氣2
炎嘉は、何やら慌ただしい宮の中に怪訝な顔をした。
軍の方は宿舎の方が騒がしいのは分かるのだが、戦の準備で宮の中までここまで慌てふためいているのはおかしな話だ。
ここへ来て思ったが、碧黎が言った通り、この領地の中には今、気が全く無い。
…地に見放されたら、こんなことになるのか。
炎嘉は、つくづく碧黎の力の大きさと、その上に生かされているのだという事実を実感した。
筆頭軍神の紫貴に先導されて歩いて行く宮の中でも、脇に赤子を抱いた母親が、必死に治癒の対を目指している様が見える。
…急がねばならぬな。
炎嘉は、自然足を速めて彰炎と共に歩き抜けて行った。
宇洲は、謁見の間で二人を待ち受けていた。
その顔は、焦りと不安のようなものが見え隠れするものの、憤った気を強く感じた。
それでも、それを放つだけの気力がなくなって来ているのか、心なしかやつれているようにも見えた。
彰炎が、それを見て驚いたように言った。
「宇洲?主どうしたのだ。気が半分ほどに減って来ておるではないか。」
宇洲は、唸るように言った。
「うるさいわ。それで、駿から納得のいく答えを持って来たのだろうな、炎嘉。」
宇洲は、じっと宇洲を観察しながら、答えた。
「何も。蒼に来いとは乱暴なと思うてな。主はあれに何の責任を問うてここへ来いと申すのだ。まず呼ぶのなら駿ではないのか。」
宇洲は、イライラと答えた。
「駿が来ぬし皇子ばかりが返事をして来るだけで、どうにもならぬから仲裁に出て参ったあれに言うておるのだ!我は間違っておらぬ。」
炎嘉は、首を振った。
「蒼には関係なかろうが。あれは主に殊の外怒っておるぞ?わざわざ獅子同士の諍いを仲裁しようとしておるのに、出向いて来いとはどういうことだ、との。主、月を怒らせたらどれほどに怖いか、まだ知らぬだろう?あちらの地では常識よ。あの穏やかでおっとりした王が、なぜにあの桃源郷と呼ばれる地を誰にも取られる事無く治めておると思うのだ。月の結界もそうであるが、あの地には、地の化身と呼ばれる命が住んでおる。月は地の子であるから、共に守っているのだ。」
宇洲は、眉を寄せた。地だと?
「地?何ぞそれは。そんなものが何の関係がある。」
炎嘉は、息をついた。
「あのな、主のために言うておるのだ。分からぬか?地というのはこの大地そのものぞ。我らを生かして育む存在。それが地上へ出て来て人型をとっておるのだ。それが生んだのが、月の二人。そして、蒼はその月の二人の息子。あの地にはそういった月の命が住んでおるのだ。簡単には怒らぬが、その優しさに付け込もうとしたら、あれらを守ろうと陽の月と陽の地の二人が出て参る。我らでもあれらの前では無力よ。ゆえ、誰もあの地を取ろうなどと考えぬのだ。主は愚かにも、その禁断の地を手に掛けようとしておるというわけよ。」
宇洲は、炎嘉が果たして本当の事を言っているのかも判断できずに、目をウロウロとさまよさせた。
「手に掛けるなど…ただ我は、蒼に申し開きをさせたいと思うたから来いと申しただけよ!なぜにそうなる!」
炎嘉は、ずいと前へ寄った。
「そんな簡単な事ではあるまいが。瑤子は何と申しておるのだ?また月の宮へ参りたい、蒼の傍にというておるのではないのか。主も月の宮と繋がろうと、蒼を脅して瑤子を押し付けようとしてはおらぬか?主は誠我が何も知らぬと思うておるのか。」
彰炎も、じっとそれを炎嘉の横で聞きながら、宇洲を睨んでいる。宇洲は、目に見えて動揺して、首を振った。
「そのような…ただ、駿の事が!」
炎嘉は、被せるように言った。
「時が無いのだ。我は、主など知らぬが何の関係もない獅子達が犠牲になるのは見過ごせぬ。ハッキリ申すと、ここは地の怒りに触れて命の気の供給を絶たれておるのだ。つい数時間前からぞ。この宮の様子は、そのせいで皆がバタバタと倒れておるのではないのか。」
宇洲は、仰天した顔をした。命の気の供給を…?!!
