夜に
どんなにうろうろしても、中からは誰も出て来ないし、何も見えないので、十六夜は仕方なく月へと戻っていた。
こうして地上を眺めるのは霧の大発生の時以来の事だ。
十六夜は、改めて世界の美しさに見とれていた。
とはいえ、碧黎の事は気になった。そうと思ってしたことではなかったし、思っていたほど良い感覚でもなくて、十六夜としては維月と、特に近くなった感覚でもなかった。
十六夜の価値観は、恐らく神や人と混ざって複雑になっているようだった。
体を繋ぐ行為も、特にしたいとは思わないのだが、維月と近くなるような気がして、時々肉欲という感じではなく、愛情の交換のような儀式として欲する事はある。
そっちの方が、十六夜にはしっくり来た。
なので、命を繋ぐなと言われれば、別にしなくても良かった。
だが、碧黎にとっては違うらしい。
激怒している様子を見て、維心が怒る様が脳裏に過った。
恐らく碧黎にとっては、そういう感覚なのだろう。
それでも、維心はきちんと自分の気持ちに区切りを付けて、受け入れて今がある。
碧黎も、維心のようになれないなら、恐らく維月と共には居られないのだろうな、と十六夜は思った。
何しろ維心は、十六夜と共に維月を守ると決めて、十六夜は居て当たり前という感覚にまでなっているのだ。
お互いに維月と諍いがあった時には、相手を庇って維月に取り成してまでしてきた。
そんな風になれないのなら、碧黎にとっては苦しいだけなので、離脱した方が良いんじゃないかと十六夜は思った。
十六夜が月でそんなことを考えているなど知らず、碧黎はうるさい大氣を無理やり部屋へ返して、自分は客間に座って考えていた。
今になって、維心の気持ちがよく分かった。
陰の月が簡単に他に体を許すのを、維心はその度に憤って維月につらく当たっていた。
あれは、碧黎の今の気持ちと同じだったのだ。
そうだとしたら、維心は大変に努力をしてそれを受け入れて来たのだ。
価値観の違う意識に悩まされ、それでも維月を愛して許して側に居る。
十六夜と維月の関係のことは、もう何も言わなくなっていた。
それどころか、維心は十六夜を庇って維月に取り成して仲を取り持ったりまでする。
碧黎が、十六夜相手にたった一度の事故のような事に憤っているのとは、全く違っていた。
…我にはまだ、そこまでの心地にはなれぬ。
碧黎は、頭を抱えた。
何より己の価値観を、一番に理解しているはずの維月が、維心とまで命を繋ぐなどという。
十六夜とも、これからも命を繋いで行くと。
そんなことは、碧黎には耐えられない事だった。
これまでは自分一人だと鷹をくくっていた。なので、何があっても平気だったのだ。それを…他の男まで己と同列になるなど、考えられない事だった。
…我の心地、主にも分かろう。
碧黎は、立ち上がった。
ならば我とて一度、他の女と維月の価値観の中で重要である、体の関係を持てばあれにも分かろう。
碧黎は、瀬利の気配を探って、屋敷の中を歩いて行った。
それほど大きな屋敷でもないので、瀬利の部屋はすぐに分かった。
碧黎は、その部屋の障子の前で躊躇った…維月は、これを知ったらどう思うのか。
維月が今は地になっているのを感じる。恐らく、見ようと思えばここが見えているはずだ。
…だが、この夕べに今にも維月は維心と命を繋いでおるかもしれぬのに。
碧黎は、そう思うと例えようもない焦燥感のような、苦しい感情を感じて、目の前の障子を開いた。
すると、もう布団で横になっていた瀬利が、驚いたように起き上がった。
「…碧黎?主…まさか。」
碧黎は、部屋の中へと足を進めると、言った。
「…今宵は共に。先は約束できぬが、主はそれでも良いと申しておったろう?」
碧黎の中の維月が、そんな無責任な事をする自分を強く諫めていた。
だが、碧黎は障子を閉じ、瀬利に近付いて行った。
維月は、何かに呼ばれたような気がして夜半に目を覚ました。
横を見ると、維心はいつものように自分を律するように唇を引き結んで眠っている。
維月は、地の力を使って維心を起こさないようにそっと寝台を抜け出し、気配を辿って庭へと出て自分を呼んだ存在を探した。
すると、碧黎が珍しく、乱れた着物姿でそこにポツンと浮いていた。
維月は、何が起こったのか何となく分かったが、何も言わずに碧黎を見上げて立ち止った。
「…お呼びになりましたか。」
維月が言うと、碧黎はこちらを向いた。
「…主は、維心と命を繋がなかったのか。」
維月の命に、維心の気配が残っていないからだろう。
維月は、頷いた。
「はい。維心様もそれを望んでおられるわけではありませぬし、私も不平等であるからというだけの意識であのように申しましただけですので、別に望んでおりませぬから。お父様は、瀬利と…?」
碧黎は、苦々しい顔をした。
「だとしたらどうなのだ。」碧黎は、維月を睨んで言った。「主はどう思うのだ。」
維月は、首を振った。
「私に何を言う権利もありませぬ。私の価値観では、それは婚姻でありますので…お父様はそのお相手に、瀬利を選ばれたのだと。ならば私は娘としてお慕いするだけでありまする。」
