闇の気配
《ならぬ!》碧黎が、叫んだ。《闇になる!面倒なことに…!いつまで寝ておるのだ十六夜!維月がたった一人で戦っておるというのに!》
月の中では、十六夜がその声にハッと覚醒した。だが、目が開かない…体が鉛のようだった。
《親父…!目が開かねぇ!意識は戻った、念が飛ばせる!》
碧黎の声は、イライラと言った。
《闇が出来そうなのだ!早う何とかせよ!我には出来ぬから主らを産み出したのに!何をしておるのだ主は!》
闇だって…?!そういえば、維月がそんなことを言っていた。維月が闇に飲まれてしまう。
《…どこだ?!北か?!》
十六夜は怒鳴るように言った。
かと思うと、北の大陸に光の柱が乱立し始めた。
どうやら、十六夜は地上が見えないので、闇雲に力を放っているらしい。北の大陸では、その力強い光に夕暮れの中昼のようにチカチカと明るく照らされ、その光の前に霧は当たる側から消失して行った。
《違う!北も霧だらけだが海ぞ!南、島の東の孤立した小さな岩の辺り!》と、何かに気付いた碧黎が叫んだ。《ならぬ!維月!》
海は広い。
十六夜は、維月の気配を探る余裕も無くフルパワーで海全体に光を一気に落とした。
その頃、維月は闇になろうとしている霧が憑いたヴァリーを見下ろしていた。
ヴァリーに憑かれたのは、維月も想定外だった。ヴァリーには自分に何の感情もないので、憑こうとしても共鳴のしようがないと思ったからだ。
霧は、拒絶する体には長くは憑いていられない。なので入り込んだ時点でその精神世界を蹂躙し、抵抗する力を失くして心の闇を増幅することで体内に留まって食らいつくして行くのだ。
最初から闇に共鳴する場所がなければ、こんなに簡単に体を自由には出来ないはずだった。
「…言っておくけど、その器は私の好みではないわよ?」維月は、唸るように言った。「何なのその目は。お前が憑いて品の欠片もないじゃないの。私は品の良い陽の型が良いのよ。最初から媚びておる誇りの欠片も無い器など興味もないわ。抵抗しておる者を屈服させる方が楽しいではないの。そんなこともお前には分からないの?」
ヴァリーの中の霧は言った。
「陰の月の仰る事はもっともなこと。だが、我にはこれの隙を突くより他、手段がなく…もう一つの器は、共鳴出来そうだが食らうのに時が掛かりそうだったゆえ…。」
弁解のように言う。そして、維月の方へと寄って来た。維月は、宙で思い切りヴァリーを蹴飛ばした。
「近付くでないわ!誰が許したの?!この下僕が!」
ヴァリーは、大量の霧に取り巻かれた岩の上に降りてひれ伏した。
「申し訳ありませぬ。これの中のあなた様への思慕が、我を突き動かして…!」
ヴァリーの中の思慕ですって…?!
「…嘘を申すでないわ!それは私のことなど今さっき初めて見たのに!」
ヴァリーは、慌てて言った。
「嘘ではありませぬ。これは何百年もあなた様を心の奥底で求めておったのでございます!」
維月は、髪を振り乱して首を振った。
「何が何百年よ!その器はたったの二百年ぐらいの器なのよ?!すぐにバレる嘘などつきおって!」
維月は、我慢がならず十六夜から力を引っ張り出してヴァリーに降らせた。
ヴァリーは吹き飛ばされて倒れて、回りの霧はそれで消えたが、ヴァリーは呻くだけでまた起き上がった。
「嘘ではありませぬ…急に心の中にそれが浮き上がったのを感じて、その隙を見て入り込んだのです。これはあなた様を想い…己に出来る精一杯の贈り物を続けておりました。あなた様を飾る、己の土地で採れる金剛石の飾り物を…。」
金剛石…?ダイアモンド?!
