出発口へと三人で向かった。
侍女達にすっぽりと被るベールを被せられ、弓維は迎えに来た高瑞の臣下達と対面した。軍神達も一様に、ベールを被っていてさえ弓維があまりにも美しいので目を見張っていたが、慌てて頭を下げて、それでも赤い顔をしている。
しばし呆けていた喜久が、ハッと我に返って慌てて頭を下げて、言った。
「我は、高瑞様の重臣筆頭、喜久と申します。弓維様を、我が宮へとお迎えすべく、王の命により参りました。こちらは軍神筆頭の、沢と、次席の大伊でございます。」と、後ろに居並び頭を下げる、侍女達を見た。「そして、こちらが我が宮からお迎えに参りました本日から弓維様にお付き致します侍女達でございます。どうぞ、輿へとお進みくださいませ。」
弓維は、会釈を返した。
この宮からついて行く、弓維の侍女達が進み出て弓維を補佐し、輿へと静々と進む。
そして、輿へと入る前にこちらを向き、見送っている維心と維月に深々と頭を下げた。
維月は、それを見て涙が浮かんで来るのを感じた。あんなに小さかった弓維が、自分で愛する神を見つけて、その神に嫁いで行こうとしている。
そう思うと、感無量だったのだ。
維心がそれを気取ってそっと維月の肩を抱いた。
二人は、振り返って輿へと乗り込んで行く、弓維の後ろ姿をそうして見送ったのだった。