碧黎は、声を荒げた。
「娘など!我らには神世でいう血の繋がりなどない!全てが同じ種類の、同じ場所に生まれ出た命というだけぞ!」
維月は、袖で口を押えて、下を向いた。
「…ですが、私はそういう場で育った記憶がありまする。育てて頂いたのですから、父と慕うのに問題はありませぬから。私の価値観は、ご存知であられましょう。」
碧黎は、怒鳴るように言った。
「知っておる!主とて我の価値観を知っておるのだろうが!それなのにあのような事を…!!」
維月は、それを聞いて碧黎が、維月の言葉に思った以上に傷ついたのだと知った。言うならば、自分が維心に誰とでも寝て来ると言われたようなものだからだ。
知っているのに、あちらもこちらも命を繋ぐなどと言う、維月に自分の存在はそんなものかと憤って悲しんだのだろう。
維月は、頭を下げた。
「…申し訳ありませぬ。分かっておって、私も意地になっておりました。ご存知の通り、私はお父様と褥を共にするのが、嫌ではありませぬ。お父様にとっても、そんな事は大したことではありませぬでしょう。ですが、維心様や十六夜にとっては大きな事ですの。それを、そんな軽い意識でやろうと仰るお心に、思いやりを感じることが出来なくてあのように言うてしまいました。もし、お父様が誠に心からそれを重要視なさって、私とそうなさりたいと仰るのなら、私も二人を説得して妥協案を考えようと思いまするが、そうではあられないのに。ただの意地で、二人を傷つけることは出来ないのですわ。確かに、十六夜との事は後悔致しておりますが、あれから命を繋ぐなど考えてもおりませぬ。何しろ十六夜は、何が良いのか分からないと、後に申しておりました。十六夜の感じ方も、神に近いという事ですわ。私達はお互いに、そんな必要を感じぬのです。だからこそ、これからは絶対に約定を守れるという自信がありました。でも、お父様はお許しにならなくて。どうしたら良いのか、私達にも分からぬのですわ。」
碧黎は、黙ってそれを聞いていた。そして、ぷいと横を向いて、言った。
「…あれは、目が覚めた時から人や神しか見ておらなんだから。そういう価値観になっておるやもしれぬわ。」と、下を向いた。「我は…出来なんだのよ。」
維月は、何のことかと碧黎を見上げて首を傾げた。
「何がですの?」
碧黎は、力なく答えた。
「…瀬利と。我は、意地になっておった。主が我の心地を分かるためには、我がそういう関係を外でもって参れば良いのだと。だが…我には、主の価値観が染みついておる。着物を脱いで、触れようとしても嫌悪感が勝り、関係を持つなど論外だった。瀬利には謝った…己の憤りのはけ口にしようとした事を。我は、やはりどうあっても体であろうが命であろうが、維月でなければ最早繋ぐなど無理なのだと、悟ったのだ。だから、ここへ来た。どうしても、我は主とは離れて生きては行けぬ。主に厭われるような事は出来ぬ。」
維月は、息を飲んだ。では、本当にできなかったのか。
「お父様…。」
碧黎は、静かに芝の上に降り立った。そうして、こちらを見て言った。
「もう、父とは呼ばぬで欲しい。神世に乗っ取ってそう申しておったが、我らはあれらの考え方の中での親子では無い。その事実は、呼び名から改めて参らねばならぬ。」と、維月の手を握った。「主は、我が本当に欲しておらぬと申したの。我だって、十六夜や維心がやっておるのに我だけが体を許されぬなどと思う事はあったのだ。だが、我の価値観の中で重要な、命を繋いでおった唯一の存在であったから、別に良いと己の中で納得させておった。それを…十六夜が、事故とは申せ成した事実は、どうしても許せなんだのよ。これからの関係を考えたら、我らはこのままであった方が良いのかもしれぬ。だが、十六夜が一度なら、我も一度。主と、身を繋いでみたいと思うのだ。」
維月は、真剣な顔でそういう碧黎を見上げて、迷った。十六夜は黙っているが月で聞いているだろう。だが、維心は知らない。何も相談しないまま、それをしてしまえるほど、維月は考え無しでは無かった。
「…難しい事を仰いまする。」維月は、苦渋の顔で答えた。「私は良いのです。十六夜も、きっと己がしてしまった事ですので、一度きりなら同じだと何も言わぬでしょうが、維心様は…今の会話もご存知ではありませぬし、何よりあのかたとは、命を繋いでおらぬのですから。あのかただけを、別の場所に置く事は、私には出来ませぬ。どうか、お時間をくださいませ。今夜このままとは、とても良いとは申せませぬ。」
碧黎は、維月が何と答えるのか、分かっていた。なので、頷いた。
「そうであるな。我が性急であった。維心と十六夜と話して、決めて参るが良い。その際、維心も一度命を繋ぐと言うのなら…同じ条件であるのだから、我は飲もうぞ。」
維月は、その言葉に碧黎の本気と、覚悟を見た。
そこまでして自分を傍にと考えて妥協しようとしている、碧黎をそのまま一人にすることが出来なくて、維月はそのまま、碧黎と共に庭のベンチに腰掛けた。
そうしてそのまま、並んで座り命を繋いで、その夜を過ごしたのだった。