彰炎も、同じように驚愕した顔を炎嘉に向けている。炎嘉は、へなへなと座り込んだ、宇洲に畳みかけるように言った。
「今すぐに軍を収めて蒼に謝罪せよ。主の領地だけ、このように気が与えられておらぬのだぞ。地の化身は、碧黎と申す。あれは戦など起こさせるわけには行かぬと申して、激怒しておった。老いた者や赤子はもたぬ。主がもたもたと考えておる間に、次々に弱い者から死んで行こう。無益な事を考える前に、蒼に謝罪せよ!一族は戦うことも出来ずに皆殺しにされるぞ。」
紫貴が、慌てて宇洲に寄った。
「王!どうか、どうかお収めくださいませ。先ほどから赤子が次々に命を落としたと連絡があり、それを救おうと気を補充しておった母も死んでおりまする。気が常補充されぬと、我らは皆、死滅してしまいまする!」
人で言う空気のようなものであるしな。
炎嘉は、思ってじっと宇洲を見た。炎嘉は体の中に持っている気が多いので、無駄に動き回らなければ他の神よりずっともつのだが、普通の神なら小一時間気が全く無い場所に居たら、段々に具合が悪くなって来るだろう。そして、己の体の中の気が無くなれば死ぬ。
普段から、何かを食べるという行為をしない神は、命の気を常に少しずつ消費し、そして常に少しずつ補充して体を保っているのだ。
つまり、その土地の気が枯渇してしまったら、他の地で育った食物を摂ってその中の命の気を補充するぐらいしか、方法はない。
神の体を維持するだけの命の気を食物から補充しようと思ったら、かなりの量を朝昼晩と食す必要があった。
月を、知らなかった。
宇洲は、思った。よく考えたらあちらの事情など何も知らないのだ。あの穏やかな様だけで、勝手に簡単に扱えると思ってしまった自分の責。
宇洲は、手を床について項垂れた。
「…我が悪かった。蒼に書状を。蒼は、駿との諍いには関係ない。これからは月の宮に、迷惑を掛けぬようにする。」
彰炎が、炎嘉を見る。炎嘉は、じっと宇洲を睨むように見た。
「それを書状にせよ。我が持って参ってやろうぞ。急げ、あれらは平気で神など滅するぞ。月の眷属は、神とは違う種類の命。こちらのことなど、己らが世話する命ぐらいにか思うておらぬ。あれらの慈悲に触れて、調子に乗った己が愚かだったと、しっかり書くのだ。そうしたら、また命の気をくれるやもしれぬわ。」
宇洲は、紫貴に頷き掛けた。紫貴は、急いで紙を準備し、宇洲は床に手をついて、そこで蒼に向けて書状を書いた。
もう、皆が生きて行けさえしたら、良い。
宇洲は、あれほどに憤っていて、自分が何でも出来るような気になっていたのが、嘘のように自信も無くなり、力も無くなってしまっているのを感じた。なぜにこんな大事にしてしもうたのか、と、冷静になった事で後悔した。
確かに、駿の事は腹が立つのだが、ここまでやるほどではなかったはずだ。蒼のことも、おっとりとした優しい王なので、何かあったら助けてやろうと思ったこともあったのに、瑤子の話を聞いて、あちらへ娶らせたらと思ったら、それがとても良い考えような気がして、そうしたらどんどんとその気持ちが盛り上がって来て、自分が何でも成し遂げられるような、むしろどうして出来ないことなどあるだろうかなどと思ってしまい、強く出てしまった。
炎嘉は、そんな宇洲を憐れむような目で見て、彰炎をその場に残したまま、その書状を手に急いで島へと取って返したのだった。




