理由は
月の宮では、ヴェネジクトとヴァリーの二人のドラゴンを迎え入れて、治癒の対は忙しくしていた。
ヴェネジクトは重症で、まるで干からびた亡骸のような状態だったので、そちらに気を補充して体を整えるのに恐らくかなりの時が掛かるだろうと思われた。
ヴァリーの方は、見た目には外傷もなく、全く問題は無かったが、何しろ目を覚まさなかった。
霧は、蒼が探ってみたがもう、欠片も残ってはいない。
だが、ただただヴァリーは、眠っていた。
なので、念のため治癒の対でも王族などが具合の悪い時に治癒する場所へと隔離して、他の患者と接することがないようにと分けて寝かせていた。
蒼は、高瑞の時に比べたら、瘴気も霧も無いし全く手が掛からなかったので、そんな事より、近隣の宮々の手助けに時を割いていた。
十六夜が維月のために必死で降ろした全力の光は、凄まじい勢いで霧を消したのだがその気の圧力で爆風を巻き起こし、島を襲った。
とはいえ、それは浄化の力なので全てが清浄になったのだが、結界が弱い宮では突然一瞬にして結界を破られてしまい、その衝撃で王が気を失って倒れたり、具合を悪くしたりと大騒ぎになっていたのだ。
霧を消すためとはいえ、月の力のせいでそんなことになってしまったので、蒼は少なからず責任を感じて、それらの治療のためにこちらから治癒の者を送ったり、見舞いの文を送ったりしていた。
今はこの宮の筆頭重臣の恒と共に、対応に必死になっていると、治癒の女神の阿佐が駆け込んで来た。
「王!ヴァリー様が居られませぬ!」
蒼は、びっくりして立ち上がった。
「ええ?!寝てたんじゃなかったのか!」
阿佐は、頷いた。
「つい一時間前までは、お部屋で眠っておられたのですわ!それが、今ご様子を見に参ったら居られず…この宮をご存知ではないのに、一体どちらへと…。」
蒼は、慌てて宮の中を探った。
自分の結界の中なので、誰がどこへ行ったのかも、本人が隠すつもりでなければ大概分かる。
そうして、軍神宿舎、コロシアム、図書室、といろいろ入れ替えて見ていて、フッとその気が過ぎった場所があった。
治癒の対の、特別室だった。
「…治癒の対だ。」阿佐が驚いた顔をするのに、蒼は続けた。「ヴェネジクトの部屋に居る。見てないんじゃないのか。」
阿佐は、驚いた顔をした。
「あのお部屋には、蒼様の結界が。蒼様が許した者しか入れないはずなのですわ。」
言われて、蒼はハッとした。そう言えばそうだ。隔離するため、あの部屋にだけ別に結界を張っていたのだった。
「…確かにな。」と、足を戸の方へと向けた。「恒、ここを頼む。ちょっとヴァリーを見て来るから。目覚めたんなら、話も聞いて来なきゃならないし。」
恒は、頷いて筆を走らせるのを止めた。
「任せといて。蒼もずっといろいろ働き過ぎてるんだし、ちょっと休憩したら?」
蒼は、それを聞いて頷いたが、休めるならとっくに休んでるんだよなあと思いながら、治癒の対へと急いだ。
治癒の対へと入ると、真っ直ぐに庭へと張り出したヴェネジクトの居る隔離室へと向かった。
蒼が見た通り、その部屋の扉は開いていて、中を覗くとヴァリーがこちらに背を向けて、きちんと甲冑を着けてヴェネジクトの側に立ってその顔を見下ろしていた。
蒼は、自分の気配を気取って居るだろうな、と思いながら、そんなヴァリーの方へと歩み寄って行った。
「…ヴァリー?オレは、月の宮の王の蒼。なぜにここに入れたのだ?月の結界があっただろう。」
ヴァリーは、背を向けたまま答えた。
「…助けに感謝する。我は…月の衣を身に着けておるから。ここへは難なく入ることが出来たのだ。」
言われてみたらそうだった。
蒼は、それを忘れていたと思った。ヴァリーは、あの日ここへ連れて来られて、甲冑だけを外してそのまま寝かせていた状態だった。
蒼の結界は十六夜と同じ陽の気なので、陰の月の気配は自然に通してしまう。なので、ヴァリーがこの結界に入れるのも道理なのだ。
