逢瀬
その頃、弓維は侍女から密かに連れ出されて、そっと北の庭へと出て来ていた。
侍女は、終わったらお呼びくださいませ、と言い置いて、回りを確認しつつ足早にそこを去って行く。
こんな時間に、たった一人でこんな場所に来るのは、弓維は初めてだった。
父の結界内で何かあるなど無いと思いながらも、心細くしていると、脇の茂みから、低い声が呼んだ。
「弓維殿。」
弓維は、そちらを向いた。
そこには、宴の席を抜けて来ただろう、高瑞が立ってこちらを見ていた。
「高瑞様!」弓維は、急いでそちらへと足を進めて、高瑞が差し出す手を取った。「あの、我はこのようなこと初めてで、あの…」
高瑞は、頷いて弓維の手を引いて、言った。
「こちらへ。」
そうして、弓維は高瑞に連れられて、庭の更に奥へと進んで行った。
かなり宮から離れ、ここまで来れば誰も居ないだろうと思えた時、高瑞はやっと立ち止って、弓維を見た。
「主のようにやんごとない皇女をこんな時間にこのような場所へ連れて参ってすまない。しかし、我は…どうしても、主に話しておかねばと思うて。」と、じっと見上げる、弓維の瞳から目を反らした。「…この間の、縁談の件の文の後は、尚更に。」
弓維は、言われて顔を赤くした。思えば、面と向かって言うのではないので、本音をつらつらと書き連ねていたが、考えたらあんなことを、皇女の自分から王の高瑞に言うなどとても恥ずかしい事だと思えたのだ。
なので、弓維は弁解するように言った。
「あの…申し訳ありませぬ。高瑞様には、何事も隠す必要も無いように思うてしもうて。あの、あのように申して、申し訳ありませぬ。」
高瑞は、首を振った。
「良い。我は嬉しかったのだ。だが…」と、表情を暗くした。「思えば、我の身分なら主を娶ると言えるのだがの、しかし、我には隠しておる過去があるのだ。それゆえに、我は女を遠ざけ、嫌なものと思うて来た。しかし、主に会って主を知った時、それが消えたのだ。他の女は信用できぬが、主のことは信じられる、我がまだ、このような気持ちを持つことが出来るとは、と、ただ嬉しかった。己の中に生まれた感情に、やっと解放されると歓喜した。だが…我は、主に相応しゅうない。なので、この感情を知れただけで良いと、そう思っておったのに…文が来て、そしてついついやり取りをしてしもうて。我はそれ以上を望むようになった。しかし、我は穢れない主とは、真逆なのだ。」
弓維は、驚いた顔をした。真逆…?
「過去のことは存じませぬが、我は…あの、女の我からこのようなことを申して、どのように思われるか分かりませぬが、高瑞様とお文のやり取りをしておって、段々に心が温かくなる心地でしたの。我は、父母のように、御互いをただ一人として添い遂げることを夢見ておりました。なのに、高瑞様となら、我が龍であって龍しか生まぬので、それが叶えられないと分かっておるにも関わらず、ずっとお傍に居たいと心の底から思えたのです。つらい事でも、お傍に居たら、耐えられるような心地がして…。」
弓維は、ハッキリと物を言う。
高瑞は、その様が清々しいと思った。女神はここまで己の考えを言わない。いつも匂わせるだけ、察して欲しいという様だ。
しかし、弓維は違う。文の書き方もそうだった。ハッキリと答えて、ハッキリと意見を述べる。その様子にまた、嘘が無く、己が言ったことにも責任を持とうという覚悟に見えて、また弓維が慕わしかった。
「…弓維殿、我はの。」高瑞は、思い切ったように、言った。「その昔、まだ閨の巻物すら見ておらぬような何も知らぬ歳に、書の指南に来ておった侍女に、襲われたのだ。」
弓維は、目を見開いた。襲われた…?まだ子供の頃に?
