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最後の時に

それから、箔炎は病床の綾を見舞い、その希望通りに箏を奏でて聞かせた。

綾は、寝台に横になったままそれを聞き、そして翠明と、特に椿の琴をそれなりにすることが出来なかった事が心残りなのだと箔炎に訴えて、どうか二人をお願い致します、と箔炎に願った。

それは、暗に椿を頼むということなのだと箔炎にはわかったが、表向きそれに気付かぬふりをして、任せておくがよい、と答えた。

箔炎にしても、椿とまた過ごして行くことには心が沸いたが、しかしそう簡単なことではない。

駿もあのように執着したままな今、椿自身の気持ちもあり、簡単には宮へ来いとは言えなかった。

なので、帰り際に椿を呼んで、話をすることにした。

椿は、暗い顔で箔炎の待つ控えの間に来たが、言った。

「…母の無理なお願いを聞いてくださってありがとうございます。誠に良い音でありました。」

箔炎は、頷く。

「なんでもないことよ。座るが良い。」

椿は、言われて箔炎の前に座った。箔炎は、言った。

「我としては、主のこれからを案じておるのもあるが、まずは駿よ。あれは未だに主と話したいとこの宮に参るのだそうだの。」

椿は、表情を固くした。

「はい…ですけれど、我の中ではもう、終わった事でありまする。駿様には瑤子様もいらっしゃるし、この上はお二人で、仲睦まじくしていただきたいと思うておりまする。」

箔炎は、無表情で言った。

「あれの中ではまだ終わっておらぬ。」と、身を固くする椿に続けた。「突き放すなら納得行くまで突き放してやるが良い。綾があの様子なので、今すぐにとは言わぬ。あれがあのままでは、世の誰も獅子との関係を考えて、主とまともに接する事が出来まい。きっちりと引導を渡してやって、主も、それから、あれもこの呪縛から逃れさせてやるが良いぞ。主がやっておるのは、生殺しよ。恨みは買うものではない。」

椿は、項垂れた。確かに駿の話もしっかり聞かず、強引に父に迎え取らせて帰って来てしまった。駿は、まだ椿を引きずって先に進めずにいるのだ。

ならば、箔炎が言うようにこちらから完全に引導を渡さねばずっとこのままだろう。

「…分かりましたわ。」椿は、箔炎の顔を見て、答えた。「お互いに縛られたままでは確かに不幸。今はとてもそのような心地にはなれませぬが、必ず機会を作ってお話することをお約束致します。父から、あちらへご連絡してもらいますわ。」

箔炎は、やはりその辺の女とは違い、判断が速いの。

と好ましく思いながら、満足げに頷いた。

「それで良い。お互いに良い未来へ参れるようにの。」

箔炎は、そう言い置いて、西の島南西の宮を後にしたのだった。


それから数日、今度は維心と維月が、やって来ると先触れがあった。

公に来る時は、龍王ともなると数週間、場合よっては数か月前に打診があるのだが、今回は忍びで供もほんの数人だけを連れて来るということらしい。

恐らく、維月が綾に会いたいと言ったので、維心が連れて来ることになったのだろうと思われた。

椿は、父からそれを聞いて、父が準備に駆けずり回っている間に、綾にそのことを告げた。

「お母様、維月様がいらっしゃいますわ。きっと、お母様が病だと聞いて、龍王様にどうしてもとお願いされたのでしょう。龍王様がわざわざお忍びでお連れになられるようです。」