維月は、思わず口を押さえた。ダイアモンドの飾り物…毎年誕生日になると、必ず贈られた装飾品。
「ヴァ、」維月は、声を漏らした。「ヴァルラム様…?!」
《ならぬ!維月!》
碧黎の声がする。
その瞬間、体が地へと強制的に取り込まれて行くのを感じた。そして同時にその海上一帯に大きな光が降り注ぎ、真っ白で何も見えなくなった。
《うおおおおお…陽の月め…!!》
周辺の一帯から声が響き渡り、維月は光となって何かに抱き留められた感覚がして、何も分からなくなった。
義心は、残して来た維月が気がかりだったが、自分が居たら余計に足手まといになる事は分かっていたので、ひたすらに月の宮へと急いだ。
月の宮へと到着すると、嘉韻が弁えていて駆け出して来た。
「義心!王は浄化に一生懸命であられるので、こちらへは来られない。ヴェネジクト様をお連れしたのか。」
嘉韻は、言って義心に背負われている、ヴェネジクトを見て絶句した。
ヴェネジクトは、まだ二百歳を超えたばかりぐらいの若い王だったのだが、その姿はげっそりと頬がこけ目は落ちくぼみ、手足は枯れ木のようになって、まるで老人のようだったのだ。
「…こちらへ。」嘉韻は、何とか持ち直して、言った。「高瑞様が使っていらした特別な部屋が治癒の対にあって。隔離出来るのでそちらを使うようにと王からのご命令ぞ。」
義心は頷いて、背負っているのかどうかも分からないほど軽いヴェネジクトを連れて、嘉韻について歩いて行った。
そこは、治癒の対に増設されてある、一室だけが瘤のように飛び出した造りの場所だった。
周囲のほとんどが窓のようだが、カーテンを閉じることで明るさを調節できるようにしてあるらしい。
本来なら居間と寝室に分かれているはずの部屋が、居間の中に寝台があるような状態になっていて、監視できるようにと考えられてあるようだった。
それでも、寝る場所と居間をいつでも分けられるように、天井にはカーテンレールは設置してあった。
綺麗に掃除されて、寝台も新しい布が掛けられて準備されてあるそこへ、義心はヴェネジクトを寝かせた。
治癒の女神達がわらわらと寄って来て、ヴェネジクトの世話に掛かるのを見てから、義心はハッと顔を上げた。
…北から、凄まじい力の波動を感じる。
まるで、地上へ向けて、何かが降っているような感じだった。
義心が眉を寄せてドラゴン城の自分の結界からその様を見た。
そして、絶句した。
ドラゴン城やコンドル城を含む、北の大陸一杯に、空から浄化の光の柱が何本も降りて来ては、黒い霧の塊を貫いて消していたのだ。
それは、何かを狙ってというよりも、ただ闇雲に放っているように見えた。
嘉韻が言った。
「…何やら月の気が大量に。」と、ハッと東を見た。「十六夜か…!?」
義心も、それを見た。
東の海が激しい光に一瞬にして覆われて、眩しさのあまり直視できなかったのだ。
「…十六夜の力ぞ!」義心は叫んだ。「十六夜が戻ったのだ!」
海という事は、あの闇になりかけた霧を消すために降ろしたのだろう。
ならば、維月様はご無事だ。
義心がホッとしていると、嘉韻は言った。
「何との…それほどに海に霧が多かったのか?十六夜のフルパワーであったような気がする。東の海、ほとんどすべてを覆うほどの力の衝撃を感じた。」
義心は、眉を上げた。
「あちらには、霧に憑かれたヴァリーと維月様が居られたはずだが、霧は集まっては来ておったが、それほど広範囲ではなかった。」
義心が言うと、嘉韻は首を傾げた。
「だが、かなりの広範囲に。滅多にあんなことをしないので、驚いたのだ。あれを大陸にも降ろしたのだろうか。」
義心は、何が起こっているのか分からず、暗くなって薄闇の空を見上げた。
十六夜は、本当に戻って来たのだろうか…。
ヴァリーの事も気に掛かる。
だが、自分はとにかく、維心に報告をしなければと、義心は嘉韻を見た。
「ヴェネジクト様を頼む。我は、我が王にご報告に参らねばならぬ。ドラゴン城の結界も、今は我が張っておってあちらの神ではないのだ。それも合わせて対応して行かねばならぬ。蒼様にはご挨拶も無く申し訳ないとお知らせを。」
嘉韻は、頷いた。
「王は只今それどころではおありでないので、気になされぬ。気を付けて参るが良い。」
義心は嘉韻に頷くと、月の宮を飛び立って、龍の宮の維心の下へと必死に飛んだのだった。