コンドル城では
アナトリーは、柔らかい感触に目を覚ました。
側には、サーシャが泣き腫らした目で座って、アナトリーの顔を覗き込んでいた。
「兄様!」と、誰かを振り返って叫んだ。「兄様が目を覚ましました!」
すると、コンドルの気を持つ女がそれを聞いて、寄って来た。
「まあ!」と、気遣わしげに言った。「お加減はいかがですか?只今王にご連絡を。」
その女は、急いで出て行く。
アナトリーは、頭が混乱して何が何だか分からなかった。
着ているはずの甲冑はなく、下着は新しい物に換えられている。だが、それはコンドルやドラゴンが着る物ではなく、自分が龍王妃にもらった物と、同じ型の物だった。
…市で交換されたのではなかったか。
アナトリーは、訳が分からなかったが、そこへ、レオニートと炎嘉にそっくりの、炎耀が急いで入って来た。
「おお!目覚めたか。」
アナトリーは、レオニートに言った。
「レオニート様…誠に申し訳なく…妹を、助けてくださったのですね。もしかして、我までも…?霧に、憑かれたはずなのに。」
月に浄化してもらうしかなかったはず。
アナトリーが言いながら起き上がろうとすると、レオニートは慌てて言った。
「そのまま。妹から聞いた。結界内から妹を連れてここまで来たのであるな。あの霧の中で…よう無事で。」
レオニートは、段々頭がハッキリしてきて、言った。
「…龍王妃様がくださった、衣が霧の制御をするのだと、ヴァリー達と共に気付いて…サーシャにもそれを着せ、やっとここまで。我は己を律する事が出来ずに、霧に飲まれてしまい申した。今は霧を感じませぬ。月が治してくれたのでしょうか。」
炎耀が、首を振った。
「いいや。月はまだ何も返さぬのだ。仕方なしに、主の妹が、主がその衣を着ていたら霧が寄ってこないと言っていたと言うから、我が王から賜った唯一の月の衣を主に着せて、霧に命じたのだ。そうしたら、霧はおとなしく主から出て来た。なので、封じて結界外へ放り出して来たわ。主の衣は、脇腹が何かに抉られたよう無うなっていたからの。」
だから余計に長くもたなかったのか。
アナトリーは、思って脇腹を押さえた。ヴァリーが助けてくれた。ヴァリーは、無事に炎嘉様に会えたのだろうか。
「なぜにこうなった。主は、それを知っておるか。我らはこの騒ぎであちらへ調べに参るわけにも行かず、どうしたものかと思うていたのだ。」
アナトリーは、レオニートを見上げた。そうだ、話さなければ。知っている事を…何より、コンドルはドラゴンとは戦をしようなどと思ってはいない。現にレオニートは、こんなドラゴンの下士官とその妹を、助けてくれたのだ。
「我の知る事を、お話致します。」アナトリーは、起き上がって寝台に座った。「全て。」
レオニートは頷いて、側の治癒の女に頷き掛ける。女は、サーシャに言った。
「さあ、お兄様はお仕事のお話を。もう大丈夫ですよ。こちらへ。」
女はサーシャを優しく促して、隣の部屋へと移動して行った。
サーシャは、何度もアナトリーを振り返りながら、そこを出て行った。
炎耀は、言った。
「して?霧の発生の原因は。」
アナトリーは、首を振った。
「それは分かりませぬ。我らは王から逃げて潜んでおりました。その時、霧が発生しておるのを知ったのです。」
炎耀は、眉を上げる。
アナトリーは、自分達の身に起こった事を、順を追って話し出した。
一通り話し終えた後、レオニートは困惑した様子で言った。
「…そのような。では、ヴェネジクトはこちらを攻める口実に、主を殺そうとしたと。」
アナトリーは、頷いた。
「はい。別に、我でなくとも良かったのだと思います。結界境の警備兵の誰かであればよかったのです。ただ、ヴァリーが我の傷を治してくれたので、我は死なずに済んだ。ゴルジェイがザハール様から命を受けた通りに、我らを隠したので戦は阻止されたのです。」
レオニートは、そこまでしてコンドルを消したいのか、とショックを受けた顔をしていた。
炎耀は、言った。
「…聞いておったところ、恐らくはザハールがそのように命じたということは、ヴェネジクトが単独で命じてそんなことをさせたのだろう。ザハールはその意図を読み取り、ゴルジェイにそのように指示した。それが間にあったゆえ、面倒な事にはならなかったが…」と、窓の外を見上げた。「…もしかしたら、ヴェネジクトは病んでおったのかもしれぬ。いくら何でも異常なのだ。そこまでコンドルに執着するなど、霧にでも憑かれておるならいざ知らず、正気の神がすることではないからの。だとしたら…この霧は、ヴェネジクトが心ならず呼んでしもうておるものかもしれぬ。あれは、王の血筋の気を持っておって、そんな神が瘴気を放っておったら霧が集まって来てもおかしくはない。もしかしたら…いや、恐らくそれしか考えられまい。」
