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最後の時に2

しばらく、曲の余韻を楽しんだ後、綾は本当に見違えるように元気な様で、維月と椿と共に菓子を食べながら、茶を飲んで歓談した。

維心と焔、燐、翠明は、そんな三人を眺めながら茶をすすり、合奏の感想などを言い合って、良い時だったと頷き合っていた。

そうしている間に、昼も過ぎて来た。

さすがにこれ以上起きているのは体に障るだろうと、維月は言った。

「誠に、楽しい時でありました。寝付いていらっしゃると聞いた時には大変に案じたものでありますが、こうしてお元気な様子を見られてうれしゅうございましたわ。」

綾は、維月に頭を下げながら言った。

「こうして美しい音を聴かせていただき、お美しい方々にお気遣い頂いて、命が伸びる心地が致します。誠に久方ぶりにこのように楽しい時でありました。」

維月は、微笑んで頷いた。

「誠に我もそのように。また、参ります。」

綾は、薄っすらと微笑んで頷き、焔を見た。

「焔様にも、懐かしい音を聴かせていただきましたこと、我は大変に感謝しておりまする。」

焔は、不機嫌に黙っていたが、それを聞いて、ぼそりと言った。

「…我が宮に貢献した、我が眷属を見舞うのは我の務め。感謝される謂れはない。」

一見、きつい言葉のように聞こえるが、綾は、それを聞いて驚いたように瞳を潤ませた。

焔は、綾を鷲の宮に貢献した女同族と、認めているということなのだ。

綾は、それ以上言葉をつむぐことが出来ずに、ただ頭を下げて焔に答えた。

そうして、そのまま、見送りに出られない非礼を詫びて、そこで皆を見送った。


翠明が、見送りに出ていた。

維心と維月が輿へと乗り込む前に、翠明が進み出て、頭を下げた。

「本日は、感謝し申す。綾のあのような様を見るのは、いつぶりであることか。誠に命が伸びたのではないかと、我も誠嬉しく思い申した。誠に…このまま、元気になってくれれば…。」

翠明は、目に涙を溜めて、そう言った。維心は、その心が痛いほどわかるようで、本当に気遣っているような声で、言った。

「碧黎の気を呼ぶ曲を焔が選んだゆえ、良かったことよ。あれで少しは持ち直そうぞ。主も気を強くもって、ようようあれを見てやるようにの。」

翠明は、声も無く、頭を下げる。

もう、嗚咽が漏れそうで言葉を続けられぬようだ。

維心は、気を利かせて輿へと足を向けた。

「では、帰る。また維月を連れて参るゆえな。」

翠明は頷いて、その輿を見送ることも出来なかった。


その夜半から、綾は褥に入ったきり、意識を戻さなくなった。

あれが最後の力だったのか、その日あれほどに元気に筝を弾き、語り合っていたなどまるで夢のように、綾はこちらの呼びかけにも全く応える事がなくなった。

翠明は綾の傍にずっと詰めて、時があれば声を掛けて何とか意識を取り戻そうとするのだが、それでも綾は、目を開くことが無かった。

いよいよかと、燐も紫翠も、緑翠も綾の傍について、離れることがなかった。

「…あの、地の気を呼ぶと龍王様が仰った、曲を弾いて差し上げたらどうでしょう。」椿が、悲壮な顔で言った。「あの気があれば、きっとお母様は持ち直されまする。」

翠明は、首を振った。

「あれほど見事な演奏が、我に出来るはずもない。地の気を惹きつけねばならぬのだと聞いた。地を魅了するほどの演奏が、我に出来ると思うのか。」

嘆きながらもどこか諦めている翠明に、椿はキッと睨みつけた。

「ならば、我が!」椿は、言って琴を引っ張り出した。「我が弾きますわ!拙い音でも、もしかしたら地は意識を向けてくれるやも…。」

椿は、琴に向き合った。まだ少しも得意ではないし、綾にも何度もそうではないと正される腕前だ。

それでも、母の意識を戻すためには、これしかないのだ。

椿は、あの時聞いた焔の主旋律を、脳裏に思い浮かべながら、弾いた。

調子っぱずれになるのが分かるが、それでもそれを、やめなかった。母を助けたかった。もう一度、母の声を聴きたかった。ここまで育ててくれた母と、今一度だけ話してみたかったのだ。

