想う
「あら…?」
維月は、几帳の向こうを見やった。これは月想歌。そしてこの音は、維心様…?
なんてせつない音かしら。
維月は、その音に維心の気持ちを感じた。片恋の苦しさ、そんなものが痛いほど感じられる音なのだ。
「…なんと悲しい、ですけれど甘い艶のある音でしょうか。」綾が、几帳に張り付くようにして見た。「あら、龍王様ですわ。駿様が胡弓で主旋律を。」
瑤子が、え、と目を凝らしたのが分かる。駿は楽器に触れたことも無かったと聞いているので、恐らく、瑤子が教えたものなのだろう。
しばらく黙って演奏を聴いていた一同だったが、終わった時には、皆がため息をついていた。
瑤子は、嬉しげに頬を赤くして侍女達と視線を交わしている。駿が問題なく弾き切ったのを喜んでいるのだろう。
「良いものを聴かせて頂きましたわ。」綾が、静かに言った。「誠に素晴らしいこと。」
維月は、維心の側に無性に行きたくなった。今、維心様を抱き締めて愛していると言って包んであげたい。
「…それでは、そろそろこちらを辞してお部屋へ戻りましょうか。」維月は、言った。「皆様にも王から労いのお言葉がおありになるでしょう。我も部屋で王をお待ちしなければ。」
皆が、頭を下げる。
侍女達が、退出の準備に駆け回り始めて、維月の回りにも侍女達が几帳を持って、回廊を歩く姿を隠そうと取り囲み始める。
維月はそれを待って扇を高く掲げ、ゆっくり見えるように気を付けながら足早にそこを出て部屋へと向かったのだった。
瑤子は、維月が退出するのを頭を下げて待ち、その後を順に退出して行く者達を見送っていた。
瑤子は北西の獅子の王の皇女だが、こちらではまだ新参者だ。それを弁えていて、皆が出てしまうのを待っていたのだ。
維月と次には弓維がそれに続き、この宮の炎耀の妃である千子が出て、綾が出て高瑞の妹達二人が出て行ったのを見て、やっと瑤子は、足を踏み出した。
身重ではあったが、もう安定期で落ち着いていたのでつらいことは無かった。
先ほど瑤子に咎められた若い侍女の三条が、瑤子の足元を気にしながら、言った。
「瑤子様、お足元にお気を付けくださいませ。」
瑤子は、その一生懸命な様子に微笑して、頷く。
「我は大丈夫よ。それより、あなたこそ几帳を持っておるし気を付けて。」
三条は、父のもとに居た時、側近くに育った乳姉妹だ。あちらでは三条ではなく、初子と呼んでいた。幼い頃は共に励む友として、育って後は傍で仕える侍女として共に来たのだが、少しそそっかしいところがあって、瑤子はいつも心配していた。本当はあちらに残ってあちらで良い縁を掴んでほしかったのだが、初子はついて来ると言って聞かなかった。先ほど、綾に告発しようとしたのも、瑤子を案じての事なのは知っている。
「初子。そのように、案じずでも大丈夫よ。」
瑤子は、小さな声でそう言った。
初子は、少し頬を赤くしたが、小さく頷いた。
回廊へ出て几帳越しに舞台の方を見ると、王達はもう退出していて、後には楽器をせっせと片付ける侍女や侍従達が居た。
王がもうお戻りになっている。
瑤子は、自然足を速めた。お待たせしてしまう…。
すると、脇から鳥の宮の着物を着た女が進み出て、頭を下げた。
「我はこの鳥の宮の侍女、常盤と申します。瑤子様、もう王はお戻りになっておりまする。我はこの宮をよく知っておりますので、先導を。こちらの回廊を参るより、こちらから参った方が、本日駿様に振り分けられておる客間には近いですわ。」
瑤子も、こちらの侍女達も、こちらの島の宮のことは何も知らない。
なので、ホッとして常盤に頷いた。
「頼みます。」
常盤は頷き、足元を照らす灯りを持って、先を歩いた。
炎嘉の宮はほとんどが大理石で、灯りを灯すとそれが反射して結構な明るさがあるので、主回廊などは手持ちの灯りなどなくても十分に歩けるのだが、ここはどうやら裏通りらしく、暗い。
今は誰も居ない北の庭に面しているので、庭の木々がざわざわと真っ暗な中風に揺れていて、この華やかな宮に居るのにそれは不気味に見えた。
几帳を持っている、初子も緊張気味に顔をこわばらせている。
瑤子は、自分が不安になったら皆が不安になってしまう、と思い、ひたすら平静を装って顔を上げて歩いていた。
それにしても、遠い。
瑤子は、この宮の大きさを聞いてはいたが、もうかなり歩いている気がすると思っていた。
「瑤子様…。」
初子も、不安げに瑤子を見上げる。瑤子は、気持ちを奮い立たせて言った。
「大丈夫ですよ。」と、前を行く常盤を見た。「まだ着きませんか。」
