事実
維心は、日がとっぷりと暮れて暗くなった中、龍の宮へと帰った。
奥へと向かうと、維月が慌てて奥から出て来て、頭を下げた。
「お帰りなさいませ、維心様。なにやらお忙しいのですわね。侍従が知らせて参ったと、侍女から聞きました。」
維心は、維月の手を取って頷いた。
「遅くなってすまぬな。いろいろ立て込んでおっての。」
維月は、首を振って微笑んだ。
「いいえ、縫い物がはかどりましてございます。仮縫いはもう終わったので、明日からは仕上げに入れますわ。」と、維心が何やら重苦しい気を発しているので、怪訝な顔をした。「どうなさいましたか?何か、面倒でも?」
維心は、維月と共に椅子に座りながら言った。
「主に話さねばならぬことがあるのよ。」と、息をついた。「十六夜なのだ。」
維月は、眉を寄せて言った。
「まだ何か無理を申しておるのですか?」
維心は、首を振った。そうか、何も見ておらなんだか…そうであろうの、何かに必死の時は他に目が行かぬから。
維心は思いながら、維月の手を握り直した。
「落ち着いて聞くのだ。実は十六夜は、瀬利にごねてごねて、指南を受けようと軽い気持ちでな。その、あちらで命を繋いでしもうたようなのだ。」
維月は、維心に握られていない方の手で口を押さえた。
「え。それは…誠に完全に繋いだのですか?それとも、教えただけと?」
維心は、答えた。
「完全に繋いでおった。実は、昼過ぎに碧黎が、会合中の我に話し掛けて参って、慌てて大氣を探して止めようと瀬利の屋敷へ向かったのだ。そうしたら…間に合わなんだ。夕刻まで、そのまま繋いでいたようぞ。」
ならば、完全に繋いだのだ。
維月は、そう思った。十六夜の事だから、軽い気持ちで始めたのだろう。それが、恐らく我を忘れてそんなに長時間になったのだと思われた。
何しろ、十六夜は分離の方法は知っている。
それをしなかったということは、少なからず瀬利との関係を楽しんでいたのだと思われた。
「…ならば十六夜は、進んで瀬利とそういう関係になったのですね。指南だけなら、分離の方法は知っておるのですから、しばらくしたら離れるはずなのですわ。それだけの時間ということは…楽しんでおったのでしょうね。」
維心は、何も言っていないのに維月にバレている事実に焦って言った。
「あれも初めての事であるから。恐らく飲まれてしもうたのだろう。」
維月は、首を振った。
「維心様は、もうご存知のはずですわ。あれは、婚姻の行為のような感覚もございます。受け入れられなければ、そんなに長い時間続けてはいられぬものなのです。でも…十六夜に、誰も教えなかった事もまた事実。本来なら、私が教えれば良かったのですわ。私も、一度きりとの約定があるので、教えてしまったら十六夜がまたやると聞かぬのではないかと案じておりましたし、そうなった時には、維心様にも碧黎様にももう一度ということになるので、リスクは冒さぬ方向で考えて教えぬつもりでありました。いろいろ、思惑が噛み合わぬ間に起こってしもうたことなのでしょう。」
維月の言うことが尤も過ぎて、維心は返す言葉もなかった。
十六夜は、やはり考えなしな所があるので、知ったら何度もと言い出す可能性はあったし、現に眠る維月に勝手に繋ごうと考えていたという。
維月がそう思っても、仕方がないのだ。
「…十六夜は、今自分がしたことを省みて悩んでおるのだ。また、対応を決めて、瀬利とも話し合ってこちらへ話に参ると言っておった。それを待とうぞ。」
維月は、頷いたが、複雑な顔をした。
「…でも…十六夜は、初めて私以外の女性とそんな関係になったのですわ。私達は今生共に育ちましたし、いつも側に居たので、当然のように対となっておりましたけど、十六夜が他の女性とそうなっても、良いかと思うのです。」
維心は、そんな風に考えるのではないかと思っていたので、驚かずに言った。
「それは、夫婦でなくなるということか?」
維月は、苦笑した。
「元より私は、維心様と夫婦でありましょう。十六夜とはもう、兄妹のように過ごしておるのだとお話致しましたわね。体の関係も少なくて、時々十六夜から誘って来るくらいでしたし。それが無くなるだけですわ。同じ月ではありますし、一緒に生まれた双子でもあります。それは変わらぬのですから。十六夜が選ぶのなら、私はそれで良いと思いますの。」
だが、前世今生共に来たのに。
維心は思ったが、長い年月の間に、十六夜と維月はそうなったのかもしれない。