椿が必死に琴を弾いていると、不意に、脳裏にいつか聞いたような、いや、ずっと聞いていたような、魂の底から懐かしいと思う声が、浮かんだ。

…誠にしようのない奴よ。

そしてその瞬間、ブワッとその周辺一帯に、地の気が吹き上がって来た。

「あ…!」

椿は、その濃い純粋な気を見上げた。なんと懐かしく心強い、そして愛おしい気であることか。なぜか我はこれを、知っているような気がする。そして、どこか物悲しく思っている気がする…。

「…まあ。そのような調子っぱずれな音を。目が覚めてしまいましたわ。」

綾が、目を開いていた。

「綾!」

翠明が、握っていた手の力を入れる。椿も、弾いていた筝を投げ出して綾の元へと駆け付けた。

「お母様!」

地が、気を送ってくれた。

椿は、涙を流した。綾は、それを見てフフとわずかに笑った。

「そのように子供のように。でも、確かにもう、最後ですもの。我の母が迎えに参っておりまする。椿、これから先も、己で道を切り開いて参るのですよ。あなたは、我が誰に恥ずかしくないように育てた皇女。あなたなら大丈夫。しっかり励むのですよ。」

椿は、空いている方の椿の手を握りしめて、ただ泣いた。

「お母様…。」

次に、綾は燐の方を見た。

「燐。」燐は、黙って進み出る。綾は続けた。「あなたには苦労を掛けました。鷲の恥と言われておった我を、あなたは助けてくれた。感謝しておりまする。」

燐は、涙を浮かべて、言った。

「母上は、恥などではありませぬ。焔も、そのように。」

次に、綾は紫翠と緑翠の方を見た。

「紫翠、緑翠。あなた達は、お父様を助けて、どうかこの宮を尚一層発展させ、神世で滞りなくやって参れるように努めてね。紫翠も、そろそろ身を硬めねば…緑翠を見習うと良いわ。」

言われて、紫翠はバツが悪そうな顔をしたが、頭を下げた。

「はい、母上。」

最後に、綾は翠明へと視線を向けた。翠明は、もう涙々でとても綾の顔を見れる状態ではなかったが、それでも必死に涙を拭い、綾を見つめた。綾も、僅かながら翠明の手を握り返した。

「王。あなた様には感謝しても仕切れぬ思いでありまする。あのまま、日陰の身となりこのような晴れがましい地位には就けぬはずであった我を、正しく導き、最後までお世話くださったこと、我は感謝しておりまする。我にやり直す機を与えてくださった。我に本当に愛おしいものとは何かをお教えくださった。あなた様がいらして、我は幸福でありました。この上は、これまで我だけをお守りくださったのですから、我亡き後は、どうぞどなたかをお迎えになり、この宮を更に大きくなさってくださいませ。」

翠明は、何度も首を振った。

「そのような…主以上の妃など、あるはずもない。主がそのようだから、外は見劣りしてしもうて迎えなんだだけぞ。無理をして主だけだったのではない。主があまりに出来るゆえ、他など要らぬと思うておった。主を亡くすなど…我には耐えられぬ。」

綾は、翠明を見つめて、涙をこぼした。

「そのような事を仰って。なりませぬ。あなた様はこれからも、長い生がございます。我は老いて先に逝く。ですけれど、いつかあなた様が来られる時には、必ずお迎えに参ります。ですからそれまで、どうぞ責務をお果たしになってくださいませ。」と、息をついた。「…もう、時ですわ。話す時を、戴いただけですの。我は参ります。」

「綾!」

「お母様!」

「母上!」

皆が見守る中、綾は愛おしそうに皆を見回した。

「ああ…我は幸福でありました。誠に、何と幸運なこと…。」

綾は、最後にそう言い残すと、スッと目を閉じて、全く苦し気でもなく、ただ眠りについたように、息を引き取った。

西の島南西の宮には、皆が号泣する声が響き渡った。

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