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惹かれる文字

維斗は、言った通り侍女に文箱を取って来させ、その中から母が徒然に書きつけた紙を引っ張り出した。

そこには、あちこちに文字が書き散らされてあって、幼い頃の維斗の文字や、維明の文字の傍に、維月の文字と、そして維心の文字もあった。

つまりは、家族で居間に集っていた時に母が書の指南をしてくれて、父もそれに加わってくれた珍しい時の記念の品だ。

だいたいは、忙しい維心はそんなことに時間を割く暇が無かったからだ。

維斗は、懐かしくその時を思い出しながら、その書をテーブルの上に置いた。

「これは、我らがまだ幼い頃のもので。」と、大きなその紙を広げて見せて、指さした。「こちらが母。そして、こちらが父の文字よ。これがその当時の我の文字で、これが兄上の文字よな。懐かしい。」

龍王と龍王妃の文字?

皆が、身を乗り出してその紙を覗き込んだ。龍王の文字など、滅多に目に出来るものではないからだ。

「まあ…このようなものが世にあったとは。」

晶子が、息をつく。

維心の文字は、確かに美しいのだ。完璧に力加減を計算してあり、それでいて皆同じでは無く、大きく、強い筆致でありながら深い。そして、とても強かった。

「…これほどとは思わなんだ。」高瑞が、その書を指先でなぞった。「さすが龍王。一朝一夕ではこのような文字にはなるまいに。年月を感じさせるそれは強い文字。それなのに、なぜか安心させるような。そして…」と、隣りの、維月の文字にも触れた。「これ。これを見たのだ。龍王の文字と似て非なる大らかで繊細な、しかし芯の強い文字。今思うたらあれは、龍王に宛てた恋文であったのだな。我は、あの時この龍の宮でこれを見たのだ。そうか…だから、弓維殿の文字と似ておったのだな。」

舞子が、驚いたように高瑞を見た。

「え、ではこちらが、お兄様が常おっしゃっておられた、見た事もないような美しい文字?」と、維月の手を見つめた。「誠に…しかしながら、龍王様の御手と確かに似ておりますこと。でも、全くの別ものであって。」

維斗は、頷いた。

「母は、嫁いでから父に指南されて腕を上げて行ったのだと聞いておる。月の宮では、気ままにお育ちであったらしいので、ほとんどが父から教えられてあのようにおなりなのだと。父は、何も知らない母に根気強く教えて参ったのだと、母本人から聞いておる。誠、父上は母上を大切になさっておいでなのだと、我はそれを聞いて思うた。」

最初から優れた妃ではなかったということなのだ。

それなのに、龍王は一からいろいろと教えて育て上げた。だからこそ、今では龍王妃として当代一の貴婦人だと言われるまでになった。

そう思うと、皇女達からは羨望の眼差しが維月に向けられた。王に愛され、たった一人大切にされることが、神世ではそれは難しい。しかし、それこそ皇女達が望む幸福なのだ。

さすがに、維月はこちらの視線が自分に向いているのに気付いて、こちらを向いて微笑んだ。

「どうかしましたか?何か紙を見て…書の勉強ですか?」

皆が無遠慮に龍王妃を見ていたことに気付き、慌てて顔を赤くして頭を下げる。維斗が、それに答えた。

「はい、母上。皆で歌などを書いて文字の学びを。なので、我が幼い頃に書いておったものを持って参って皆で眺めておったのです。母上がお手本を書いてくださったもので、高瑞殿が書に詳しく、母上の文字が殊の外美しいと申して。」

維月は、それを聞いて驚いたように目を丸くしたが、すぐにまた微笑んだ。

「我の文字は、王に御指南頂いたものですのよ。いつも手ずからお手本を書いてくださって、我はそれを見て毎日精進しておりましたの。このような場で、皆に見せるのも恥ずかしいものですのに。」

