覚悟
椿が、居間へとやって来た。駿の前で深々と頭を下げている。
駿は、言った。
「そのように頭を下げる事など無いのだ。騮と騅から聞いた。すまぬ、我は完全に主を信じ切ってやることが出来ぬで。まさか、長く使っておる侍女がこのような事を。」
椿は、顔を上げた。
「これは我の責でございます。他の宮であったら、あれらも問題なく仕えられたのだと思うのに、瑤子様は大陸のやんごとない皇女であられ、侍女にも厳しく躾けるしっかりとしたかたであられた。我があれらを甘やかせておったことの弊害が、ここに出てしもうたのでございます。王には、大変に申し訳なく…我をご信頼してくださって、侍女の人選も任せてくださっておったものを。」
駿は、首を振った。
「我が悪いのだ。主は瑤子のことを気にかけて我にも言うておったのに。我は、侍女達の話から主が瑤子を疎んじておると思うてしもうて、席を設けてやらなんだ。それをしておったら、ここまで拗れなんだやもしれぬのに。」
椿は、首を振った。
「仕方がありませぬわ。我はこのような気性であるし、皇子達すらそう思うておったのだと聞きました。我は、母から女は結局穏やかな者が勝つのだと、幼い頃から嫌になるほど聞かされておったので、こちらへ嫁いだ時も、もし誰か来られたら絶対に上手くやろうと思っておりましたの。同族であられるし、あのようにお若く美しいよう出来たかたなのですから、王があちらに目を奪われるのも仕方がないこと。ですけれど、誰でも歳は取るのですわ。お互いに老いた時、宮に貢献した方が王のお心に残るのも、我には分かっておりまする。ですから、王を責める気持ちなどありませなんだ。ただ、なぜに我らの仲を取り持ってくれぬのかと、そこは恨んでおりましたけれど。」
駿は、何度も頷いた。だからこそ、椿は機嫌が悪かった。己が初めて娶った妃である椿とは、この宮を継いだ時から苦労を共にして来たのだ。それを、若く美しい妃に舞い上がり、楽の音に心を奪われそればかりを想っていた、自分が情けなかった。
椿とは、やはり切れない絆があるのだ。
「我が悪かった。椿、主は悪くはないのだ。主の無実は皇子達が証明してくれた。この上は、侍女達を公に罰して主の無実を知らしめようぞ。主の名誉の問題なのだ。」
椿は、それを聞いて寂し気に微笑むと、首を振った。
「そのようなことをしても、王が我を庇っておられるのだと回りは思われますわ。どちらにしても、我の侍女が起こしたことには変わりはないのです。あれらは、王のお子を殺したのですから、罰しられて当然でございましょう。ならば、我も、その侍女を使っておった者として、責を取らねばなりませぬ。」
駿は、驚いて首を振った。
「何を言う。主は悪くはないではないか。」
椿は、息をついた。
「回りはそうは思いますまい。」と、椿は深く頭を下げた。「父母にはもう連絡してございます。我は、こちらを辞して、里へ帰ろうと思いまする。瑤子様にも、このままではこちらへ戻ることも出来ぬでしょうし。王には、どうぞ瑤子様とこちらでお心安くお過ごしくださいましたならと思いますわ。」
駿は、慌てて立ち上がった。
「待たぬか。そのようなこと許せるはずはあるまい。真実が分かった今、瑤子にもよう言うて聞かせて気に病むことはなくなるはず。なぜに主がここを出ねばならぬのだ。」
椿は、じっと駿を見つめた。
「王、これは、我の最後の言葉と思うて聞いてくださいませ。」駿が否定しようとするのを、椿は首を振って遮った。「妃を迎えるということは、そこらの動物を飼おうというのとは訳が違うのでございます。女は愛でて楽しむだけのものではありませぬ。瑤子様をお世話すると決められたからには、瑤子様自身をしっかりと見て、理解して大切になさってくださいませ。侍女達の甘言に、簡単に惑わされるようではなりませぬ。此度のことも、あのままでは瑤子様のお命にも懸かって参るところでありました。しっかりと肝を据えてお考えを。そのようでは、複数の妃など世話することは出来ませぬ。」
駿は、絶句した。
椿を失いたくないと思う今、瑤子に対しての気持ちが、美しい花を愛でているような心地であったのに気付いたのだ。
椿は、それではならないと駿に釘を刺している。これから先、自分が去った後、またこんなことが無いように…。
駿が言葉を出せずに居ると、椿はまた、頭を下げた。
「これまで長くお世話になりました。子達は皆、獅子であるので、置いて参ります。実は父が先ほど来た時の供を、置いて帰っておりますので。それらと共に帰りますわ。皇女達にはもう話しております。騮にも騅にも、よろしく申しておいてくださいませ。」
椿は、そう言うと踵を返した。
「椿!帰るのは許さぬ、主は我の妃ではないか!」
椿は、駿に薄っすら微笑んだ。
「父が迎え取ると申しておりますので。我は父に従いまする。」
それは主が帰ると申したからでは。
駿は言いたかったが、自分のせいなのだ。