特に破ったという事もなかったのでほっとして蒼が傍へと寄って行くと、ヴァリーはまだ、じっと動かないヴェネジクトの顔を見下ろしていた。
「…最後まで、結界を張ったままでと霧に抗っておったようで。」蒼は、説明した。「霧に流された方が、楽であったろうに。こんな風になるまで抗い続けたのだ。意地であったのだろうの。」
ヴァリーは、そんなヴェネジクトの髪を撫でつけて、額に掛かる髪を避けてやった。
「己のせいであるのは、分かっておったのだろう。霧を呼び寄せておるのに、どうやって抗えば良いのかも分からずで。何しろ、これは育ったのが市井であって、ヴァシリーの手元で育ったのでは無かった。何も知らぬで…ザハールに悪い意味で過保護にされて育ったのだと聞いておる。霧の事など、誰も教えてはおらなんだであろうな。」
蒼は、ヴェネジクトをまるで兄弟のように言うヴァリーに、少しためらった。確かに歳は近そうだが、全く違う場所で生まれていて、縁もゆかりもないはずなのだ。
「主は、ヴェネジクトとは会った事があったのか?あの城では、下士官は王とは面会せぬものだと聞いていたが。」
ヴァリーは、頷く。
「一度、コンドルの城で立ち合いをしておると知られた時に止めるように直接申し渡されてな。その折に会った。だが、あの時はまだ、何も知らぬでの。」と、やっと蒼を見た。「我はの、ヴェネジクトを背負って飛び立とうとしたその時に、義心と陰の月が話しておるのを聞いて、陰の月が維月という名であるのを知った。そしてその名を聞いて姿を見た途端、何かが壊れた。そう、頭の中で、何もかもが見えた。その瞬間、霧に憑かれた。」
蒼は、目を見開いた。維月の名と姿で、何かが壊れて…そして、霧に憑かれる隙が出来たのか。
「…何か、思い出したのか?」
ヴァリーは、頷いた。
「思い出した。そしてそこへ付け入られた。我が維月を想うておったばかりに、霧は陰の月に惹かれる己と我を繋げて我に憑いた。我は…霧から解放されてここへ連れて来られて眠っておる間、ずっと夢を見ておった。長い長い、前世の夢ぞ。我の父母は間違っておらなんだ。蒼、我は、ヴァルラムだったのだ。我が幼い頃から忌み嫌った名前、それが我の名であったのだ。」
だからヴェネジクトに親しみを持っている風だったのか。
蒼は、愕然とした顔でそれを聞いて思っていた。だから、蒼にも知ったように話していた。月の宮にも来た事があるので、宮の造りは知っている。目覚めて自分がどこに居るのか瞬時に分かっただろうし、戸惑う事も、何も無かったのだろう。
「…ヴァルラム殿か。」蒼は、前世とは似ていないが、確かに懐かしい感じのするガッツリとした体格のヴァリーを見て、言った。「気が、前のヴァリーより数段ヴァルラム殿そのものになった。思い出したからなんだな。」
ヴァリーは、頷いた。
「思い出したからであろうの。」と、またヴェネジクトを見た。「これが最後まで守ろうとしたドラゴンのためにも、我はあちらへ戻らねばならぬ。王座を獲るしかないが、今は抵抗もあるまい。ザハールも歳であろうし、他の軍神もパッとした者が居らぬのは今生の記憶で知っておる。恐らく維心などは、あちらで誰を王にするかと勝手に話し合っておるのだろうが、我が立つ。あちらの事は、あちらが決める。我が何とかするわ。そう、申しておいてくれぬか。」
もう歩き出そうとするヴァリー、ヴァルラムに、蒼は慌てて言った。
「ヴァルラム殿!もう行かれるのか。」
ヴァルラムは、また頷いた。
「参らねば。あちらは霧のせいで多くが失われただろう。ヴィランが戦をしたせいでドラゴンは激減しており、やっと増えて来たばかりであったのにまたこの仕打ち。早急に立て直す必要がある。レオニートの事は我は知っておる。コンドルの事は、案じる事は無い。」
ヴァルラムは、そう言い置くと、北へと向かって単身、かなりの速度で飛んで行った。
蒼は、どこまでを維心に話したら良いのかとその姿を見送りながら悩んでいた。