軋轢
夜半、高晶の宮では上を下への大騒ぎになった。
そんな時間にも関わらず、龍の宮から急ぎの書状がやって来たのだ。
もう奥の間に入っていた高晶も、慌てて居間へと出て来た。喜久が、他の重臣及び筆頭軍神の沢と共に膝をついて待っていた。
皆が皆、大変に暗い顔をしていて、喜久が、膝を進めた。
「王。龍の宮より、急ぎの書状が参りました。」
高晶は、こんな夜中に、と思った。今日の礼といって、早過ぎるし普通は次の日の朝に来るものだ。
それが、こんな時間に急ぎでとは、いったい何事か。
「本日の礼か?なぜに嫌がらせのようにこのような時間に参るのだ。」
喜久と沢が、顔を見合わせる。沢が、言った。
「恐れながら…そのような簡単なものではないかと思いまする。我が書状を受け取りましたが、持って参ったのは筆頭の義心殿でありました。」
喜久も、言った。
「礼と言うなら、あの宮なら大層な品を共に持って参るはず。それもありませなんだ。」
高晶は、怪訝な顔をして、塗りだけでも大層な、文箱を開いた。
するとそこには、軍神から報告を受けたと維心が烈火の如く怒っている、内容が面々と書き連ねられてあった。
しかも、本来臣下が書くものだろうに、余程腹が立ったのか、滅多に筆を取らないことで名高い維心のそれは美しい文字で、しかも怒り狂っているだろうことが、伝わる筆致で書き殴られてあった。
「な、なんとしたこと。」高晶は、自然手が震えて来て、その書状をはらりと落とした。「維心殿が…。」
臣下達は、落ちた書状を我先にと覗き込んだ。
そして、一様に真っ青な顔になり、ガタガタと震え出した。
「こ、このような…!龍王様のご直筆ではありませぬか!そ、それがこの、このような内容で、これは、王、大変な事に…!」
沢が、震える手で書状を恭しく持ち上げ、恐る恐る文箱へと戻して、言った。
「すぐに、お詫びを。龍王妃様は何も仰いませんでしたが、確かに軍神達が険しい顔で付き従っていたのです。特に義心殿は、龍王様からの命でありましょうが、ぴったりと龍王妃様の傍に付き従っておって…席の設えの件も義心殿から咎められ、挨拶の時も、ただ険しい顔で見ておりました。全て報告しておってもおかしくはありませぬ。」
喜久は、震える声で言った。
「あの時も、詩織様がいらっしゃらないのを龍王妃様は特に咎められませんでしたが、気付いておられた。王がそれに気付いておられながら、詩織様を呼び出すことも、咎めることも無かったのは、皆が見て知っておりまする。その様子を軍神から聞かされて、龍王様がこのように思われてもおかしくはないのです。」
高晶は、油断した、と思った。どうせ拗ねているのだと、いつものように思って見逃がしていただけだったのだ。言われてみたら、大変に無礼な事。龍王妃と言えば、龍王の名代のようなもの。それを、そんな扱いをしたのかと、それは維心は腹を立てたことだろう。
だが、高晶はそんなつもりはなかった。詩織を説得して奥から引っ張り出し、その間龍王妃を立ったまま待たせる方が、無礼だろうと思ったのだ。
しかし、そもそもが妃を説得しなければならないことから、この宮はおかしいのだ。
「…どうしたら良いのだ。今から出掛けて行くわけにも行かぬ。書状だけを遣わせて、明日伺うととにかくはお返事を。直接に謝罪をさせて頂きたいと。」
喜久は、首を振った。
「王自らお返事をお書きにならねば。龍王様は直筆で送って来られたのです。更にお怒りを買わぬためにも、王が自らお筆を取ってお書きにならねばなりませぬ。」
高晶は、頷く。書が不得意だとか言っている場合ではない。龍王は、これほどに怒っていてさえそれは美しく美術品のような文字だ。だが、美しいだけに、その怒りが更に強く伝わって見ているだけで震えが止まらなかった。
「いやしばらく。」沢が、喜久の脇で言った。「その前に、詩織様のご処分を。明日、龍王様に申し開きをするためにも、王がどのようなご対応をされたのか、ご説明せねばなりませぬ。何もしておらぬとなれば、更にお怒りを買うのは火を見るように明らかです。すぐに対応を決め、それをお返事して、そしてその上で謝罪された方が良いかと思いまする。」
高晶は、ハッとして奥を見た。やっと詩織をなだめて、共に休もうかと思っていたら臣下が大挙してやって来たのだ。
「処分と?あれを斬れと申すか。」
沢は、険しい顔でゆっくりと頷く。喜久が、膝を進めて必死に言った。
「王、事は宮と宮の関係になって参っておりまする。この宮の存続のためにも、不始末を起こした者は処分せねばなりませぬ。御決断くださいませ。明日には王が斬られておしまいやもしれぬのに。」
高晶は、その可能性を考えた。維心のこの怒りようなら、確かに考えられなくもない。だが、詩織を里へ帰すというなら納得できるが、斬って捨てるなど…。
