知らせ
綾が逝った。
維心は、その知らせを受けて、維月がどれほどに悲しむかと心を痛めた。
たった数日前、皆であのように楽しく合奏をしたのではなかったか。
しかし、あの夜半から綾は目を覚まさなくなり、最後の時に皆と別れを言い、そうして、眠るように亡くなったのだという。
椿が、あの曲を奏でて地の気を呼んだのだと聞いた。
だが、椿の腕前では地の気を呼ぶには難しかっただろう。恐らくは、碧黎が椿の、そう陽蘭の心の叫びを聞いて、気を送ったのではないかと思われた。
翠明は、苦しいであろうな。
維心は、暗い気持ちになりながら、維月にその知らせを持って、居間へと帰った。
「綾様が…!」
やはり、維月はショックを受けて、維心を迎えて立っていたのに、椅子へと崩れた。維心は、慌ててその肩を抱いてなだめ、言った。
「椿が地の気を呼んだらしい。その瞬間だけ意識を戻し、皆に別れを言えたということだ。苦しまずに逝った。あれは、幸福であったと申しておったらしいぞ。」
維月は、泣きながら考えた。地の気…ということは、お父様がきっと、椿の気持ちを考えて、気を送ってくださった。
「お父様…!」
維月が言うと、碧黎はすぐに、パッと目の前に現れた。維心は面白くなかったが、維月が呼んだのだから仕方がない。
「参ったぞ、維月。」
碧黎が言うと、維月はその胸に飛び込んだ。
「お父様…!気を送ってくださったのですか。」
碧黎は、維月を抱き留めて、頷いた。
「あまりに椿が必死になって弾くゆえな。とはいえ、あの腕前ではのう。ヘタであるから反って耳についてしもうて、しょうがないゆえ送ったのだ。」
維月は、涙を流したままの顔で碧黎を見上げた。
「まあ。でも、綾様はそれで目を覚ましたのですね。」
碧黎はまた、頷いた。
「その通りよ。もう逝く寸前であったゆえ、話しが出来るだけ回復させるのは結構な気を要したわ。だがまあ、あれでまだ生きねばならぬ者達の気持ちが違うなら易いものよ。あれは幸福に逝った。我が見ておった。案ずるでない。」
維月は、何度も頷いた。
「はい、お父様。幸福であられたなら、良かったこと…。」
碧黎は、維月の涙を袖で拭いてやりながら、言った。
「いつまでも悲しんでおるでないぞ。主の友はあれだけではあるまい。主は不死であるから、まだまだ維心と共に生きねばならぬ。これからもこのようなことは起こる。しっかりと気を持って、そのように乱すでないぞ。」と、維心を見た。「では、維心に頼もうぞ。我はまだやることがあっての。途中で参った。」
維心が、それを聞いて少しホッとして、維月の腕を引いてその肩を抱いた。
「主も忙しいの。維月の事は任せておくとよい。」
碧黎は、頷く。
「主にしか任せられぬわ。ではな。」
そうして、またパッと消えて行った。
維心は、碧黎が維月に呼ばれて出て来て、さっさと帰って行くのに、まさか面倒が起こっているのではないだろうな、と心の中で思ったが、表には出さなかった。
そうして、西の島南西の宮は、喪に入った。
翠明は大層沈み込み、皇子の紫翠と緑翠でさえ、話しかけるのを躊躇うほどだとか。
椿もそれは沈み込み、会合にすら出て行かなくなった父親の翠明について、慰め合っているようだ。
翠明がそんな様子なので、もっぱら会合には紫翠が出て来ていた。
紫翠は、もう良い歳になっているのだが、まだ妃が居ない。どうも、そういうことには達観しているところがあって、誰を連れて来ても良い顔をしない、と翠明が前に愚痴っていたのを皆知っていた。
しかし、久しぶりに会合に出て来た紫翠は、誰もが見とれるほどの美しさだった。そう、在りし日の綾にそっくりの整った顔、綾譲りの紫の瞳。
美しいものを見慣れた龍の宮の侍女達ですら、思わず見惚れてしまうほど、紫翠は美しく成長していた。
維心と二人並んで座ると、美しさが過ぎてめまいがするほどだった。
維月は、宴の席から戻って行く道すがら、そんな二人が並んで歩いているのを見て、ため息をついていた。
すると、ふと紫翠が振り返った。
「…維月殿。」
維月は、驚いた。あの小さなかわいい紫翠が、なんて立派になったのだろうと思ったが、あちらから声を掛けて来るとは思わなかったのだ。
「紫翠様。本当に、ご立派にご成長なされて。」
紫翠は、微笑んで会釈した。
「我を母の代わりにとお世話くださったのは、はっきりと覚えておりまする。いつも抱き着いておったので、大きな印象を持っておりましたが、このようにお傍で見ると小さくていらして驚きました。相変わらず、美しくていらっしゃる。」
美しいのはあなたよ、と維月は思いながら、微笑み返した。
