桃源郷
宇洲は、うろうろと歩き回っていた。
瑤子から来ていた文では、月の宮に居たいと望んでいて、獅子の宮へは帰りたくないと言っていた。なので、その方向で考えて、神世の桃源郷だと聞いている、月の宮の王の蒼にうまく取り入ることが出来たら、と思っていたのだ。
それにはまず、こちらではなくあちらから離縁させ、失意の瑤子を引き続き月の宮で世話してもらうように頼み、滞在を長引かせて蒼に何とか娶る気持ちになってもらおう、と考えた。
宇州も瑤子を訪ねて一度、彰炎に頼んで炎嘉に渡りをつけてもらい、そうして炎嘉と共に訪れて驚いた。
あの宮は、正に夢のような場所だ。
瑤子も、こちらに居たときには考えられないほど明るく生き生きとした顔をしており、お父様お父様と子供のようにはしゃぐのが、可愛くて仕方がなかった。
これは何としてもあの宮に瑤子を置きたいと思って駿にもう要らぬと言わせようと、うるさい舅を演じてみたが、駿はのらりくらりとしていて、一向に何も言って来ない。
それなのに瑤子を訪ねるわけでもなく、いったい駿が何を考えているのか、宇州にも分からなかった。
遂に瑤子が蒼を想っているようだ、と初子から文をもらい、これはいよいよともういっそこちらから引導を渡そうかと思っていたら、痺れを切らした蒼が、瑤子を獅子の宮の駿のもとへと返してしまったのだ。
これでは、蒼に娶れと言えぬ。
宇州は、頭を抱えた。駿のもとに帰ってしまえば、そこの妃であり駿が世話をしていることになるので、簡単には離縁しろとは言えない。
そして、そういう関係である以上、蒼にも婚姻を打診することも出来なかった。
あのおっとりと優しく穏やかな王である蒼になら、強く押してこちらに迎え取らずにおけば、そのうちに根負けして娶ると思っていたのに。
全てが水の泡となってしまった今、宇州はイライラとただ悩んでいた。
一方、瑤子も沈み込んでいた。
ここへ帰って来てしまったからには、もうあちらに行くことは叶わない。
いつものように部屋で寛いでいたら、いきなりに侍女達が大挙してやって来て、初子が止めるのも聞かずに着て来た着物に着替えさせられ、軍神達に囲まれて輿へと強制的に乗せられた。
最後に蒼様にご挨拶を、と言う瑤子に、王からのご命令であって、ご存じであられますと言われ、あっさりと飛び立った。
どこへ連れて行かれるのかと怯えていると、この獅子の宮が見えて来て、自分は返されたのだとやっと気付いた。
思えば、療養にしては長過ぎる滞在だったのだ。
蒼は、何も言って来ない駿に痺れを切らし、怒って駿に突き返したということのようだった。
…蒼様は、我の事など何も思うてくれていなかった。
瑤子は、落ち込んだ。維月に想っているのは蒼だと告げた時、何やら複雑な顔をしていた。そして、蒼はあなたの思うような神ではないのよ、と言ってあまり乗り気でないようだったが、もしかして、維月は知っていたのかもしれない。蒼が、簡単に誰も娶らないということを。
何しろ、あのように優しく穏やかな王の蒼が、ただの一人も妃が居なかった。
昔は居たようだったが、皆寿命を迎えて旅立ったようだった。
月は不死なので、あれで蒼はかなりの時を生きているらしい。
自分がお慰め出来たらと考えていたが、よく考えると自分は駿の妃。
そんな風には見てくれないのは当然だったのだ。
もしかして略奪してくれるのでは、などと甘い夢を見ていた。
だが、蒼は誰に対しても穏やかで、他の王との間に波風を立てようなどと考えるはずもなかったのだ。
帰って来た宮では、侍女達が一掃されてあり、新しい侍女達は、騮や騅が選んだ前の侍女達とは全く接点のない者達で、瑤子にも好意的で前のようにピリピリした様子はないのだが、それでもあまりに帰って来てからの瑤子が沈んでいるので、皆遠巻きにしていた。どうやら、まだ子を亡くしたことから立ち直れていないと思っているらしく、気を遣ってあまり傍にも寄ることは無かった。
聞いていた通り、椿は宮を辞して父王の宮へと帰っているようだ。
初子が聞いて来たところによると、椿は自分を疑っていた王に見切りをつけてしまったということらしく、駿は椿を失ったショックで政務も滞っていたらしい。だが、今は普通に政務をしていて、瑤子には会いに来ることは無いものの、着物や必要な物は届けさせてくれ、生活は困っていない。
世間には、妃がたくさん居る王も多く、父の宇洲も15人の妃が居て、正妃である母の悠子以外の妃には、気が向いた時にしか通う事が無いのだが、それが普通の事だったので、瑤子も疎まれていると不満を言う訳にもいかなかった。
このまま、ここで一生を過ごすしかないのかしら。
瑤子は、思って暗い気持ちになった。だが、思っても居なかったが、遠い大陸の父王の宮でも、同じように思いながら、王の訪れを待つだけの毎日を送っている、妃達がたくさん居るのだ。
瑤子は、何も知らなかった、と、宮にあった時、他の妃達を思いやる気持ちが無かった事を心から後悔したのだった。