「…炎嘉殿に、書状を。」高晶は、言った。「今ご相談できるのは、炎嘉殿だけぞ。維心殿が話を聞くとなると、炎嘉殿ぐらいしかない。この時間に失礼ではあるが、我が書くゆえ、それを持って急ぎ行って来てくれぬか、沢。」
沢は、そんな悠長な、と思ったが、確かに龍王のことなら炎嘉に聞くのが一番早い。
沢が黙って頷くと、高晶は急いで必死の思いで炎嘉に宛てて、助けて欲しいと書を送った。
炎嘉は、急ぎの書状が来たと開に叩き起こされ、奥からブスッとした顔で出て来たが、持って来た軍神の沢が悲壮な顔で膝を付いているのを見て、スッと表情を険しくした。
そうして、沢から渡された書状を見て、益々顔をしかめたが、フッと息をついてそれを膝に置いた。
「…面倒な事を。あれを怒らせたか。直筆で来るなど、我にでも滅多に無いというに。恐らくは鵬にでも書かせていたが、怒りが収まらず己で書き殴ったのだろうて。こと維月に関しては、あれは冷静ではおられぬのだ。」と、息をついて書状を開に渡した。「…が、維心が怒るのももっともぞ。席の件は義心に言われて直したからギリギリ許せても、最後がまずい。なぜに咎めて引きずり出さなんだのよ。格下の宮の者が帰るなら見送りなど不要であるが、本来宮から出ぬ立場の者がわざわざ来訪しておるのに、見送りもせぬのは己の方が上だと申しておるのと同義。つまりは、維心が帰るのに高晶が見送りに出ておらぬのと同義ぞ。それを知らぬわけでもあるまいに。沢、我に助けて欲しいなら、知っておる事を包み隠さず申せ。」
沢は、宮の恥と言うのをためらったが、しかし炎嘉に助けてもらうなら、隠しごとなど出来ない。
なので、渋々言った。
「は…。実は、王には三人の妃が居りまする。明子様、寧々様、詩織様。」
炎嘉は、頷く。
「二人は知っておる。多岐の妹と、道長の妹よな。最後のは知らぬ。」
やはりそういう認識か。
沢は思った。王は、自分の知っている者の関係で、皇女の事を認識している。なので、詩織の事は知らないのだ。
「実は、詩織様は領地内の民の家から侍女として上がった女神で。大変に王に取り入るのが上手く、娶られた後は王のご寵愛を笠に着て、己が天下という様でありました。我らも何度もお諫め致しましたが、王はお聞きくださらず。先に入っておった明子様も寧々様も、王に虐げられて日陰の身であられ…それでもお二人とも、文句も仰らずに我らに接してくださっておりました。最近では龍王妃様の茶会から、明子様が龍王妃様とご懇意であったのを妬み、王に進言なさって明子様は龍王妃様とご交流も出来ずでおりました。龍王妃様は急に文の行き来も無くなったので、それを案じてあのように宮を出て来られて、明子様にお会いになるために来られたようでありました。」
維月ならやるだろうの。
炎嘉は、思って聞いていた。どこかで聞いたような話だ。どこの宮でもたまにあることだが、王がつまらぬ女に現を抜かし、そのせいで宮が乱れて宮の信用を落とす。箔翔も、生きていた頃それでもめたことがあった。あの時、維心はその箔翔の妃が、己から維月に話しかけただけで激昂して箔翔を咎め、維月を部屋へ帰したことがあった。格下の者は格上の者に公の場で己から話しかけることが出来ない決まりがあるからだ。
炎嘉は、またそのようなことか、と息をついた。
「昔も一度、維月に己から話しかけた女が居て維心が激怒した事があったわ。その折は離縁で済んだが…此度はのう。なぜに高晶は詩織という妃をそこへ呼ばなんだ。呼べぬにしても、維月に具合が悪うなったゆえとか、謝罪しておったらこうはならなんだのに。」
沢は、下を向いた。それに気付かなかった、自分達臣下の責でもあるのだ。あまりに詩織の我がままに慣れてしまっていて、そんなものだとなってしまった。
「…申し訳ありませぬ。常の事と、皆が皆我がままに慣れ過ぎてしもうてそれに気付かなかったのでございます。」
炎嘉は、立ち上がった。
「しようがない。もう寝たいと思うておったが、今から高晶に会いに参ろう。それから、詩織という妃、場合によっては諦めねばならぬやもしれぬぞ。維心は滅多にここまで怒らぬが、これは恐らく、維月にというよりも、己の統治を根底から覆す事態になるのではと高晶の意識の緩みに怒っておるのだ。神世がなぜに序列で縛られておると思う。戦を起こさぬためぞ。維心に歯向かう者が居れば、維心は事前に叩き潰さねばならぬのだ。だからこそ、僅かな反抗に敏感ぞ。事は宮の奥の乱れだけに留まらぬのだ。それほどの大事だということ、主も知っておくが良いぞ。」
言われて、沢は頭を下げた。
「は…。」
龍王を怒らせたら怖い、とだけ思っていたが、確かに龍王は世の大勢の王達を抑えて統治しているのだ。僅かな無礼にも、そこに反抗の芽を感じて、神経質になってもおかしくはない。
沢は、項垂れたまま炎嘉を連れて、共の軍神嘉張と共に、高晶の宮へと帰って行ったのだった。




