月の癒し
維月が、十六夜と蒼と共に瑤子が居る客間を訪ねると、瑤子はおっとりと扇を振りながら、初子と庭を眺めて笑い合って話していた。
確か、瑤子は私語まで禁じるほどにストイックな妃で、礼儀にもがちがちだったと聞いていたのに。
維月は、それを見て、十六夜が言っていた通り、瑤子はこちらで完全にリラックスして過ごしているのだ、と思った。
十六夜と蒼を見た瑤子は、あ、と嬉しそうな顔をしたが、その後ろに維月が居るのを見て、仰天して大慌てで立ち上がり、ベールを引き寄せて頭を下げた。
「りゅ、龍王妃様…!このようなところをお見せしてしまい、申し訳ありませぬ。」
維月は、慌てて首を振った。
「良いのよ。ここは私の実家で、十六夜は私の兄なの。十六夜が言うておったでしょう?私はここで、十六夜と共に駆け回って育ったのよ?蒼と十六夜によく叱られておったわ。私があのようなのは、公の場でだけなの。いつもあのようでは疲れてしまうわ。」
瑤子は、それを聞いて恐る恐る顔を上げた。
「では…維月様はいつもこのように?」
維月は、笑いながら頷く。
「維心様は許してくださっておるから、龍の宮でもそうなの。誰かがいらしたらちゃんと致しますけれど。あまり締め付けたら、私が窮屈だろうと仰って、特に咎められることもありませんわ。でも、こちらに帰って来ておる時が、一番羽を伸ばしておるけれどね。」
維月は、フフと笑った。瑤子は、声を立てて笑うのすら気を付けねばならない環境で育ったらしく、こちらへ来て伸び伸びと暮らしていて、楽そうだとは聞いていた。
着物も、いつみてもかっちりとしたものを着ていたが、今は維月と同じような軽い普段着だ。
しかし、それは獅子の宮から持って来たものではなく、この月の宮で作ったもののようだった。
「誠に、このようにのんびりと過ごすのは、初めてなのでございます。いつもしっかりと完璧に振る舞わねばならないと、母にも幼い頃から厳しく躾けられましたし、やっと宮から出て母の目から逃れられると思うたら、やはりこちらの宮でもそれを崩すわけにも行かず。王は、そういう様の我をと望んでくださっておるわけですし、気が抜ける時がありませんでしたの。それが…こちらの蒼様は、全く咎められることも無いし、お優しくて我の事を気遣ってくださるし、退屈する時がありませぬ。お庭を歩いてもそれは清々しい綺麗な気に包まれ、十六夜も見守ってくれる。蒼様とお話しておると、肩の力が抜けるようで…これほどにお世話になっておるのに、迷惑なお顔もなさらないのですもの。」
蒼は、苦笑した。
「オレ個人としたらいくらでも居たらいいと言いたいんだが、駿殿が迎えを寄越されたらな。まだ、ご連絡は無いが。」
それを聞いた瑤子が、フッと肩の力を抜いて、庭を眺めた。維月は、瑤子の話を聞こうと、傍の椅子へと座った。
「瑤子様は、お帰りになりたいの?」
瑤子は、躊躇った。ふと、蒼と十六夜を見る。
蒼は、それに気付いて、言った。
「…お邪魔かな?女同士で話もあるだろう。」と、十六夜を引っ張った。「ほら、維月とは後で話せばいいよ。ここは遠慮しよう。」
十六夜は、蒼に押されながら、えー?という顔をした。
「温泉行くのにかっ?おい維月、二時間以内な!」
十六夜の声が、遠ざかって行く。
維月は、苦笑しながらそれを横目に見て、そうして瑤子へと向き直った。
「瑤子様。お好きに何でも言ってくださって良いのよ。私は駿様にお話ししたりしませぬから。あちらの問題は解決したと聞いておりますけれど、それでもお帰りになりたくない感じですか?」
言われて、瑤子は、ゆっくりと頷き、下を向いた。
「…王は、我の様子を尋ねることもしてくださいませぬ。それに、こちらに、時にやって来る父から聞きましたの。椿様が宮を出られて、今は椿様にお帰り頂こうとそればかりで、ご政務も滞りがちであられるとか。駿様は、我を誠に愛して傍に置いてくださっておるわけではありませぬ。本当に愛していらっしゃるのは椿様であられるのでしょう。だからこそ、その椿様が宮を出られる原因になった我のことは、今は疎ましく思われておるのではないかと…。」
本当に、勝手だこと。
維月は、それを聞いて腹が立った。確かに駿は、今必死に椿を取り返そうと翠明の宮に打診しているようだったが、翠明の宮からは、それはもう終わったことだと突き返されて、椿に会うことも叶わないのだと言う。椿自身、とても吹っ切れてしまっていて、もう獅子の宮に戻ろうとは考えていないようだった。
