楽
ほうっとため息が漏れた。
維月は、維心様の本気だ、と思いながら聞いていた。いつもは軽く撫でるように弾くだけなのに、こうして真剣に琴に向かっている時の維心は、神々しくて直視しているのも難しい。
正に神業でつま弾かれるその音は、風が流れているようで、心地よくてぼうっとするほどだった。
そうして、筝が加わった。
こうして聞くと、同じ楽器を弾いているにも関わらず、弾くものによっては全く違う音のように聞こえる。
匡儀はまだ硬さが取れていないようだったがそれでも段々に堂々とした音になって来ていたし、志心は正に名手で音の緩急も完璧で素晴らしかった。高瑞は、優し気でありながらしっかりとした音で、それは艶のある色が見えるような音だ。炎嘉と彰炎はただ華やかで明るく照らすような音、箔炎はしっかりと冴え冴えとした音を出して存在感を出していた。そして誓心は、胡弓の独奏の時初めて知った。それは深い、悠久の時を感じさせる幅のある音で、瑤子のそれとはまったく違って、それもまたとても美しかった。
そうして、しばらく王達の演奏に酔っていると、瞬く間にその時は過ぎて行ってしまった。
「…ずっと聞いておりたかったもの。」綾が、隣りでつぶやくように言った。「焔様の笙は、懐かしいこと…。あのかたは、楽がお好きであられたから。宮でもよう、楽を楽しんで…。」
綾は、遠い目をした。遠く離れていても、綾は鷲なのだ。やはり、自分の種族の王の事は、気になるのだろう。
「龍王様の十七弦には体が震える心地が致しました。」千子が、後ろから言った。「あのような音があったなんて。本当に、素晴らしいこと…。」
維月は、それを聞いて苦笑した。この後で同じパートを私に弾かせるってどうよ。ねえどうよ。
もちろん、女用に柔らかく編曲はしてあるが、笛と太鼓があるあちらに比べて、こちらはいきなり十七弦なのだ。
「荷が重いですわ。」維月は、思わず言った。「我が王は、誠に名手であられますから。お教えいただいた我がこれでは、王もお恥ずかしいのではと案じられますわ。」
綾が、慌てて横から慰めるように言った。
「まあ維月様も、美しい音を出されるのですから。龍王様は特別であられるのですし…。」
そこまで言った時、炎嘉が合奏が上手く行った嬉しさで上気した顔で、こちらを見た。
え、もう出番?!
維月は、炎嘉に永遠に開始を告げて欲しくないと思った。だが、そんなことは出来ない相談だった。
「長い曲であるが、一瞬のように感じたわ。誠に良い演奏だった。手前みそではあるがの。」と、侍女達に言った。「では、酒をこれへ。それから、酒が揃ったら女楽を始める。」
あなた達はお酒を飲んで楽しむつもりなのー?!
維月は、内心イラっとしたが、しかし仕方がない。
舞台上では、楽器を完全に仕舞い込むのではなく、脇へと寄せて、座興にまた弾くことも出来るようにと場を空けて席を設え直している。
それを見ている間、維月は爪をつけて、とちらないように、とちらないようにと呪文のように心の中で思っていた。とにかく最初の独奏のところだけでも、絶対にとちらないように。
酒が揃った。
「…よし!では、女楽の開始ぞ!」
維月はキッと琴を見据えた。いつも弾いている、維心様に作って頂いた十七弦…。
最初は独奏なので、維月は自分の良いタイミングで始めれば良かった。
よし!やるわ!