しかし、楓が思い切ったように言った。

「いつも母も祖母も龍王妃様の御手をそれはほめそやしておりますわ。我も、このような文字が書ければと思うて憧れておりますの。」

維月は、楓を見て微笑みかけた。

「まあ、ありがとう。そのように申してくださって嬉しいこと。」

楓は、維月に声を掛けられて顔を真っ赤にして下を向いた。高瑞が、口を開いた。

「昔、まだ我が幼い頃に、目にした文字であったのです。祖父に連れられて参ったこの宮で見たようでありました。額に入れて飾られてあった、恋歌でありました。」

維月はそれを聞いて、少し頬を赤らめた。

「ま、まあ…。それは多分、王がどうしてもと臣下に申しつけて表装させてしもうたものですわ…。あの頃我は、やっと人並みに文字が書けるようになって参ったばかりで、飾るなどお許しくださいとお願い申しましたのに、居間に飾っておられて…。」

今もある。

維月は、書き直したいと言っているのに、維心はそれを許してくれない。一生懸命自分のために心を込めて書いてくれたこの歌が、何より嬉しいのだとか言って。

なので維月も意地になって、最近になって維心の返歌もその隣りに表装させて並べた。なので、居間には二人の歌が並んで飾ってあるのだ。

弓維は、扇を上げて目だけで微笑んで言った。

「今はお父様の返歌と共に並んで飾ってございますものね。我は…誠に、父と母のようにありたいと願っておりますの。」

それには、楓も柚も、晶子も舞子も同時に頷いた。

「誠にそうですわ!我もそのように。」

晶子が言う。確かに皇女から見たら理想的な夫婦像なのだ。明子が、維月の隣りで苦笑した。

「なかなかに難しいことですわ。神世の王にはいろいろな柵がございますの。王のお志が余程お強くなければ…羨ましいこと。」

維月は、ハッとした。そういえば、高晶も悪い王ではないのだが、三人の妃が居て、この明子が一番古くからの妃で、子も多く跡継ぎも産んだ妃として宮での地位は高いらしいが、如何せん高晶は、一番最後に入った詩織が今の気に入りのようで、詩織にばかり通うのだとか。それは、千夜がここに居た時から噂に聞いていた。

だからと言って神世ではそれが常識なので、誰も文句は言えないのだが、人世での記憶のある維月にとって、それは身勝手なように思えてならなかった。

とはいえ、ここでは本音は言えない。

なので、維月は言った。

「…神世の王に於かれましては大変に気苦労の多い地位であられるので…。我は我が王に心からお仕えするだけでありますわ。」

維心様以外なんて眼中にないし。

維月は心の中で思っていた。すると、ふと維心の気が自分の頭の中をかすめた気がした。

…維心様…?

維月は、空に見えない、月を探して窓を見上げた。


その頃、早くから始めた宴なので、夕刻前にもう、終えて席を立っていた上位の王達は、そのまま志心に促されて志心の居間へと来ていた。

宴の席で散々話をして、本日維心が帰る時に、一万の龍軍を連れて帰る事にしたので、義心は忙しくその準備に飛び回っているようだ。

それに伴い、箔炎の宮に置いている方の軍神も引き揚げさせる予定だった。

「彰炎の娘が居ってなあ。」炎嘉が、もう酒は要らぬと茶の飲みながら、言った。「それを炎月の妃に迎えると話になっておるところで。あれに妃は、ええっと、今15人らしい。」

皆、驚いた顔をする。

焔は、目を丸くした。

「今時珍しいの。また苦労を抱え込んでからに。」

志心が苦笑した。

「こちらは今、余裕のある宮であって、迎えても5人ぐらいまでぐらいであるが、あちらはまだこちらの一昔前と変わらぬのだろう。元々鳥は妃が多いのだ。炎嘉だって前世は多い時で23人居ったではないか。斬り殺したから21人になっておったが。」