「あの頃は綾様と引き離されておるのがご不憫で、お傍でお世話しておりましたけれど、誠に凛々しく成長なさいましたわ。綾様も、きっとご安心なさっているでしょうね。」
紫翠は、寂し気に苦笑した。
「母は、あのように老いておりましたので。覚悟は致しておりました。あちらで、我らを心強く見ていてくださったら良いなと思うておりまする。」
すると、維心が割り込んだ。
「紫翠、主はもう赤子では無いのだからの。そのように不必要に美しいのだし、我が妃に軽々しく話しかけるでないわ。維月はならぬぞ?先に申しておくがの。」
紫翠の前世は、あの善良な闇だ。しかし、結果的に維月と十六夜を黄泉へと連れて行くことになってしまう、原因を作ったのが紫翠の前世だった。
自然、維月に惹かれて維月を求め、そして死んで逝ったという恐ろしい前世を持つので、維心も警戒している。
紫翠は、困ったように微笑んで、維心に軽く頭を下げた。
「まさかそのような。我はただ、昔語りをしたいと思うただけでありまする。ですが、今はこれまで。」
紫翠は、落ち着いた様子でそう言うと、あっさりと自分の控えの間へと向かって行った。
維心は、その背を睨みながら、維月を窘めるように言った。
「維月、あれはもうとっくに成人しておって、主と見た目もそう変わらぬ様なのだぞ。いくら赤子の頃に可愛がっておったからと、今は事情が違う。簡単に口を利くでない。」
維月は、維心の気持ちも分かったが、やり過ぎだと維心を見た。
「維心様も皆様も歩いておる回廊の真ん中で、いったい何があると申されますの?紫翠はそんなつもりではありませぬ。綾様を亡くしたばかりで、私という母も居ったと懐かしく思うただけかもしれぬではありませぬか。そのように少しのことで仰るなんて、お心が狭うございますわ。」
大抵のことは聞こうと思っていたが、あまりに神経質な言い分には我慢できない。
維月は、思ってそう言った。
維心は、だから主は美しい男が好きだから案じるのだというのに!と思いながら、機嫌を悪くして横を向いた維月に、言った。
「あれはもう子供でないのだと言うのに。見て分かろうが、あのようにしっかりとして。翠明が名代に立てるぐらいぞ。主は我の妃なのだから、他の男と堂々と話すでないわ。これまで他の男にも簡単には許さなんだであろうが。」
維月は、横を向きながら歩き出した。
「維明も維斗も凛々しく育っておりますが、私が母として育てたので毎日話しておりまする。紫翠だって幼い頃長くこちらでお育てしたのに。炎嘉様、焔様、翠明様などが公の場で私に話しかけて、それに返すのを禁じたことがおありですか?維心様はあちこちご案じなさい過ぎだと思いまする。私を信じておると申して、結局信じておられぬのですから。紫翠だけにそのように、おかしいと思いますわ。」
維心は、ずんずんと先に歩いて行く、維月を追いかけてその手を掴んだ。
「紫翠は美しく若い神であろうが!前世もいろいろあったのだ。案じるのは当然であろう!しかもあやつ、妃があの歳まで一人も居らぬのだぞ?もしや主をと、思うではないか!」
言われてみたら、そうなのだ。前世に取り込まれた闇は紫翠だった。その上、綾譲りのあの美しさ。維心が案じてもおかしくはない。
だが、最近愛を確認し合ったばかりなのに、どうしてそういう思考になるのかと維月は思った。
「陰の月のせいでとか思うていらっしゃいますの?それとも、私という女が他の男にフラフラとついて参ると?まだ信じてくださっておりませぬのね?」
維心は、う、と黙った。陰の月をおとなしくさせられている、と最近安堵したばかりだし、夫は維心だけだと落ち着いて暮らせて幸せだと、話し合ったばかりだったのだ。
それを、維月自身が崩そうとしていると思っていると。
「…違う、そうではない。我はただ不安に…」
「もうよろしいわ。」維月は、くるりと踵を返して維心の腕を離した。「申し訳ありませぬけれど、少しお部屋に帰りまする。一人にしてくださいませ。」
維月が歩き出すと、維心はそれを追った。
「我も参る!怒るでない、我は間違っておるのか。」
維月は、くるりと振り返ると、維心をじっと見た。
「私を信じておられぬのでしょう?考えたいので一人にしてくださいませと申しました。」
維心は、首を振った。
「話さぬと分からぬだろうが!」
「ならば」と、維月はスーッと光の玉になった。《月で考えて参ります。》
「待て!維月!」
光の玉になられると、維心にはどうしようもない。
維月は、さっさと回廊の窓を抜けると、月へと打ち上がって行ったのだった。




