事故
十六夜は、維心達神には沈黙したまま、月日は流れて言った。
どうやら維月や蒼など、月の眷族達にはその声が届くようなのだが、神には全く何も聴こえなかった。
なので、維心には十六夜が何か話し掛けていても、全く気取る事が出来なくなっていた。
それどころか、何も見えないので人型をとって降りてくる事も出来なくなっているようで、十六夜はただじっと、地上の気を感じ取り、霧を消して蒼や碧黎、維月と話して毎日を過ごしているようだった。
そんな毎日の中で、今は月に昇る事が多くなっている維月が、いつものように月から戻って来て、庭に実体化した。
維心は、ちょうど政務も終わって居間へ帰って来たばかりだったので、維月を迎えて窓を開いた。
「維月。戻ったか。」
維月は頷いたが、何やら暗い気を発している。
維心は、何かあったのかとこちらも顔を暗くしながら言った。
「…どうした?何かあったか。十六夜は滅入ってしもうておるか?」
維月は、首を振った。
「いえ…」と、額を押さえた。「しばしお待ちを。」
そうして、一瞬人型が崩れて光になったかと思うと、また人型になった。
そして、手を振って何やら丸く結界らしきものを張る。
維心が驚いていると、維月は小声で言った。
「…今、地の陰になりました。これは陰の地の結界でございます。」
維心も思わず小声になりながら、言った。
「碧黎に聞かれてはならぬことか?」
維月は、神妙な顔で頷く。
「あの…そんなつもりはなかったのですわ。何しろ、これまで里帰りをしておったら十六夜には会えておりますし、特に困った事もなく…でも今は、月で会うよりありませぬ。月の中でも、私達は幻のような人型になれるのですが、そうやって向き合って話しておりました。時に口付けたりも、普通に出来ますが、それは身がありませんので、命が触れあうぐらいで。あの…それで、私達はあまり、もう体を合わせる事は少なかったと、前にお話したことがありますわね?」
維心は、頷いた。
「聞いておる。もう兄妹のような感覚なので、時々にしかないと。」
維月は、慎重に頷いた。
「はい。元々そういう命ではないので、欲する事もあまりありませぬ。それが…十六夜は、あまりに離れているので、そろそろ出来ないか、と言ったのですわ。多分人恋しい気持ちなんだと思うんですけれど。でも、ご存知の通りあちらでは身がありませぬ。なので無理だけれど、幻の人型なら、もしかして…と。お互いに考えたのでございます。」
維心は、何やらまずい方向に行きそうだと思いながらも、また頷いた。
「まあ、十六夜が降りられないのだからそうするしかないわな。」
維月は、更に声を小さくして、言った。
「なので…あの、試してみようとしました。着物だって、着ておるのかいないのか、とにかく思念の世界なので、脱ごうと思わなくても無いわけで…それで、十六夜が私を抱きしめたら、あの…お互いにびっくりしたのですけれど、元々二つの私達が、一つの命になったのですわ。」
維心は、息を飲んだ。
それは…もしかして、それと思ってやった事では無くても、まずいのではないのか。
「…命が繋がったのでは?」
維月は、困り顔で頷いた。
「やっぱりそう思われますか?」維月は、うろたえたように言った。「十六夜も、何が起こったのか分からなかったみたいですの。何しろ、そんな事をしようとも思った事も無かったし、そのつもりでそうなったのでも無かったので。でも、私はなんだか覚えがある、とハッとして、十六夜もその時は一つでしたので、悟りました。それで、慌てて元に戻ろうとして、きちんと分離しました。十六夜が、私の記憶の中の、お父様の記憶を使ってその方法を知ったのを知りました。つまり、私達は一瞬なんですけど、命が繋がったのですわ…。」
維心は、目を閉じて額を抑えて眉を寄せた。また面倒な事になってしもうた。
「…それは、もしかして約束を違えた事になるのでは…?」
維月は、手を祈るように体の前に組んで、維心を見上げた。
「やっぱりそう思われますか?」
維心は、息をついて頷いた。