炎嘉は、盛大にため息をついた。

「あれはまずかったわ。名が覚えられぬのだ。皆が皆困っているとか申すから、ならば支援をと妃を迎えておったらあんなことに。」と、維心を睨んだ。「そもそもこやつが一人も引き受けてくれぬから、全部我の所へ来てしもうてああなっておったのだぞ?本当なら維心と半分ずつぐらいで済んだのに。」

維心は、あからさまに嫌な顔をした。

「あんなものは例え一人でも要らぬわ。奥に常にうろうろされることを考えたら虫唾が走ってそれだけは譲れなんだ。」

箔炎が、真面目な顔で言った。

「今は妃が嫌がるほど傍に居る癖に。」

維心は、箔炎を睨んだ。

「維月は嫌がっておらぬわ。いつなり我を待っておるのに。」

焔が、ハイハイと手を振って杯を口へ持って行った。

「王は皆そう思うておるのよ。妃が王を拒めるわけなどあるまいに。王を待つのがあれらの仕事なのだからの。」

維心は、ムッとした顔をした。

「維月は怒ったら月へ帰ってしまうわ!我は常、あれが帰らぬようにと気を遣っておるのに…あれに神世の婚姻の常識が通じるものか。表面上は上手く取り繕えても、こと二人で居ったらそんな甘いものではないのだぞ。」

それには、炎嘉が神妙な顔をして言った。

「本来ならむきになってとからかうところであるが、維心が言うは間違っておらぬ。誠あれは、気難しゅうてこれも困っておる時があるのだ。維心はもとより他の女などに興味がないからこれで済んでおるが、もし普通の男であったらまず、とっくに離縁で里へ帰って出て来ぬだろうの。」

志心も知っているので、黙ってうんうんと頷いている。

駿が驚いたように言った。

「それほどまでに。面倒だとは思われぬのか。」

維心は、すぐに首を振った。

「思わぬ。我はあれが居らぬ方が耐えられぬから。居ってくれるならあれぐらいの気苦労は何でもないことよ。」

蒼は、前世からの長い付き合いなので、二人の変遷はずっと見て来た。本当に、維心はよく我慢していると思う。

「維心様は前世から本当に、あの母で良いのかと思うておったぐらいでありました。今生、月として育ってまた更に我がままになっておったのに、それでも維月を娶ってくれて。記憶を戻してからもいろいろございましたのに、これまでよく維月だけを想うて来られたものと思います。」

維心は、蒼を見てその目が維月に似ているので、フッと表情を弛めると、答えた。

「我から見たら、なぜに神世の男が一人と決めぬのかと疑問よ。その方が跡目争いも無く、同じ母から生まれた子達ばかりで仲も良く、面倒な奥宮の争いも無く、お互いに幸福で落ち着いて暮らせると思うておるから。まあ、そうはいかぬのは神世の体系から仕方がないと理解できるが、居って二人ぐらいではないかの。それ以上をしっかり見てやることなど出来ぬだろうから、不満も貯めて恨みも買うのではと我は思う。ちなみに我は、維月以外は絶対に要らぬ。」

神世の王として、珍しい考えだ。

恐らくは長く維月と来たので、数百年かけて維心の価値観が変わって来たのだろう。

炎嘉が、諦めたように椅子の背に沈んで、言った。

「言い返す気にもなれぬ。確かに我も、今生はもう凝りて妃は面倒ぞ。居って一人か二人。そう考えるようになった。焔もそうであろう?」

焔は、何度も頷く。

「もちろんよ。出来たら要らぬぐらいぞ。誠維心のように、心底執着出来るような女が居ったらと思うわ。」

維心は、維月に出逢え、そして愛してもらうことが出来た幸運を、天に感謝していた。もしかしたら、このうちの誰かが先に維月の心を奪っていたかもしれないのだ。

維心がふと、視線を上げて維月を想うと、維月が同じ時に維心を思い浮かべているのが直感的に感じ取れた。

…もう帰るか。

維心は、待っている維月を想って、そう思った。

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