「え…お怪我を?」
高瑞は、苦笑して首を振った。
「いいや。怪我の方がまだマシであったな。我は何をされておるのかも、認識できぬままその女に体を奪われたのよ。」
弓維は、息を飲んだ。そんな…そんな暴力が、あるというの…?!
見る見る涙ぐむ弓維に、高瑞は淡々と続けた。
「ただただ嫌悪だけが残った。その女はそれを誰にも言うなと申したが、我はその日のうちに乳母に言い、乳母から父に知れ、父は激昂して大騒ぎになった。我にしたら、何をされたのか、どれだけ大事なのかもまだ知らぬでいた。父はその女を殺そうとしたが…その女は、あろうことかその一度で身籠っておったのだ。子に罪はない。月満ちてその子が生まれるのを待ち、その後、女は皆の前で嬲り殺しにされた。父も祖父もそれは怒り狂っていて、我は己がされたことが、どれほど残酷な事なのか、後で知った。」
弓維は、ハラハラと涙を流した。何とつらい思いをなさった事か…それなのに、優しさを忘れることなく、穏やかで落ち着いた神におなりだなんて。
高瑞は、弓維が黙っているので、続けた。
「ゆえにの、段々に育つにつれていろいろと知って参り、取り返しのつかぬことをされたのだと、その記憶がある事すら疎ましゅうてな。時に命を絶とうと思うたこともあったほど。だが、我しか跡取りの居ない宮で、それは出来なんだ。ひたすらに書や勉学、武芸、楽などに打ち込んで、忘れようとしておった。そんな折、母に言われて行った龍の宮で、主に出逢ったのよ。」
弓維は、ただただそれを聞いていた。高瑞は、弓維を見ずにひたすらに話し続けた。
「…夢のようだと思うた。美しいだけでは心は動かなんだが、あの書を見て、そうして話す様や内容を聞いて、主のような女が存在するのだと思うた。あれだけ女を信用出来ず、ただ疎んじていた我が、あれから主の事ばかりを考えておった。しかし、我はこんな過去を持つ。この歳で、もう100にもなる皇子が居るような男ぞ。己で選んで生まれたのならいざ知らず、あのような事件で生じた命。我は、あれに会うのも面倒で、あまり顔も見ておらぬ。高湊と申す皇子は己が、父の高晶の子だろうと思うて育っておる。つまり、我を兄と思うての。」
弓維は、驚愕の事実にただ涙した。自分が驚いたとか、そんな事では無かった。ただ、高瑞がそんな苦しみを背負い、ずっとこれまで生きて来たのかと思うと、あまりな事に涙が流れて止まらなかったのだ。
高瑞は、そこまで話してフッと息を付き、弓維を見た。弓維が涙を流してじっと高瑞を見ているのを見ると、また、視線を反らした。
「…話しておかねばならぬ事とは、この事ぞ。我は主に相応しゅうない。我が見ていた夢は、夢のままで良いのだ。これまで、これを隠して文をやり取りしておって段々に苦しゅうなって来た。主は、我の真実を知らぬまま、我に気を許してくれておるのだと思うと、居た堪れなくての。主には汚らわしい限りであろうが…そういう事ぞ。では、宮まで送ろう。侍女が迎えに参るだろう。」
高瑞が、弓維に背を向け、そこから立ち去ろうと足を踏み出すと、弓維は、その背に言った。
「…何が汚らわしいのでしょうか。」高瑞が、驚いたように振り返ると、弓維はこれまでとは違う、気の強そうな目でじっと高瑞を見つめ、続けた。「あなた様はこれまで、己の立場を弁えて、苦しみの中でも精進して生きて来られたではありませぬか。そのような目に合ったのは、あなた様のせいではありませぬ。その女ももうとうに死んでおらぬのに、いつまでも苦しんで、覚えていてやる必要などありませぬわ。我は、月の癒しの力を使うことが出来まする。ほんの少しですれけど。母が月であるので、完全に忘れることは出来ぬでも、遠くに追いやることが出来るのですわ。高瑞様、そんなことはもう、お忘れくださいませ。あなた様は、今何を望んでいらっしゃるのですか?」