「…あの、瑤子様は、駿様を愛していらっしゃるのでしょうか。私は、維心様をそれは愛して婚姻致しましたし、今もとても愛しておりますけれど、瑤子様は、宮同士の取り決めだけで嫁がれたのですが?それとも、お互いに見染め合って婚姻に?」
瑤子は、首を振った。
「何やら父が話を持って参りました。我に庭へ参れと仰っておった事があって、その折に駿様に我の姿を見せておったらしゅうて。あちらが気に入ってくださり、婚姻が決まりました。我は当日まで、お顔も知らずに嫁ぎましてございます。」
ああ、神世の昔のオーソドックスな感じね。
維月は思った。ほんの数百年前までは、こちらの方でもそういう婚姻が多かったが、こちらも進歩していて、お互いの気持ちを大切にすることが多くなった。
そうでなければ、上手く行かず帰って来る事になるのが経験上分かったからなのだ。親としても、不幸な婚姻を長く続けさせるのは哀れと思い、ある程度は皇女や皇子の意向を聞くようになったのだ。
あちらでは、まだそういう古い形が多いらしい。
「ならば、これまで誰かを慕うということもなく?」
瑤子は、頷く。
「はい。そんな心地は知らずに生きて参りました。宮の奥でひたすらに精進する日々でございましたし…でも、こちらへ来て、こんなにも幸福な場所があったのだと。毎日がただ幸福で、何もかもが光り輝いておるように見えまする。」
そうね、月の浄化の光が降ってるから。
維月は思った。
「ここは十六夜の力が降ってるから、大氣が常に浄化されておるの。気持ちも楽になるし、良いかと思うわ。」
瑤子は、下を向いたまま、答えた。
「はい。誠に清々しく…こんな我でも、誰かを想うということを、知ることが出来るようになりました。ここの、ゆったりした空気の中で、気持ちに余裕が出来たからだと思うのです。」
維月は、眉を上げた。誰かを想う…ってことは、ここの誰かを好きになったのか。
もしかして、だから帰りたくないのかもしれない。
維月は思って、瑤子をじっと見つめた。
「誰かを慕わしいと思うのはとても良い事だと思うわ。それだけで幸福になるわよね。お傍に居たいって、思うもの。」
瑤子は、何度も頷いて答えた。
「はい。こんな気持ちがあるなんて、思いもしませんでした。」と、息をついた。「苦しくもあるような…もう、獅子の宮へ戻りたくないと思うのは、我がままでありましょうか。」
維月は、瑤子に同情した。きっと誰かに初めて恋をして、他の男の妃になんて嫌になったのかもしれない。それはそうだろう。好きな男の傍に居たいというのは、自然な考えだ。
「そうね…駿様だってあのご様子だし、父王に申し上げて正式に離縁という形にして頂いたらどうかしら。でも、その後よね。瑤子様に想われる幸運な殿方って、いったい誰なのかしら。」
瑤子は、頬を赤く染めた。こんな話をするのも、初めてなのだろう。そうして、その真っ赤な顔のまま、言った。
「誰にも、仰いませんか?」
維月は、この上なく真剣に頷く。
「ええ。とはいえ、恋の手助けをするなら言わなければ無理かもしれないけれど。」
瑤子は、真面目な顔でじっと維月を見た。
「維月様は、我の手助けをしてくださるのですか?」
維月は、首を傾げた。
「絶対にとはお約束できないけれど。十六夜でなければ、ああ、それから私のお父様でなければ、お話は通すことが出来るかもしれないけれど…。」
瑤子は、フフと微笑んだ。
「まあ。違いまする。十六夜はそのような感じではないし、碧黎様は滅多にいらっしゃいませんし…。とても、本当にとてもお優しいかたで。いつも気にかけてくださって…。」
維月は、それを聞いてハッとした。もしかして…。
「…その、お相手は?」
瑤子は、こっくりと頷いて、思い切ったように、恥ずかし気に言った。
「蒼様です。」
維月は、声が出なかった。
蒼はあれで、とてもモテる。だが、本人は優しいと言う自覚もない。何しろ、人の頃からあんな感じなのだが、神世の男のように横柄でも無いし、ただ人として生きていた過去があるので、人として見たら普通よりちょっと気が付く男なだけなのだ。
蒼かあああああ…。
維月は、困った事になったかもしれない、と思った。