確かに十六夜は気ままだし、滅多に降りても来なくて維月をほったらかしなのは事実だ。維心が側に置いていて、たまに会いたくなったら里帰りだと言って来る。だが、あちらでも長くは側に居られなくて、碧黎や嘉韻、蒼が挟まる事で、何とか間を持たせている状態だとか。
言われてみたら、神世の夫婦のようなことは、あまりしていないのだ。
「…難しいの。我には分からぬが、あれが話したいと言うのなら、話を聞いてやるが良い。主は特に、此度の事を怒ってはおらぬのだな?」
維月は、首を振った。
「不思議と怒る心地にもなりませぬ。十六夜が選んだのなら良いのではと思うのです。今も言うたように、体の関係は無くなりますが、他の関係性は残るのです。私は、十六夜にも幸福になってもらいたいのですわ。私の感覚は維心様が夫であるので…。十六夜だけ、夫として想う事は出来ないのですわ。そもそも十六夜だけなら、耐えられなかったと思うのです。だって十六夜は、あちこち行って側には居てくれないし、すぐに飽きてしまうのですもの。私が思う夫婦像とは異なり過ぎていて、維心様が居られなければ、十六夜自身も度々申しておりますが、私達は喧嘩ばかりでした。続かなかったと思います。」
確かにあれは、放って置き過ぎであるものな。
維心は、ため息をついた。時々聞いていたことだったが、こんな時には良いのか悪いのか…維月が傷付かないので良いのかも知れない。
だが、十六夜は今、どう思っているのだろう。
維心は、あちらでの話し合いが気になって仕方がなかった。
一方、十六夜と碧黎は、瀬利の屋敷の居間で、大氣と瀬利の二人と向き合っていた。
十六夜は、瀬利に言った。
「オレは、責任を取ろうと思ってるんだ。」十六夜は、真剣な顔で言った。「瀬利と、夫婦になってもいいと思ってる。ここには住めないが、ここへ通う形で。」
それを聞いた瀬利と大氣は、顔を見合わせた。
そして、瀬利は言った。
「…十六夜、そのように簡単に決めてしもうて。我は言うたの。責任など感じずで良いのだ。我にとって、命を繋ぐという行為自体、それほど重い事ではない。確かに、試してみたら思うたより重い行為であるなと思うたが、しかしお互いに知らずに試した事であるから。我はこれからも、主に対してこれまでの姿勢を崩すつもりはないぞ。」
大氣は、隣りで頷いた。
「瀬利は、主があまりに不憫であるからと、教えてやろうという気持ちもあったし、それに己もしたことの無いことであったから、一度経験しておくか、ぐらいの気持ちであったとあの後言うておったのだ。なので、そのように重く受け止めずで良い。主は主のしたいようにしたら良いのだ。」
碧黎は、ただ黙って聞いている。
十六夜は、言った。
「だが、一緒にあんな経験をしたのに。そんなにあっさりこれまで通りなんて出来ねぇよ。間違いなく特別な存在になったと思う。」
瀬利は、それには頷いた。
「それはそうよ、あのような事をしたのだからの。だが、夫婦となると、体の行為もすることになるのではないのか?我は…さすがに、そこまでは主とは出来ぬ。」
十六夜は、驚いた顔をした。
「命を繋いだのに?…親父とは、一度きりだってしようとしたって言ってなかったか。」
瀬利は、困ったように笑って首を振った。
「十六夜、主とて同じだと思うておったのに。考えてもみよ、我は主と感覚が似ておるのだ。分かるか?我にとっては体の行為の方が重いのだ。命を繋ぐ行為は、確かに心地良かったが、それほど心に重い事ではないな。それから、碧黎との事は…本人を前に申すのもなんだが、我は未だに心の底から想うておるから。例え一度きりであっても、碧黎であれば良いと思うたのよ。主もそうであろうが、我も主の事は特に慕わしいとも何とも思うておらぬのだ。ゆえ、突然に夫婦にと言われても、我は主とは否と申すしかないのだ。」
十六夜は、ショックを受けた。つまり、瀬利はあの経験をしても十六夜の事は愛してもいないし、夫婦となると体の関係もあるから、そんな事は十六夜とは出来ないと言っているのだ。
大氣が、取り繕うように言った。
「そら、長い年月思うて来たのに、あっさり碧黎を諦められるはずなど無かろうが。それでも、碧黎が維月を選んでおるから、これは思うておっても無理は言わぬのよ。主は碧黎から分かれた命ではあるが、全く似ておらぬしな。息子のような心持になるのだ。ゆえ、瀬利は主とは夫婦にはなれぬのよ。そんなわけで、主は己の愛しておる者の側に居れば良い。そっちとは、話はついたのか?」
それには、碧黎が答えた。