維月は、問題なく里帰りを終え、先に帰っていた維心のもとへと帰った。
ここひと月の間に、いろいろとあった。
里帰りをした直後には月の宮に居た瑤子も、維心の進言で蒼によって獅子の宮へと返され、今では獅子の宮でどうしているのかも分からない。
維心はその後二週間滞在して、その間、用があるからと炎嘉を月の宮へ呼びつけたりして反感をかっていたが、いよいよ政務が山積して来て、名残惜し気に龍の宮へと帰った。
そして、その一週間後、維月は維心を追って十六夜に送られて龍の宮へと戻った。
龍の宮では、高瑞から正式に婚姻の申し込みと、結納の日取りについて話が来ていて、水面下で臣下が準備を進めていた。
匡儀には一応、こういう理由で弓維は嫁ぐとだけ、先に知らせておいた。
黎貴が大層落ち込んでいたようだったが、こちらもどちらに嫁いでも良かったのだから、縁が無かったのだと思うしかない。
何しろ、弓維は高瑞との婚姻が決まって進んで行くのを、それは楽し気にしていたのだ。婚儀の衣装を決めるのも、式の予定を決めるのも、ただ嬉しく楽しいようで、イキイキと毎日を過ごしているのを見るのは、維月も微笑ましかった。
「…誠に、夢のようなご縁ですこと。」維月は、維心と共に居間で座りながら、言った。「維心様に高瑞様が婚姻の正式な申し込みの文言を言い始めた時には、自分の事のように胸が高鳴ったものでしたわ。ああ私も、維心様にこのように申して欲しかったなあって。」
維心は、バツが悪そうな顔をした。言われてみたら、前世も今生も、いきなりに娶ってから式であって、事後承諾といった感じだったからだ。考えたら正式に申し込み、式を待つということを、維心はしたことが無かった。
維月に承諾を得たら、早く娶らないと取られてしまうと焦りばかりが先に立ってしまっていたからだ。
「…それは我も、悪かったと思うておる。何しろ主は競争率が激しくて、早く娶ってしまわねば、待っておる間に取られると焦ってしまうのだ。前世は十六夜に許された時に気が変わってはと慌てたし。」
維月は、維心を責めるつもりは無かったと慌てて言った。
「違うのですわ。前世は親も居らぬし誰に申し込めば良いのか分からぬような状況でありましたし、今生は私も記憶がまだ戻っておらず、嘉韻と…あの、婚姻してもいいかなとか思っていた事でもありましたし。」
維心は、渋い顔をした。
「今ではあれも落ち着いた様子であるし、老いも止まって淡々と月の宮で仕えておるから我も何も言わぬが…あの折、なぜにあれに主を僅かでも許したかと己の愚かさに後に腹が立ったわ。」
維月は、フフと笑った。
「あの頃は、まだ維心様もそこまで私に執着と申しますか、思い入れも深くなかったようにお見受けしましたわ。今では嘉韻も、落ち着いておって共に過ごしても、維心様が案じられるようなことは一切ありませぬ。ただ穏やかに昔語りなどをしたり、すっかり老人同士のような感じですの。」
維心は、ふうと息をついて頷いた。
「知っておる。十六夜もそう言うておったしの。今は主も落ち着いて、暮らせるようになったのではないのか。」
維月は、遠い目をして、頷く。
「はい。炎嘉様の所へ参ることも無くなりましたし、嘉韻もそのようですし。十六夜とは兄妹のような感じが強いので、今では本当に時々しか、褥を共にしても何も申して参りませぬの。なので、維心様だけですわね。」
毎日毎日求めて来るのは、とは維月は言わなかった。
維心は、それにも困ったように言った。
「我も落ち着かねばと思うが、その欲求だけは無くなることがなくての。主に触れねば一日が終わらぬような気がして。だが、我だけなのだから良いではないか。の?減らせとか言わぬだろうの。」
維月は、苦笑して答えた。
「まあ。そのようなことありませぬわ。何事も維心様が良いように。私は唯一の妃であるのですから、そのような我がままは申しませぬ。どれほどに恵まれておるのか分かっておりますので。でも…他に誰かと申されたら、私は椿とは違いますからその時点で月の宮へ帰らせていただきますけれども。」
維心は、それは重々分かっているというに、と思い、ブンブンと首を振って否定した。
「あり得ぬ!分かっておろう、我がいつそのような素振りをしたのだ。ないゆえに。仮にでも帰るなど申すでないぞ。」
維月は、維心の様子にフフとまた笑って頷いた。
「はい、維心様。お傍に居りますわ。愛しておりますから。」
維心は、途端に嬉しくなって微笑んで維月を抱きしめた。
「我も主しか居らぬ。」
維月は、本当に何をどう気に入っていてここまで自分だけを想ってくれるのか分からなかったが、ここ数百年で維心の気持ちの誠は知っていたので、本当に自分は幸運だと嬉しくなりながら、維心の胸に抱き着いた。
維心は維心で、自分はなんと幸運なのだろう、これまでいろいろ堪えて来て良かった、と思っていたのだった。