「もしも我がどこかで休んでおって、そんなつもりはなかったのにどこかの女と身が繋がってしもうて慌てて離れたとしたら、主はどう思う?」
維月は、やっぱりそうかと項垂れた。
「…そうですわね。どう致しましょう…十六夜も、話したら父に聞こえるので、月では分かっていても何も言いませんでしたけれど、驚いてうろたえていたのは感じました。私もいけないことをしたような気がして…維心様にご相談しようと、逃げるように降りて参りましたの。」
維心は、相談されてもどうしたら良いのか分からない、と困り果てた。何しろ、碧黎の感覚は理解できないからだ。
だが、命を繋ぐのは自分だけ、と言っていたのを見ると、維月と体を合わせるのは自分だけ、と願う自分と同じ心持ちということで、それが破られた時の怒りと衝撃は計り知れないものだろうと思われた。
「…我に照らし合わせると、隠し通すしかない。」維心は苦渋の顔で言った。「だが、分かっておるだろうが、碧黎相手なのだから絶対バレる。そしてバレた時の衝撃は計り知れぬ。ゆえ、どんなに大変な事になろうとも、打ち明ける方が傷は幾らか浅いやもしれぬ。怒ったところで起こった事は覆らぬのは分かっているが、怒りが収まらぬとは思うが…そのうちに、己の中で落としどころを見つけて怒りも収まるものであるから。」
維心は、自分の経験上そう言った。隠されていて発覚した時の方が、精神的にきつかったのだが、事情を話された上でのことなら、幾らか諦めも出来たものだった。恐らく碧黎も同じだろうと思ったのだ。
維月は、真剣な顔でそれを聞いて、悲壮感漂う様子で頷いた。
その時、ハッと顔を上げた。
「…お父様が。」維月は、結界を見た。「結界を突いておられますわ。何を話しているのだと、きっと言っているのだと思います。」
普通ならこんな所に結界を張るなどないのだからそうだろう。
維心は思って、頷いた。
「では、結界を解くのだ。今、申すか?」
維月は、迷う顔をしたが、維心の手を握って、頷いた。
「…はい。十六夜は月から出られませぬし、私が。維心様、お傍に居てくださいませ。」
維心は頷いたが、自分では碧黎の怒りなど収められないだろうとは思った。
それでも、維月は心強く感じたようで、意を決して頷いて、結界を消した。
すると、それと同時に碧黎が目の前に現れた。
維心は、目を細めて構えたが、維月は緊張しているようで、体が硬くなっている。
碧黎は、そんな維月を見て、言った。
「…我に聞かれては困ることか?」
維月は、首を振った。
「あの、維心様にご相談してからと思いましてございます。」
碧黎は、常とは違う強い視線で維月を見つめた。
「…十六夜の気配が命全体に残っておる。」
やはり碧黎には一目で分かるか。
維心は、維月の肩を抱いて、言った。
「そのように強く申すでない。維月は話そうとしておるのだ。黙って聞かぬか。」
碧黎は、維心を睨んだ。
「これが己なら平常心でおられるのか。維月が月から降り立った時点でおかしいと分かっておった。だが、深く探らぬうちにこちらへ入って一瞬にして地に戻って結界を張ったので、間違いないと思うた。あやつは主と命を繋いだか。」
静かだが、それだけに恐ろしい響きを持つ声だった。
維月は、涙目になりながら言った。
「そんなつもりは無かったのですわ。最近は降りて来られないので、では月の中でと体を繋ぐような感じで寄り添いましたら、お互いに、わけが分からぬうちに、命がひとつになったのでびっくりして離れたのですけれど…もしかしてこれは、命を繋いだことになったのではないかと、慌てて降りて参りましたの。これはそういう事になるのかと、維心様にご相談を…。」
碧黎は、冷たい声で言った。
「そういう事になるの。」と、維心を見た。「主の心地が分かるわ。腹が立って仕方がないが、起こってしもうた事を元に戻す術などない。だが、これで我らが約した事は反故になったということぞ。我からではなく、そちらからの。」
維心は、眉を寄せた。碧黎は命を繋ぎ、維心と十六夜は体を繋ぐ、という約定を言っているのだ。
