内紛
獅子の宮では、再び瑤子の胡弓の音が聴こえて来るようになった。
それでも、夜の練習はやめているようで、昼に獅子の宮を訪れた者達は、一様にそれに聞き惚れて立ち止る。
龍王から下賜された胡弓の音は、瑤子が持って来た胡弓とは比べ物にならないほど澄んだ良い音色だった。
客達は皆、その音の出所を探してうろうろとしていたが、それが奥宮からだと分かると、がっかりしたように帰って行く。
駿は、その様子を見て苦笑していた。もし、瑤子の姿を見たなら、あれらはもっと夢中になってしまうのだろうな。
椿は、それを止めることは出来なかった。
それでも、昼間から思わせぶりに胡弓をかき鳴らすなど、下々の女のようですこと、という嫌味は忘れなかった。
最近では駿も、椿の言葉があまりに酷いので、全く椿の部屋へと足が向かなくなっていた。
瑤子はおっとりと美しく、決して椿の悪口など口にせず、侍女がその仕打ちの数々を言おうと駿に口を開こうものなら、鋭く諫めて言わせなかった。それは、高い地位に居る女の常で、そのような噂話や他神を貶めるような事を口にすることが、己の品位を落とすと知っているからなのだ。瑤子は、徹底して侍女達にすら、噂話をすることを許さなかった。
なので駿は仕方なく、己の侍女達に調べて来るように言い、そうして知った嫌がらせの数々は、目に余る事だった。
それでも、瑤子は決してその事を駿には言わなかった。
王に嫌な思いをさせないのが、本当の妃の姿だと教わっているのだろう。
だが、実際そんな女はなかなか居らず、少し前なら一般的であったそれも、最近では少なくなっていると聞く。あちらは、まだこちらから見ると一昔前の常識が通っている場所らしいので、瑤子はあちらの模範的な妃ということなのだろう。
…だからあちらは、まだたくさんの妃を娶るのだろうな。
駿は、そう思った。最近は、こちらの王達はそう多くの妃を娶らなくなった。面倒だと言うのがその理由だったが、そういったところが関係しているのかもしれない。
駿が、どうしたものかとため息をついていると、第一皇子の騮が入って来て言った。
「父上。」
駿は、顔を上げた。
「騮か。どうした。」
騮は、答えた。
「は。最近の奥宮の様子を、父上はご存知であるのかと思いまして参りましてございます。」
駿は、じっと騮を見た。
「どの様子ぞ。椿か?」
騮は、何度も頷いた。
「はい。母上には、最近はお人が変わったかのようなご様子。昔から活発で勝気なかたでしたが、最近では勝気では済まぬような状態でありまする。」
駿は、頭を抱えた。息子にまで言われるとはの。
「分かっておるわ。あれが嫁いで来る時に持って参って庭に植えておった百合を折ったこと、我が作らせた着物の裾を切り裂かせたこと、持って来た筝と胡弓の弦を切らせたこと、我の侍女が調べて参って知っておる。」
騮は、険しい顔をした。
「それだけではありませぬ。」駿が驚いた顔をすると、騮は続けた。「このままでは瑤子殿が危険ではないかと案じておる次第。あれの姉妹でもここに居れば、まだ気が晴れるのではと。」
駿は、顔をしかめた。
「これ以上妃は増やせぬ。二人でこれなのに、増えたらどうなることか。」
騮は、首を振った。
「違いまする。我が。」駿が驚いた顔をすると、騮は続けた。「実は、宇洲殿から打診を受けておったのです。瑤子殿の妹の、燈子殿を娶りまする。宇洲殿の第二皇女。同じ母から生まれた姉妹であるので、お互いに心強いでしょう。この上は、母上を数で牽制するよりないのです。騅とも話し合ったのですが、あれは庄子殿を娶ると申しました。全て同じ母、悠子殿の第三皇女。父上はお困りであられるようですし、回りから固めていきまする。」
駿は、呆気にとられた。まさか、騮と騅がそんなことを考えてくれているとは思わなかった。
「すまぬの。そうしてくれたら助かると思う。情けない事であるが、我にはあの母を押さえる術が分からぬのよ。諫めても全く聞く様子が無い。だが、投獄することも出来ない。そこまでの事をしていないからだ。」
騮は、グッと眉を寄せて厳しい顔をした。
「…父上。投獄せねばならぬほどの事をしでかしてからでは遅いのです。罪もない皇女が謂れのない嫌がらせをされておるのを見るのは、我も良い心地は致しませぬし、我が母は立ち合いもされるほどの強いご気性。重々身辺、気を付けてくださいませ。我は己の妃を守るのに手一杯になりましょうし。まさか燈子殿や庄子殿にまでとは考えたくありませぬが…分かりませぬゆえ。」
騮の方が、余程良く見て考えている。
駿は、反省した。瑤子があれほどに健気に仕えてくれているのに、女一人も守り切れないなど王として不甲斐ない。