綾は、昏々と眠っていたのだが、それを聞いて、ハッと目を開いた。

「…維月様がいらっしゃるの?」

椿は、驚いて頷いた。

「はい。お母様が箔炎様の琴を聴かれたと聞いて、ならば己も十七弦を弾けば、少しはお元気になられるだろうか、と文に書いて来られて。維月様のお琴がまた聴けまするわ。」

綾は、身を起こした。

「龍王様と龍王妃様がいらっしゃるのに、このような病床にお呼びすることなど出来ませぬ。着替えを。お琴を弾かれると申すなら、畳の間に出るわ。」

椿は、慌てて綾を止めた。

「そのようなことはお心おきなくと仰っておるのです。お母様、寝ておられねば…。」

しかし、綾は首を振った。

「何を申すの。疲れるから寝ておるだけよ。この時のために体力を蓄えておったのだと思えるわ。我は平気よ。」

綾は、今の今まで起き上がることも出来ないような様子で眠っていたのにも関わらず、スッと起き上がるとゆっくりと足を寝台の下へと下した。椿は、慌ててその綾を支えようとしたが、綾は首を振った。

「だから平気だと申すのに。早く着替えを。軽い物なら正装でも大丈夫よ。畏れ多くも龍王様が来られると言うのに。早うしなさい、お待たせするようなことがあってはなりませぬ。」

綾は、仕方なく戸惑う侍女達に指示をして、綾をなるべく軽い着物で着付けさせた。

見違えるように美しくしっかりした綾を椅子に乗せて、そうして宮の畳の間へと綾を運んで行ったのだった。


維心と維月が西の島南西の宮へと到着すると、翠明が出迎えてくれていた。そして、なぜか脇には、焔がむっつりと立って、こちらを見ていた。

維心は、維月の手を取って輿から下しながら、驚いた顔をした。

「何ぞ焔、主は何をしておるのだ。」

焔は、答えた。

「燐が綾の子ではないか。ゆえに一緒に参ったのよ。しばらく燐はここに厄介になるそうな。だが、主とていきなり何ぞ。維月だけ来させたら良かったのではないのか。」

維心は、そんな焔に同じようにむっつりと答えた。

「いきなり来るのに維月だけなど警備を考えても無理であるからぞ。我が共なら維月に何かあることは無いからの。主こそ燐だけ来させたら良いのに、なぜに共に来たのだ。そっくり返すわ。」

焔は、渋い顔をした。確かに、いくら兄がこちらへ来るからと、焔が来る必要はないのだ。焔が王なのだから。

「…あれの様子は気になるからの。同族であるのだ、我が眷属なのだからな。あれは少なからず宮に貢献したのは事実であるし、それぐらいはの。」

焔も、気にしていたのだ。

維月は、何か温かい気持ちになった。綾が、遠い鷲の宮での日々を思い出して、懐かしんでいたのは事実だからだ。

翠明が、言った。

「わざわざのお越し、感謝し申す。綾はあちらでお待ちしておるので、ご案内しよう。」

維心は維月を見てから頷き、そうして、宮の奥へと歩いて行った。


すると、翠明に案内されたのは、奥宮でも入り口付近にある畳が敷かれた庭を見渡せる部屋で、そこで綾は、正装をして頭を深々と下げて待っていた。

「まあ!」維月は、慌てて維心から離れて足を進めた。「綾様、寝ておられぬで良いのですか。枕も上がらぬと聞いておったのに、ご無理をしておられるのでは…。」

綾は、顔を上げて微笑んだ。

「龍王様と龍王妃様が来られるのに、寝てなどおられませぬわ。そもそも疲れるから寝ておっただけなのに、皆が皆、大層に申すのです。本日は誠に、ようお越しくださいました。」

維月は、綾の手を握り締めた。

綾は、そうは言ってもとても痩せてしまっていて、どう見ても大丈夫だとは思えなかった。それでも、とても嬉しそうに眼はキラキラと輝いていて、維月は微笑み返した。

「本日は、我の琴をお聞かせしようと参りましたの。我が王もお手伝いくださるとおっしゃって。それに、綾様がお好きな菓子も持って参りました。どうぞお召し上がりになりながら、お聞きになってくだされば。」

