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帰還

「王!」岳が、慌てて居間へと入って来た。「瑤子様が、月の宮の軍神に連れられて只今、結界外に!」

駿は、騮から政務の話を聞いていたところだったのだが、それを聞いて驚いた。まだ帰せとも言っていないのに?

「すぐに中へ。」呆気に取られて居る駿の横で、騮が言った。「父上、あちらがしびれを切らして送りつけて参ったのでございます。療養とは名ばかりの世話を押し付けた状態で、全くご挨拶にもうかがわなかったのですから、蒼殿がここまでやって来てもおかしくはないのでございます。」

駿は、そんな事もあるのか、と茫然とした。蒼は、穏やかな気質であるし、まさかここまでするとは思っていなかった。

騮が、駿の背を押した。

「さあ!父上、月の宮の使者だけはお受けせねば!代理では角が立ちまする。月の宮とまで仲違いしてしもうたら、大変な事になりまするぞ。」

駿は、言われるままに袿を着せられ、騮に伴われて数か月ぶりに謁見の間へと、奥を出て向かった。


そこへ入って行くと、月の宮の筆頭軍神、嘉韻が立って、待っていた。瑤子は、その後ろで黙って頭を下げて、立っている。項垂れているようにも見えるが、よくわからなかった。

駿は、言った。

「嘉韻。いきなりの事に驚いた。」

嘉韻は、懐から書状を引き出し、それを駿へと差し出した。

「いきなりではありませぬ。王から、これを。」

駿は、嘉韻が険しい顔をしているのを見て、これはまずい事になったのでは、とさすがに思った。蒼を怒らせるなど、滅多にないと言われていた。月の宮の王は、穏やかで少々のことでは怒らないと言われていて、駿もそれにすっかり甘えていたのだ。

騮が脇から覗き込む中、駿はその書状を見た。

そこには、長い間挨拶にも来ず、あちらからの問い合わせにも気のない返事ばかり、もうとっくに療養が終わっている妃を迎え取る話も出ないことにどうなっておるのか、ということ、礼は要らぬが、長くこちらに預けたまま放置していた理由も詳しく述べねば、これからの付き合いは考えさせてもらう、と、蒼の穏やかな筆致で、しかし怒りの色を含んだ字で書き殴られた状態だった。

何のことはない、維心がいきなり書いて持たせろとか言うから、蒼が慌ててそれらしい文章を考えながら立ったまま書いたので、そうなっただけだったのだが、そんな事は駿には分からない。

蒼を甘く見ていた。

駿は、それを見て思った。自分が椿を追って呆けている間に、あちこちせっかく上手くやっていたことが、回らなくなるどころか悪化して来ている。

特にどこの宮とも仲良くやっている月の宮との断絶は、はっきり言って大変な事態だった。

「申し訳ない。」駿は、俄かに頭がしっかりして来て、言った。「誠に蒼殿には失礼をしてしまった。我から本日中に詳細を書にしてお送りすると伝えて欲しい。これまで、お世話をお掛けして申し訳なかったと。」

嘉韻は、無表情にそれを聞いていたが、軽く会釈した。

「では、我が王にはそのようにお伝え致しまする。」と、瑤子を見た。「確かに、こちらへお返しいたしました。」

瑤子は、見るからに憔悴したような様子で、三条に庇われるように気遣われ、そこに立っている。

駿は、頷いた。

「ご苦労であった。蒼殿にはご面倒をお掛けし、迎えも差し向けずにお送り頂いて申し訳ない限りと。」

嘉韻は、それを聞いてスッとまた会釈すると、そこを出て行った。

月の宮の軍神にしては、愛想の無い反応だった。つまりは、怒っているのだろう。

取り残された瑤子を見て、駿は誠に何とかせねば、と思った。椿が、最後になんと言っていたか。動物を飼うのとは違うのだと。しっかり、向き合えと…。

だが、自分はもう、椿以外と向き合うつもりは無かった。

「…侍女。瑤子を部屋へ。」

侍女達が出て来て、戸惑いながらも瑤子を促し、そこを出て行く。

声を掛けるべきだったのだろうが、駿にその気持ちはなく、それ以上にもう、瑤子自身が宮を辞したいと申し出ている事実も、宇洲から聞かされてしまっているのだ。

かける言葉などあるはずもなく、あちらも今さら駿からの言葉など、欲しくはないだろう。

駿は、どうしてこうなってしまった、と、しても仕方がない後悔ばかりを感じていた。


駿は、政務に復活した。

それを、蒼は月の宮で知った。

駿からは、あの瑤子を送り付けた時に約束した通り、その日のうちに書状が届き、そこには長い間放って置いた非礼を詫び、自分が今どういう状況になっていて、どう考えていたのかを知らせて来ていた。

