浄化
義心は、ヴァリーが言っていた兵舎へと駆け込んだ。
兵舎の中も霧が浮遊していて、快適と言える状態ではない。だが、ここは常の状況でも快適ではないだろう場所だった。
土で作られた辛うじて立っているような建物で、小分けにされた部屋はボロボロになって朽ちそうな、木の扉がとりあえず付いていた。
その上に殴り書かれてある番号を見ながら探すと、ヴァリーの部屋はいくらかマシな三階の端の一室だった。
中には粗末な木の寝台が二つ、両脇に分かれて置いてあり、窓際には、鍵のかかる厨子が二つ、置いてあった。
だが、鍵と言っても義心ぐらいの気の持ち主なら、あっさりと壊せる程度の造りで、盗もうと思えば簡単に盗めるだろう。ただ、下士官の間では壊すことは出来ないかもしれない。
霧のせいで空気が悪そうに見えるが、ここは常に土埃が酷いだろうな、と思わせる、崩れかかった土の壁にあれらの待遇の悪さを感じた。
あっさり鍵を壊して両方の厨子の中を見ると、きちんと揃えてあの日、維月から渡された鎧下着と裁付袴が四揃えずつ、計八揃え出て来た。
それを抱えた義心は、ザハールの下へと取って返した。
「月の衣を持って参った。」義心は、ザハールに一揃え渡した。「すぐに着るのだ。そして、自分の結界を小さく張って霧からしっかり逃れていよ。霧はこれ以上集まらぬ。後は月が復活して浄化してくれるまで、とにかく耐えて待つしかない。我は行かねばならぬ。後は出来るな?」
ザハールは、急いで甲冑を脱いで月の衣を身に着けながら、頷いた。
「レスター達も助け出す。そこから、手分けして霧から隔離出来る場所を作ろう。主は、結界を張り続けて大丈夫か?」
義心は、自分の結界を見上げた。
「それが、案外に簡単で。こんなものなのだな。いつも王が息をするようなもの、と言っておられたが、誠にそのような。確かに結界維持に少し、力の一部を持って行かれるが、思ったほどではないゆえ。しばらくこのままここを守っておこうと思う。」
ザハールは、苦笑した。
「我もそのように。初めて張った時は拍子抜けした。だが、今のように消耗しておったら大きな結界は無理ぞ。感謝する。あの、王を追うのか?」
義心は、頷いた。
「見届けて王にご報告せねばならぬのよ。ヴァリーをたった一人で行かせてしもうたゆえ、案じておる。」と立ち上がった。「ではな。また参る。」
義心が立ち去ろうとすると、ザハールは言った。
「そのヴァリーと申す下士官、後で必ず労おうぞ。」
義心は、窓から飛び発とうとしながら、振り返って言った。
「あれは王であってもおかしくはない気。主も一度会ってみるが良いわ。軍神達のこと、一人一人しっかり見るのも筆頭の役目。復興したなら、少しあれらの待遇を考え直した方が良いぞ。」
そうして、義心は飛び立って行った。
ザハールは、まだ重い体を引きずるようにして、倒れて苦悶の表情を浮かべるレスターやハリス、ダニールを見つけては一人ずつに鎧下着を着せて、そうして霧を追い出しては必死に治療して回ったのだった。
ヴァリーは、時折頭の隅に湧き上がる、言いようのない苦痛を追い出しては、考えないようにして、ただ海面を見つめてヴェネジクトを背負って飛んでいた。
霧は、ずっとヴェネジクトを追って来る。
真っ黒い霧を垂れ流してながら飛んでいるようで、ヴァリーは段々に気持ちが悪くなって来た。
もう何度目かの吐き気を堪えると、眼下に小さな、島というには小さ過ぎる岩を発見した。
…もう、あれで良いか。
ヴァリーは急降下して行くと、そこへヴェネジクトを下ろした。
そうやって見ると、岩はやっと数人が横になれる程度の大きさしかなく、霧は海の上を水蒸気のように漂って、ヴェネジクトを取り巻いていた。
《そこから離れて。》突然、女の声が降って来た。《出来るだけ遠く。》
ヴァリーは、その声の出所を探して視線を動かしながら、首を振った。
「ですが、霧を引き剥がした後王を月の宮へと連れて参らねばならぬのです。」
声は、答えた。
《分かっているわ。とにかく、じゃあ上空に上がって。出来るだけ私達の近くへ来て。》
私達の近く…月へと近付いておけば良いのだな。