すると、フッと常盤の持つ灯りが消え、真っ暗になった。
「ああ!」
常盤の声が聞こえる。
後ろから来ていた侍女達も、その場にバタバタと倒れた。
「え…?!」
瑤子が驚いていると、初子が几帳を放り出して瑤子を庇うように飛び出した。
それから、音が無い。
「瑤子様…!戻りましょう、お早く!」
初子が、瑤子の手を引いて、戻ろうとするが、倒れた侍女達が邪魔ですんなりと通れなかった。
ここは回廊だけで、宮の中へと戻る脇道がない。行くか、戻るかしかないのだ。そうなって来ると、先が分からない以上、戻るのが得策だった。
「誰か!」初子は叫んだ。「誰かある!」
初子は、倒れた侍女達を脇へと押しのけて僅かな隙間から、瑤子を抜けさせようと必死だった。
やっとのことで抜けようとした時、瑤子は何かに足を取られて回廊へと倒れ、そのまま庭へと転がり落ちた。
「瑤子様…!」
初子が、叫ぶ。
北の庭は、不気味に静まり返っていた。
維月が貴賓室へと急いで入って来ると、維心も帰ったところだったらしく、まだ立って、額にある王の飾りを取ろうとしているところだった。
維月は、自分の重い衣装を引きずって維心にズルズルと駆け寄る。その必死さに、維心は思わず動きを止めて、維月を助けようとそちらへ足を向けた。
「維月、何を急いでおる…う!」
その重い重量のまま、維月は維心の首根っこに飛びついた。
「維心様…!お会いしたかった!」
維心は、戸惑いながら維月をなだめるように背を撫でて、フラフラと椅子へと共に沈んだ。維月は、まだ維心に抱き着いて頬にすりすりと頬を摺り寄せている。
「それは我もだが、常はそれほどではないのに。いったいどうしたのだ。」
維月は、椅子に座る維心の膝に乗ったまま、維心を見た。
「月想歌の音色が心に響きまして。一刻も早く維心様をこうして抱きしめて差し上げたいと、あの後すぐに帰って来たのですわ。」と、維心の頬を両手で包んだ。「愛しておりますわ。」
維心は、頷いた。
「知っておる。だから…」と、維月が思い切り口づけて来るのを受けてから、続けた。「あれは昔の我の心地だと申すに。今は主を得て幸福であるのだ。案ずるでない。」
今、かなり重い、とは維心は言わなかった。
とにかく、かなりの重量なので、気で少し浮かせて何とかしのいでいる状態なのだ。それでも、維月の気持ちが嬉しいので、我慢していた。
「まあ…申し訳ありませぬ。」維月は、維心の膝から降りようと身を動かした。「居ても立っても居られない心地になってしまって。」
維心は、維月を手伝って膝から降りるのを手伝い、横へと座らせた時にはホッとした。維月は、維心を見上げた。
「御着替えをなさいますか?お手伝いを。」
維心は、首を振った。
「我は後で良い。それより主、それは重いであろう。先に着替えよ。」と、簪を抜き始める。「とにかく頭も重いゆえな。まずはこれを。」
維心が、簪を抜いてくれているので、維月は袿からセミが殻を脱ぐようにすいっと抜け出るように脱いだ。すると、中身の着物だけになるので、かなり身軽だ。とはいえ、中身は無地なのであっさりしていた。
「侍女!維月の着替えを持って来ぬか。」
侍女達が、急いで抜け殻の着物を持ち去り、上に羽織る袿を手に入って来た。
一気に軽くなった体に、維月はまた改めてホッと維心の膝の上に座った。維心は、維月を横向きに座らせて普段の維月の重量にホッと胸を撫で下ろした。
「誠あのように重い物を着てようあの演奏が出来たの。我では無理だったわ。」
維月は、頷いて維心の頬に唇を寄せた。
「はい。維心様に恥をかかせられないと思うて、必死でありましたの。維心様のご演奏も素晴らしいもので…うっとりしてしまいました。それに、正装されてるといつもより更に凛々しくいらっしゃるし。フフ。」
維心はまだ着替えていないので、今もそのままだ。どうやらそれがまた、維月の心の琴線に触れているらしかった。
「また主は…この姿が良いと申すか。しようない奴よ…。」
別に姿であろうと何であろうと維月が好むのなら良い。
維心は思って、いつもはさっさと着替えるのだが、そのままで維月を膝に乗せ、口付け合っていた。
…と、二人は同時に顔を離した。この気配。
「…今…。」
維月が言うと、維心は頷いた。
「炎嘉が何やら慌てた様子。」と、維月を脇へと下し、立ち上がった。「何かあったな。見て参る。」
維月は、不安げに頷く。
「はい。行っていらっしゃいませ。」
維心は、まだ正装を解いていないのをそのままに、回廊を炎嘉の気配を追って抜けて飛んで行った。