蒼には効果的な、己の腹を割って包み隠さず弱音を吐いた文と内容を送って来たので、蒼はもう、怒っていなかった。

というか、最初からそう怒ってはおらず、ただ困っていただけだったので、駿には心から同情していた。

椿が好きだったんだろう。最初から、共に宮を作って支え合って来た仲で、子供も五人も居るし、お互いに老いが止まって若い。これからもこうやって生きて行くのだと思っていた所に、思いもかけず大陸の同族から、目の覚めるように美しい女神を妃にと話しが舞い込んだ。

椿には無い高貴な美しさと淑やかさ、慎ましさに惹かれて、娶ろうと思ったのだろう。

それが、思ったより上手く行かずに、椿を失う事になってしまった。

椿は、あっさりとした性質だ。元が陽蘭なのだから、そう、じゃあさよなら、となるのは、蒼にも容易に想像出来た。

今頃、椿は駿のことなど顧みても居ないのだろう。

同じような性質の、維月を妃にしている維心は言った。

「…我は間違っておらぬと思うておる。維月だって恐らくは、我に妃がなどとなれば、ではそちらとお幸せに、とか申してサッサと去ってしまうのが手に取るように分かるゆえ、絶対に女などを寄せ付けぬ。恐ろしい…駿は愚かよ。椿がそれほどに大事なら、絶対に他をなど考えてはならなんだのだ。もう手遅れ。諦めるよりないわ。」

維月を見ておればわかる。

維心は、そう確信していた。

蒼は、ため息をついて言った。

「それでも、駿の気持ちを考えると気の毒で。ちょっとフラフラッと若くて美しい女神に目が行っただけだと思うんです。それでも、椿は上手くやろうとしていたのだし、あのままでも侍女があんなことをしなければ、二人の妃でも上手く行ったと思うのに。ちょっとしたボタンの掛け違いで、こんなことに。後悔する気持ちは分かります。」

維心は、ハッ!と横を向いた。

「後悔?しても無駄ぞ。もう取り返しがつかぬのだ。ならば先を見なければならぬだろう。椿は帰って来ぬ。ならば瑤子とやり直すことを考えるのか、瑤子を帰して独り身になって考え直すのか、己で決めねばならぬわ。椿はもう、及ばぬ枝ぞ。幸い、我に返ったようだし、これから政務に勤しみながら、考えるしかないの。」

蒼が仕方なくうんうんと頷いていると、維心の対の扉が、スッと開いた。

「維心様?こちらですか。」

維月だ。

維心は、嬉し気に言った。

「おお維月。蒼が駿の書状を見せに来てくれておったのだ。あれも正気に戻ったようで、文章もしっかりしておるわ。」

維月は、微笑みながら歩いて来て、維心の手を握ってその隣りに座った。

「まあ。立ち直ってくださればと思うておったので、まずは良かったですわ。滅多に怒らぬ蒼が、怒りの文を出したのが良かったのでしょうか。」

蒼は、苦笑して肩をすくめた。

「正確には怒ってたんじゃなくて困ってたんだけどね。でも、無事に返せて良かったよ。維心様がいらしてくれて、ご助言くださならなかったらどうなっていたかと思うと、震えがくるよ。宇洲殿は結構押しが強いタイプだから、断れなくて困ったかもしれないし。」

維月は、フフと笑って維心の腕を抱いた。

「維心様が断ってくださるわよ。炎嘉様だって彰炎様を通して何とかしてくださるでしょうし。あなたはたくさん助けてくださるかたが居るんだから恵まれておるわ。」

いつも他力本願なんだけど。

蒼は思ったが、維心が苦笑して言った。

「いくらでも断ってやるが、それでも蒼は最近では己でいろいろ出来るようになったのだから。此度は面倒が起こる前に阻止出来て良かったことよ。」

維心はそう言って、維月の肩を抱いた。

蒼は、これ以上はお邪魔だな、と思い、立ち上がった。

「では、オレはこれで。何かありましたら、またご報告します。」

維心は、頷いた。

「こちらも何か分かったら知らせようぞ。」

そして、その日は暮れて行ったのだった。

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