駿は、頷いた。
「分かった。瑤子の事はよう見ておく。それから、主らの縁談の件も宇洲殿に知らせて正式に取り決めておくわ。それで良いか。」
騮は、頭を下げた。
「は。よろしくお願い致します。」
そうして、騮はそこを出て行った。
育てられた皇子が言うのだから、椿は本当に何をするか分からないのだろうな、と、駿は気を入れて瑤子を警備させることにしたのだった。
そんなこんなで獅子の宮も今、奥が大変だったが、楽の宴の日はやって来た。
あまり人数が多いと面倒だと、呼んだのは上位の宮の者達ばかりだ。
それぞれの宮の、楽を嗜む王達が、そこに集って共にお互いの演奏を楽しもうという事だった。
維心は、先に龍の宮へと来た匡儀を連れて、炎嘉の宮へと共にやって来た。
彰炎は、炎嘉の宮など何度も行っているから目をつぶっていても行ける、と言って、さっさと先に行ったらしい。
ちなみに宇洲も誓心も、それぞれの同族に連れられて、鳥の宮へと到着しているはずだった。
維心が、いつも一番最後に場が整った所へ到着するからだ。
輿から手を取って維月を下ろし、維斗が弓維を下ろしたのを見て、維心は隣りの輿を見た。
その輿からは、匡儀が自分の琴を臣下に持たせ、のっそりと降りて来た。
「…緊張して昨夜眠れなんだ。」
維心は、呆れたように匡儀を見た。
「なんぞ、子供のように。適当に合わせて弾いたら良いのよ、筝は志心も同じであるし。我など一人で十七弦とか炎嘉が言いおって。なぜに我が最初から独奏せねばならぬのだ。」
匡儀は、疲れ切ったように言った。
「もう良いわ。とにかく、先に男からであろう?後の女楽は楽しめそうであるから、それは良い。」
匡儀は、トボトボと足取り重く歩いて行く。
維心は、その後ろを維月の手を引いて歩き出した。
炎嘉が、庭に設えた四方から眺められる大きな舞台で待っていた。
夕方に差し掛かって、辺りは薄暗くなって来ており、松明の灯りがあちこちで立ち、幻想的で美しい。
男はその舞台で、女は脇の急ごしらえで建てられたらしい、木造の建物の中で演奏するという事らしい。
その木造の建物は、庭に向かって大きく開いていて、本来ならそこに障子でも挿してあるのだろうが、それも取っ払われた状態で、几帳だけが美しく立てられてあるのが見えた。
維心は、名残惜し気に維月を見た。
「では、主はあちらで。確かに姿を皆に晒すのはの。琴を弾くとなると、ベールは取らねばならぬしな。しばし分かれようぞ。」
維月は、ベールの中で扇を上げて微笑んだ。
「はい、維心様。維心様の琴の音を楽しみにしておりますわ。」
維月は、微笑んで維月の手を握った。
「我も主の演奏は聞き分けられるゆえな。しっかり聞いておるから、励むようにの。」
そうして、侍女に先導されて維心は舞台へ、維月は弓維と共に建物の中へと向かった。
建物の中では、もう合奏に加わる妃や皇女達が座って待っていた。維月が入って来たのを見ると、皆一斉に頭を下げる。
維月は、皆に会釈を返しながら、前列中央に設えられた席と座った。
すぐに、持って来た十七弦が維月の前にセッティングされる。
維月は、そこから見える庭が、几帳の向こうにそれは美しく見えた。あちらはたくさんの松明や行灯などが並べられてあって明るいが、こちらは中が見通せないようにそれほど明るくはない。
几帳に透けてみえる光景が、まるで別の世界のようだった。
「…美しいこと。本日は皆様格別にご立派であられて。」
維月が言うと、隣りの綾が頷く。
「はい、維月様。ついぞこんな催しは出て居りませんでしたけれど、遠く鷲の宮でのことを思い出してございます。」
高瑞も、居る。
維月は、ふと背後の弓維が気になった。あれから、まだ高瑞からの婚姻の申し込みは来ていないが、どうなっているのだろう。
素知らぬふりをするのも、結構難しいのだ。
一方、弓維は几帳の向こうに透けて見える高瑞の姿ばかりを目で追っていた。見ると、高瑞はどうやら筝を担当するようだ。そうなると、十七弦は維心、筝が匡儀、志心、高瑞、笙が焔、笛が炎嘉、維斗、彰炎、三弦が箔炎、宇洲、胡弓が誓心、という事のようだ。太鼓の位置に、義心が居る。拍子を取るのを間違ったら面倒なので、誰もやりたくなくて押し付けられた形だろう。
炎嘉が、立ち上がって声を張った。
「皆、本日は来てもろうてご苦労であるな。本日は演奏しない者も居るが、それでも楽の音を楽しんでくれたら良いと思う。」と、義心を見た。「では、始める。」
義心は、さすがに緊張気味に、太鼓を打ち始めた。
笛の音がそれに続き、そうしてそれが停まったと思うと、維心がまるでさざ波のような音を立てて、十七弦を奏で始めた。