維月は、一気に自分のパートを弾き始めた。
「…お。」
炎嘉が、小さく呟く。これは、維月の音か。いやしかし、維心の音のようなものも混じっていて、しかしなんだこれは。
ざわざわと胸の中が苦しくなる。何かの甘い心地が付き上がって来て、それが心地よいのに苦しいような、おかしな気持ちを感じる。
苦しいのに感じたいような、その甘い心地に飲まれてしまってはならぬのに飲まれたいような、そんな衝動を湧かせる不思議な音なのだ。
「ぐ…」
隣りで、焔が小さく唸った。どうしても追わずにはいられないこの衝動と心地は何ぞ。
だが、その衝動も、筝の音が加わって来て一気に飲まれて行き、見えるのに手が届かないようなもどかしい心地にさせた。
綾の筝が秀逸だ。維月の音を完璧にとらえ、それを追っては捕まえるような、その音を追っている皆にとっては心地よい音だった。
三弦の音がそれを阻む。維月の音に追いすがる綾の音を、三弦が割り込んではするりと逃がしてしまう。
一方、弓維の音も維月を追っていた。しかし、控えめに後ろから近付いて、スッと捕らえては退く、そんな駆け引きを感じさせる音だった。
すると突然、全ての音が消えた。
男達がハッと顔を上げると、消えた維月の音を探すように、胡弓の音色が悲し気にしかし癒すように流れて来た。
これが、瑤子か。
皆が、その音に聞き惚れた。誓心とは違う、繊細だが芯の強い、音。
すっかりそれに魅了されていると、また一斉に、維月の音と筝たちの音が戻って来た。
維月の音は、もう逃げてはいなかった。己から綾に近付くような、そうして弓維に近付くような、気を持たせるような音のやり取りが続く。
王達は、それに音を聞いているのに、いつの間にか維月を追っているような心地になっている自分に気付いた。維月を追い、そうして逃げられ、探して、次に現れた時にはこちらを誘うような状況。
そうして、音は一斉にクライマックスを迎えて、遂に維月の音が皆を抱きしめるようにして、終わった。
シン、と静まり返っていた。
維月は、はあああ、と、息を吐きたいのを我慢して、心の中でそうしていた。物凄く疲れた。もしかしたら、陰の月が出てしまったかもしれない。だが、とちらずに終わったんだからめでたいと思おう。
静まり返っている中、綾が小声で言った。
「凄いですわ、維月様。本番にお強い方でいらしたのですね。あのような音は、聞いたことはありませぬ。何と追わずにおれぬ音であることか。我の筝はずっと維月様の音を追っておりましたわ。」
維月は、力なく言った。
「綾様の音も時々にしか耳に入らず。皆様が我に合わせてくださったので、大変に助かりましたわ。もうとにかく間違ってはと、必死で。」
晶子が、後ろから言った。
「とてもそうは思えませんでしたわ。本当に、月の御方が本気になって奏でたら、これほどなのかと思いましたわ。まるで、何か見えるような…誠に不思議な心地で。」
舞子も、隣りで頷く。
「我もそのように。まるで恋をしておるような、甘いような苦しい心地が湧き上がって参って、困りましたわ。」
綾が、それを聞いて我が意を至りと、ポンと扇で膝を叩いた。
「そう、そうですわ!まさにそれ。我はあの音に恋して追いすがっておったのですわ。」と、夢見るような顔をした。「素晴らしいこと…合奏の中で恋愛が出来るなど。誠楽しい時でありました。」
すると、やっと我に返ったらしい、炎嘉が外から言った。
「…何との!まるで芝居でも見ているようだったではないか!あの音は何ぞ?主、あんなものを教えたのか。」
維心は、言われて顔をしかめた。
「あれは維月のこの曲の解釈であろう。最初の心地は、片恋の心地。そうではないか。」
言われて、皆がハッとした顔をした。確かにそうだ。
「言われてみたらそうよ。追わずに居られなくなったところで、筝が追い出して。それが己のように感じられて、筝の音と共に十七弦を追った。そうしたら十三弦が阻みよって、見失って…胡弓に癒されて、気が付いたら目の前に十七弦が居て。筝にまとわりつくような音であった。あれは、恋愛の流れの音であったのか。」
維心は、頷いた。
「我はそう解釈した。最初の心地は、前世我があれに片恋であった時の心地。それから、それを追っている時の心地。我は綾より弓維の筝の音の方がしっくり来た。あの、駆け引きをしておるような音…それから、見失い、諦め切れずに居た時にまた目の前に現れる。己の維月への気持ちの流れを見ておるような心地がした。」
炎嘉は、はあと熱を冷ますように扇を開いて煽いだ。
「女楽は艶があって良いのう。目に見える演奏など初めてよ。まだ心が熱いもの。これは今夜、皆誰かを見染めたりするのではないか?一時の感情で娶ったりせぬようにな。後が大変であるから。」
皆、ブンブンと首を振る。公明が、じっと座って杯を手にしていたが、黙ってそれを聞いていた。
「公明?ここからは座興よ、主も弾いてみぬか。そら、合奏に加われずとも、ちょっと弾くぐらい誰も咎めぬだろうて。」
焔が、脇に置いてある誰かの筝を公明に押しやった。
公明は、そのままじっと筝を見ていたが、思い切ったように杯を置いて、筝を引き寄せる。
「お、やはり女楽を聞いて心が沸き立ったか?」
炎嘉が言うのに、公明は頷いた。
「父上がいらっしゃる時には、よう宮でも楽を楽しんでおったもの。母上は琴を弾かなんだが、父上に弾いて欲しいとよくせがんでおられた。あの折が楽しかったことを、思い出した。」
公明は、筝をそれは巧みに弾き始めた。
皆はそれに聞き惚れながらも、何やら公明に何かの覚悟を感じて、落ち着かなかった。