いつものように迷いのないしっかりとした足取りでそこを出て行く椿の背を、駿はただ、見送ることしかできなかった。
その事は、龍の宮にも伝わって来た。
維心が受け取った書状には、侍女達が椿の下に戻りたいと思って画策した事、椿は己の教育が悪かったと言ったが、翠明が謂れの無い噂を立てられてまで娘を預けることは出来ぬと言って、椿を迎え取ったのだということがつらつらと書かれてあった。
椿が指示してやったのではとまだ神世の王達は半信半疑だったが、駿から椿を含めた全ての侍女の記憶の玉を取って調べた結果なのだと聞いて、椿への冤罪が明らかになった。
椿は、悪くなかったのだ。
維月は、その知らせに顔を曇らせた。
「父が申した通り…母は、やはりそのような卑怯な事はしておらなんだのですわ。私も信じてやれずに…。」
維心は、維月の肩を抱いて、ため息をついた。
「我ら、神世の王達も目が開かれる思いよ。決め付けておったゆえ。焔も、その昔のことを思い出し、もしやあれも侍女の仕業であったのでは、と、今更にしっかり調べておらなんだことを後悔しておるらしい。椿を迎え取った翠明も、本当はここまでしたくは無かったが、そんなことを言われた宮に、これ以上置くのは不憫だと綾に泣きつかれて強引に出てしもうたのだとか。何より椿が帰ると申しておったらしく、駿は茫然として政務も滞っておる状態だとか。騮と騅も母親を信じなかったことを後悔し、塞ぎ込んでおって今、獅子の宮は重い空気なのだそうだ。こうなって来ると逆に、月の宮に預けておる瑤子には見向きもしておらぬようで、預けっぱなしで様子も見に行っておらぬとか。蒼が気を遣って宇洲に連絡を取ったり、あちこちから絵巻物などを取り寄せて差し入れたりと退屈せぬようにしておるようよ。誠に、駿はあのような事になるのなら、いくら獅子でも己は娶らず臣下に任せておったら良かったのに。」
それは、蒼から聞いていた。もうあれからふた月にはなろうかというのに、駿からは会いに来るどころか、文さえも来ない状態で、蒼もどうしていいのか分からず、あまりに哀れに思えて、いろいろ差し入れては世話をしているらしい。
最近では、少し元気も出て来て、庭をあちこち散策したりと明るくなって来ているのだと聞く。
そろそろ獅子の宮へと帰って良い頃なのだが、肝心の駿が全くなしのつぶてで、どうしようもないのだとか。
あの事件の事は、知り得た範囲で蒼がさりげなく話したとのこと。誰も何も教えてくれないので、瑤子は案じていたようで、事実を知って、ショックを受けていたらしい。
椿とは、仲良くなれたかもしれないのに、と、少し沈んでいたそうだ。
本当なら、王である駿がそれをしなければならないのに、蒼は全部丸投げなんだと怒っていた。
「…私も、来週には里帰りでございますので。」維月は、維心に言った。「ご様子を確認して参りますわ。維心様にもご報告いたしますので。」
維心は、維月の里帰りが久しぶりなのは分かっているのだが、それを聞くとやはり寂しかった。
「我も後から行くゆえ。」維月はやっぱり来るのか、と思ったが何も言わなかった。維心は続けた。「出来るだけ早くこちらを処理して。主と会えぬと思うと、今から胸が掴まれるようよ。」
維月は、もうこうして何百年も来たのに、とは言わずに、維心をなだめるために背を撫でた。
「まあ維心様、お待ちしておりますから。常傍に居るのに、居られぬとそれは私も心細いものですわ。少しの間でありますし、どうか堪えてくださいませ。」
維心は、じっと維月を見つめた。
「主は我に会いたいと思うか。」
維月は、何度も頷いた。
「はい。お顔を見ない日はとても寂しく思いますわ。でも、私などこのように凡庸でございますし、常に傍に居ったら見慣れて見栄えがしないのではないかと思いまして。」
維心は、維月の手を握った。
「主は我が毎日傍に居ると、見栄えがせぬと思うのか。」
いや、そうじゃなくて。
維月は思ったが、首を振った。
「違いますの。維心様はいつお見上げしてもそれは凛々しくて見とれるほどですわ。私がこの様ですから、目新しく思うて欲しいと里帰りをするのも、許してくださるでしょうか。」
維心は、首を振った。
「我はいつなり主を見ておるのに。目新しいとは何ぞ。主は毎日美しく慕わしくなるわ。」
何をどう見たらそうなるのかしら。
維月は思ったが、それでも維心の気持ちを挫く事も出来ない。なので、仕方なく言った。
「私も毎日維心様を慕わしく思うておりますわ。あちらでお待ちしておりますから、どうかご機嫌を直してくださいませ。」
維心は、維月が困っているのを感じて、維月を抱きしめてフッと息をついた。
「分かった。待っておれ。すぐに参るから。」
あんまり早いとまた十六夜が怒るから一週間ぐらいでお願いします。
心の中で維月は思ったが、維心が必死に頑張っても宮を開けようと思ったらどうしても一週間ぐらいかかってしまうのだ。
なので、黙って維心に抱かれて密かにため息をついていた。