高瑞は、真っ直ぐに自分を見つめる、弓維を見つめ返した。
「己がどんな存在なのか、忘れてはならぬと思うて…」
高瑞が言いかけると、弓維はその手をしっかりと両手で握って、ブンブンと首を振った。
「高瑞様は大変に優しく勤勉で大きなお心を持ったかたですわ!それ以下ではありませぬ!そんなことは、忘れて良いのです。常、何かある度にそれを思い出し、理不尽な扱いをされても己がそんな存在だから仕方がないと諦めておったのではありませぬか?あなた様に落ち度など、何一つないのに!」
そうなのか。
高瑞は、弓維をじっと見つめた。我に落ち度はないのだろうか。
「…我がぼうっと呆けておったせいなのでは無いのか。何も知らぬで抵抗すら出来ずでおったのは、罪ではないのか。だからこのような穢れを受けて、それを祓えずにおるのでは。」
弓維は、また首を振った。
「違いまする。悪いのは全て、とっくに死んだその女。高瑞様は、何一つ悪くはありませぬ。悪いとしたら、いつまでも身が穢れておるととっくに祓い清められておるのに気付かずに、いつまでも過去を引きずって壁を作っておられた事ですわ!あなた様は素晴らしいかた。どうかそれにお気付きになってくださいませ。あなた様は、もし我が幼い頃同じように誰かにかどわかせれておって、子を産んでおったとしたら、それをお責めになりましたか?」
高瑞は、すぐに首を振った。
「そのような!か弱い女がどう抵抗出来たと申すのだ。主を責めることなどあるはずはない。主は主なのだ。」
弓維は、何度も頷いた。
「同じですわ。高瑞様、あなた様もか弱い子供でありました。それをどうして我が責めるのでしょうか。あなた様はあなた様であられるのに。我は、高瑞様が高瑞様であるから、きっとお慕いしたのだと思います。」と、頬を赤らめた。「その、女からこのように。ですが、母がいつも、常は良いけどここぞという時には言いたいことは言わなければ後悔する、と申すので…我は、後悔したくありませぬ。」
高瑞は、目が開かれるような気がした。弓維は、このままの自分を受け入れてくれるのだ。自分は悪くない。悪いのは、とっくに死んだあの女だけなのだと…。
「…我も、後悔したくない。」高瑞は、潤んで来る瞳からどうにか涙を落とさぬように努力して、言った。「我の妃に、弓維殿。我は終生主一人を守る。龍であるのが何であろうか。そう、高湊が居る。あれを跡目にしたら良いのだ。我は主を、正妃にする。」
弓維は、高瑞の口から婚姻の申し込みを聞いて、へなへなとその場に崩れ落ちた。高瑞が、慌てて弓維を支えようとかがみ込む。
「弓維殿?」
弓維は、涙を流しながらも微笑んだ。
「はい。」弓維は、笑顔で言った。「はい、高瑞様。我は、あなた様にお仕えし、終生お傍に居りまする。でも…今、生きて来た中で一番頑張ってしまったので、足に力が入りませぬ…。」
高瑞は、ついに涙を落としたが、笑った。
「おお、無理をさせてしもうたの。」と、弓維を抱き上げた。「では、宮へ戻ろう。我が運んで参るゆえ。」
弓維は、それに真っ赤になったが、父が母をこうして運ぶのをいつも羨ましく見ていたのを思い出し、そっとその胸に頬を摺り寄せた。
「はい、高瑞様。」
高瑞は、これまでならこんなことをされたら怖気が走っていたのに、弓維を感じて心が沸き立ち、まるで火を噴くように体が熱くなるのを感じた。
「弓維…我は、誠に幸福になれそうぞ。主の事も、必ず幸福にするゆえ。」
弓維は、ただただ頷いた。
「はい、高瑞様。」
それを、やっぱり月は見ていた。