「…今、維心が話しておったのを聞いておったが、維月は落ち着いたものよ。十六夜が瀬利を選ぶのなら、それで良いと。十六夜に幸福になって欲しいのだと申しておった。何しろ、今生これらは兄妹で、最近はあまり体の関係も無いし、しかも十六夜は己が良い時にしか維月に会いに行かぬから。里帰りしておっても我や嘉韻、蒼と時を潰すしかないのだ。そんな関係なので、維心が居らねば上手くは行かぬだろうと、十六夜自身も常、言うておったと維月は維心に話しておるわ。十六夜とは、夫婦像が合わぬから、十六夜だけではとっくに別れておったろうし、十六夜は十六夜に合った相手が見つかれば、その方が幸せなのではないかということらしい。ちなみに此度の事は、不思議と腹が立たぬと。」
十六夜は、確かにその通りなので、難しい顔をした。自分は、瀬利とそんなことになってしまったし、時々に通う形で夫婦になってもそれで良いかと思っていた。何しろ、維月とは月同士だし、兄妹だしで、関係性がそれだけになるだけで、離れるわけでもない。これまでとあまり変わらないので、それで良いと思ったからだ。
双子で一緒に育ったので、考えることは同じなのだ。
だが、瀬利はそんなことは望んでいないらしい。
維月に愛されて受け入れられて来た十六夜にとって、まさかあんなことをしておいて、受け入れてもらえないとは思いもしなかったのだ。
「オレは…じゃあ、どうしたらいいんだ。」
十六夜は、急に怖くなった。維月は、妹なのは変わらないのでこれからも里帰りの度に一緒に遊んだりは出来るだろうが、これまでのように、人恋しいからと体を求めたりは出来ない。こんなことをした十六夜を、維月がそういう関係の相手として受け入れるかとどうかと考えたら、絶対に無いと思えたからだ。
碧黎が、言った。
「…とりあえず、維月と直接話すしかないな。その前に、主はどうしたいのだ。図らずも主から維月にもう夫婦ではないという事を行動で突きつけてしもうた事になっておるゆえ、再び元の関係に戻るは難しいかもしれぬ。」と、じっと自分の頭の中を探るように目を虚空に向けた。「…維月の価値観と考え方を読み取ると、主とは二度と命は繋がぬな。体はと申すと…やはり、やめておいた方が良いと判断しそうぞ。これは、我の中の維月に問うた結果であるので、実際の維月がどう判断するかは分からぬがの。気持ちは移ろう。主のようにな。」
十六夜は、命を繋いだことで心を移した自分の事を言っているのだと思った。別に、心を移したわけでは無くて、瀬利とそういう関係でも良いかと思っただけだった。維月とはこれまで通り遊び回ったり話したりできるのだし、寂しくもないのだろうと。
それよりも、瀬利と分離した時の虚無感の方が心に引っ掛かっていて、どうやらそれで、瀬利との繋がりを求めているようだった。
なので、それを素直に碧黎に打ち明けた。
「…あんな経験は初めてだったし、分離した時の何かを失ってしまった虚無感っていうか、そう言うのが心に深く残ってて。オレは、だから瀬利との繋がりを求めてるみたいだ。」
それには、瀬利が困ったような顔をした。碧黎が、それに重々しく頷いた。
「直後であるからな。しばらく相手の気配が自分に残るのだ。命というのはたった一つで生まれて参るし、だからこそ他者を求めるのだが、命を繋ぐことで、その寂しさが埋められる。我も経験があるが、一度維月と繋ぐと離れたくなくて困るのだ。それは、命の寂しさであって、愛情とはまた別物ぞ。初めてであったら、時に誤解するやもしれぬとは思う。だからこそ、我らは滅多な事では命を繋がぬのだ。これと決めた相手とでなければ、混乱するではないか。主は今、己が誰を愛しておるのか分かっておらぬ状態ぞ。しばらく経てば、その気配も消えて誠の感情が戻って参る。それまで、決められぬのも道理やもしれぬな。」
これは幻なのか。
十六夜は、思った。この上、瀬利と結婚などしてしまったら、我に返った時に後悔することに…。
大氣が、碧黎を見て言った。
「しばらく月の宮で隔離でもしておいたらどうか?瀬利はこの通り、十六夜の気配が残っておっても十六夜と共にとは考えておらぬし、これから先も無かろう。十六夜には此度の事を忘れるように努めてもらって、もう婚姻などとは言わぬでおって欲しい。瀬利の優しさに、これ以上付け入るでない。十六夜よ、そも主のわがままからこんなことになったのだとようよう考えて、少々辛くとも瀬利の事は忘れるが良いぞ。」
十六夜は、頷いた。お互いに軽い気持ちでやったことで、こんなに大事になってしまった。
考え無しだとしょっちゅう言われて来たが、今回ばかりは自分の軽さにつくづく嫌になっていた。