ヴァリーは、頷いて浮き上がった。
「分かりました。」
ヴァリーは、言われた通りぐんぐんとヴェネジクトから離れて真上へ飛んだ。すると、月から光が落ちて来たかと思うと、見る見る人型を取った。
それは、真一文字に唇を引き結んで、目を真っ赤に光らせた、黒髪の美しい女だった。
「さっさとそこから出て来なさい!誰がそのような事をすることを許したというの?!」
美しい、と思って見ていたのに、その女は何やら我慢がならないようで、ヴェネジクトの霧相手に切れ散らかし始めた。
びっくりしてそれを見ていると、その女の本気の怒りに慌てたように、霧がヴェネジクトの体の穴という中からドッと流れて出て来て、女に媚びをうるように足元に擦り寄った。
女は、そんな霧にフンと鼻を鳴らしたかと思うと、手を上げた。
「消えなさい。それが私の望みよ!」
その女が飛ぶ方向へと必死に媚びてついて行く霧に、女は冷たく言い放った。そうして、天から降って来た月の浄化の光に、女の足元の霧は、成す術なく消えて行った。
だが、霧はいくらでもある。
ヴェネジクトについて来ていた霧は、本当ならヴェネジクトにまた憑きたいのだろうが、その女が居るからか、近付く事は無かった。
女が、ヴァリーに言った。
「今のうちに。私がこれらを引き付けておくから、ヴェネジクト様を月の宮へ連れて行ってちょうだい。もう、かなり濃い霧になりつつあったから、闇に近いの。意思を持とうとしているわ。危ないところだったわ。」
ヴァリーは、頷いて岩の上へと降り立った。
ヴェネジクトは、もはやどこも黒くは無かったが、僅かの間に鳥ガラのようにやせ細っていて、口も半開きのままで生気は無かった。
ヴァリーがそのヴェネジクトを背負って浮き上がろうと空を見上げると、そこへ義心が飛んで来て、宙に浮いたのが見えた。
「義心。あなたが結界を張ったのね?」
義心は、宙で膝をついて答えた。
「はい、維月様。お守りくださっていたお蔭で、我は難なくザハールを見つけ出すことが出来ましたが、あれは霧に憑かれて結界を張る事も出来ませぬず…。」
維月は、息をついた。
「ほんと、私が居る限りこれらにあなた達を襲わせないわ。でも、あまり抑えておけないから、早く月の宮へ行って。」と、また手を上げた。「十六夜が起きてくれたら一番早いのに、まだ寝てるの。必死に起きようと足掻いているのだけど。」
…維月…?!
ヴァリーは、何かが頭の中で割れるような気がした。維月…維月なのか。陰の月の、美しい姿。
「?!ヴァリー?!」
義心が、急降下して来るのが視界の端に見えた。
ヴァリーは、自分がヴェネジクトを背負ったまま、膝をついたのを感じた。
…おおおお我はどうあっても力を…!!
吐き気がするような声がする。
「義心!ヴァリー!離れて!早く!」
維月の声が飛んだ。
義心は、咄嗟にヴェネジクトを抱えて脇へと飛んで離れたが、ヴァリーは膝を付いたまま、もろに霧に巻き付かれた。
「ぐ…!!」
「ヴァリー!」
義心と維月が同時に叫ぶ。
維月が、言った。
「あなたは行って!早く!闇になってしまうわ!」
どうしてヴァリーに憑いたのだ。
義心は思った。だが、どうすることも出来ない。
なので、維月に言われるままに、ヴェネジクトを担いだまま、島へと振り返らずに飛んだ。
維月は、倒れたヴァリーを睨んで、言った。
「…いい根性しているじゃないの。私の命を無視してそんなものに入って…それで私に構ってもらえると、本当に思っているの?」
維月が言うと、倒れていたヴァリーの目がカッ!と開いた。
「…おお陰の月よ。」ヴァリーは、全く知らない声でそう言った。「今少し…今少しで。あの神の力でここまでになった。この神もまた力がある…何やら戸惑って、急に心が弱った。我に共鳴し体を引き渡すだろう。今少しで。どうか我と共に地上に君臨を…。」
維月は、闇になりかけている霧に憑かれたヴァリーを睨みつけた。
「私と同じ立場に立てると思うておる時点で腹が立つのよ、この下僕が!」
ああ、またSMの女王だと言われるのかしら。
維月は思ったが、十六夜が居ない今、どうしたら良いのか分からなかった。