レオニートは、それを聞いて驚いたような顔をして、慌てたように言った。
「そのような…!まさか、ヴェネジクトはもう、霧に食われておるというか。」と、自分の結界外を流れて行く、黒い霧を見上げた。「この霧の量ぞ…これが、ヴェネジクト一人になど…。」
アナトリーは、下を向いた。流れ弾のような霧にやられてもかなりの苦痛だったのに、大陸中の霧に群がられたら、どれほどに苦痛であるのか…。
炎耀は、ため息をついた。
「これを知らせようにも、霧が多過ぎて今外へ出ることが出来ぬ。主が着ておるその下着、それを着けて何とかここを出ることが出来る程度よ。何とかして、王に知らせねばと思うが…。」
それには、アナトリーはガバと炎耀の袖を掴んで、言った。
「ヴァリー達が!我は、妹を助けに戻りましたが、あれらは炎嘉様にお知らせせねばと、一番近い誓心様の結界を目指して参りました!あれらも、同じ衣を龍の宮で戴いていて、身に着けておりまする。恐らくは、無事にたどり着いて、誓心様にお話をし、対策を考えているはずなのです。きっと無事に…。」
アナトリーは、祈るようにそう言った。
いくら月の衣を身に着けているとはいえ、それほどに長い間霧を遠ざけていられるだろうか。そもそも、そのために作られたものでもないのに、長い守りなど期待できない。
それでも、今はこれに頼るより他、他の宮と連絡を取る手段がないのだ。
「…仕方のない。我が参る。」レオニートが、驚いた顔をした。炎耀は面倒そうに手を振った。「我ぐらいしかあちらまで行き着ける技量が無かろうが。もともとその衣、我ら鳥のために縫われた物。襟に黄金の糸で鳥が刺繍されてあろうが。我らの姿を刺繍してくだされた物なのだ。」
アナトリーは、慌ててその鎧下着を脱いだ。見ると、確かに炎耀が言った通りに襟には鳥が刺繍されてある。自分たちの物には、確かにドラゴンだったのだ。
「…ありがとうございました。」アナトリーは、それを炎耀へと返した。「我のために、貴重な物をお貸し頂きまして。我が着ていた物は確かに穴が開いてしまいましたが、サーシャに着せて来たものがまだあるはず。我も、あれを着てお供致します。」
レオニートは、びっくりして止めた。
「ならぬ、主はさっきまで霧に憑かれておったのだぞ?あれの苦痛は知っておろう。また憑りつかれぬとなぜ言える。主は己を律することが出来ぬのだろう。」
アナトリーは、首を振った。
「忘れておった事を思い出しただけ。もう、しっかりと向き合って克服致しました。次はそんなものに惑わされませぬ。何より、炎耀様はお一人では行かせられませぬ。炎嘉様の御許には、ヴァリー達が参っているはず。我も共に参ります。」
炎耀は、アナトリーの覚悟を見て、息をついた。
「一人の方が良いのだが、まあ、来れば良いわ。主の仲間の安否も分かるやもしれぬしな。」と、レオニートを見た。「これの妹を頼んだぞ。我は、王にお会いしてこの事実をお知らせせねばならぬ。その後、またこちらへ戻れたら戻って参るが、それが出来ぬ時は、主は結界をしっかりと強化して、この領地だけでも守るのだ。あちらで、対応策を考える。霧の事は月しか対応できぬのだが、なぜに十六夜が沈黙しておるのかも分からぬし。聞いて参る。」
レオニートは、不安げに頷いた。
「こちらの事は案じるでない。主こそ、この霧の中ぞ。気を付けて参るのだぞ。」
炎耀は頷いて、アナトリーを見た。
「では、袴も貸してくれ。主の妹が着ておった着物は、大き過ぎるゆえ脱がせてあちらに置いてある。レオニートが代わりの服を準備させておったから、妹の事は案じる必要はないぞ。」
アナトリーは、レオニートを見て、少し目を潤ませながら、頭を下げた。
「レオニート様。そのような筋でもないのに、きめ細かいお気遣いをありがとうございます。後しばらく、サーシャをお願い致します。」
レオニートは、頷いた。
「任せておくがよい。」
アナトリーは、サッと袴を脱ぐと炎耀にそれを返し、サーシャに着せて来た傷の無い下着と袴を着けて、再び霧の中へと向かう覚悟をした。
炎耀も、その場でその鎧下着と裁付袴をつけ始めた。急いで赤い鳥の甲冑を持って駆け込んで来る侍女達に手伝われながら甲冑を身に着けると、段々に顔つきが険しくしっかりとして来る。そんな炎耀の様子を見て、アナトリーは自分も覚悟を決めて行ったのだった。