綾は、侍女がスススと進み出て、目の前に差し出す塗りの箱を見た。綾の侍女が、その蓋を開いて、中を見せる。

そこには、美しく小さなイチゴのタルトが行儀よく並んでいた。

「まあ!嬉しいですわ…このように美しい菓子をお持ちくださっただなんて。」

維月は、微笑んだ。

「我が作りましたの。王にお味見して頂くと、よくできておると申してくださって。どうぞお召し上がりくださいませ。」

綾は、それを聞いて目を潤ませた。

「維月様お手ずから…」と、袖で口を押えた。「誠に嬉しいこと。それでは、ご合奏の後に共に戴きましょう。及ばずながら、我も筝を。」

維月は、仰天した顔をした。

「え、綾様が?あの、ですがお体に障るのでは。」

しかし、綾は断固として譲らぬ構えだった。

「拙い琴でありますが、今一度維月様と共に弾きたいのです。龍王様もいらっしゃるなど、我は何と幸運なことか。」

椿も、後ろから綾を止めた。

「お母様、つい先ほどまで横になっておりましたのに。急にご無理はなりませぬ。」

綾は、キッと椿を見た。

「あなたは黙っておりなさい。これが最後と申すなら、我だって皆様とご合奏したいと無理を申しても許されるはずよ。このような機会、次はいつだと申すの。」

言われて、椿はぐっと黙った。維月も戸惑っていると、後ろに座っていた、焔が言った。

「…ならば、我も。」維月が驚いてそちらを見ると、焔は続けた。「燐も呼べ。あれは十三弦の名手ぞ。綾が出来ると申しておるのだから、聞かせてもらおうではないか。」

それを聞いて、維心も頷いて、維月を見た。

「我も綾と共に弾く。維月、皆で楽しもうぞ。」

維月は、綾を見て、頷いた。綾は、それは嬉しそうに笑うと、深々と頭を下げた。

「ならば我は筝を。皆様、ありがとうございます。」

翠明は、躊躇いながらも侍女に指示して、綾の琴を持って来させた。焔が鷲の宮から持って来た、昔から綾が愛用していた筝だった。

維月と維心の前にも、十七弦が並んで置かれた。龍の宮から持って来た、龍が作ったものだ。焔は和琴と呼ばれる六弦のものを、燐は十三弦のものを、前に置いて、構えた。

「我が中心の音を。皆はそれに合わせてくれたら良い。」

焔が言う。一番難しい形だな、と維月は思った。維心と共に練習して来た曲を、弾くだけのつもりだったのが、いきなり即興の合奏になってしまったのだ。

維心が、言った。

「ならばゆっくりとな。あまり激しい調子であると疲れよう。」と、維月を見た。「主は我に合わせたら良い。我の音をよう聞いておれ。」

同じ音を弾けってことね。

維月は思い、頷いた。目は良いので、維心がどうやってどうしようとしているのかは、これまでの経験もあって予測は出来る。超絶技巧とかされない限り、維月はそれにぴったり合わせていける自信があった。

「では、参るぞ。」

焔が、旋律を奏で始めた。

それは、維心も良く弾いている、神世では有名な曲の、地を讃え命を喜ぶ曲と言われる、題名の無い曲だった。

維心が構え、維月もそれに倣って、弾き始める。

すぐに綾と燐も加わって来て、一気に曲に深みが増してそれは美しく、地が震えるような波動がして、身が熱く震えて来るのを感じた。

…お父様の気が、ここへ集中して来ておるような。

維月は、思った。宮で維心が弾いている時も、地からの命の気の供給が、その時多くなるような気がしていたのだ。

それが、今ここではかなりの量が集中してこの辺り一帯に湧き上がり、皆を包んで満たしていくのが分かる。

命を育む地の気が、ここへ潤沢に湧き上がって来るのだ。

綾の頬に、赤みが増していく。音は冴え冴えと響き渡り、宮全体が震えるかのようだ。

綾の筝の音は、段々に力強くなった。維月も、それを聞いてそれは嬉しく、演奏にも力が入る。

維心が優しく維月をいざなうように弾いてくれるので、維月にも音を楽しむ余裕が出来た。燐も、綾が育てただけあって、それは素晴らしい音を奏でていた。

焔の力強いが繊細な和琴の音が、そうして演奏を、名残惜し気に、終えた。

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