「…我は十六夜とは違うぞ。何も違えておらぬからな。文句を申すなら十六夜に申すが良いわ。」
碧黎は、無表情に答えた。
「そのつもりよ。」と、維月を見た。「主も覚悟をすることよ。知らぬからと、我の憤りが無くなるわけではない。我が守っておった事を、あれは違えたのだ。もう我は遠慮などせぬからの。」
それには維心が、立ち上がって言った。
「待て、我との約定はどうなるのよ!」しかし、碧黎はパッと消えた。「碧黎!」
維月は、ガクガクと震えて涙を流していた。維心は、それに気付いて急いで維月を抱きしめると、息をついた。自分のように声を上げることも無く、ただ静かに怒っている様は、それだけに深い怒りと失望を感じ取れた。
このままでは恐らく、これまで絶対に共に休んでいようとも手を出さなかった維月に、碧黎は簡単に手を出す事になるだろう。それを思うと心が騒ぐが、しかし維月と十六夜もそんなつもりでやった事ではないので、責めることも出来なかった。
だが結局は、自分が一番損なのでは。
維心は、どうして命が違うなどという事があるのかと深いため息をついた。すると、維月が言った。
「維心様…?」
維心は、ハッと維月を見た。そして、首を振った。
「良い、主は悪くはないゆえ。ただ、このままでは碧黎は主と体がどうのと言い出すだろうし、ならば十六夜は命をとか言うだろうし、我だけが取り残されるのだなと思うただけなのだ。」
維月は、涙を流したまま維心を見上げて、言った。
「あの…元々の命は、同じなのですわ。ただ、役割と申しますか、振り分けられた世界が違うと申しますか。それだけなのです。」
維心は、何のことかと両眉を上げた。
「同じ?我と主が?」
維月は、頷いた。
「命が違うと言うた方が理解が進むのでそう申しておるだけで、命は皆同じなのです。違うのは、力の大きさと役割、住む世界ですの。そこここで意識が変わってしまうので、違うと申しております。例えば、私達には肉の身がありませぬので、どうしてもそういう事には関心がありませぬし重要視致しませぬ。意識の育ち方が違う上、不死ですのでずっとそのままの意識で生きるので。」
維心は頷きながらも、それとこれとどういう関係があるのだと思った。
「それは分かったが、それと我が取り残されるのとどういう関係が?」
維月は、言っていいのかとしばし悩む素振りをした。だが、維心がじっと待っているので、言った。
「維心様には申し上げます。あの、種類が違うから命を繋げないと言うておりましたが、違いますの。やり方が分からないから繋げないのです。十六夜と私もそうでありました。本日ああなったのも、父がやり方を教えなかったからなのですわ。分からなかったので、そうと知らずにやったらそうなりました。十六夜は、私の記憶の中から父の記憶を見て、急いで分離しましたの。だから、もう十六夜はやり方を知ったので、やらないでおこうと思えば、それも出来ます。此度は事故のようなもので。」
維心は、後半よりも、前半が頭に残って離れなかった。つまり、自分もやり方さえ分かれば命を繋げるのか。
「つまりは、我も主と命を繋ぐことが出来ると。」
維月は、頷いた。
「はい。ただ、維心様からは難しいかもしれませぬ。私からやることになるかと。慣れて参れば、維心様ならもしかしたらお出来になるかとは思いますが…でも、身を離れる事になるので。恐らくは、肉の身を持たぬ私からしか安全には出来ぬかと。なので神同士は、基本的に出来ぬという事ですわね。」
つまり、碧黎は出来ないと言って教えなかったのだ。
十六夜には、出来ると分かっていて教えなかった。
維月は、維心にも繋げると分かっていたが、碧黎の手前、言えなかったのだ。
今こうなって、維心に迷惑を掛けると思ったので、初めて口にしたのだろう。
維心は、そうなって来ると自分も維月と出来る限り近い命になりたいので、命を繋いでみたいとは思ったが、今は碧黎もあんな様子で複雑な時なので、余計なことはしないでおこうと、とりあえずしばらくは様子見をしようと思ったのだった。