その理由
義心は、想像以上の結界外の惨状に、これは逃れる方向を間違えている、と思った。
城から出てザハールとダニールの二人で空高く上がり、結界真上から領地を広く見渡すと、皆コンドルとの結界境の方へと殺到していたが、そこは既にコンドルの結界に阻まれた霧が山積していて、無事に逃れるのは到底無理な様子だった。
しかし、反対側、西の結界外の方は、明らかに少なかった。
こちらはヴァンパイアとの結界境で、しかしヴァンパイアはハッキリとした領地の境を示して来なかったので、どの辺りからがヴァンパイアの領地なのか、いまいち分からなかった。
ザハールが、言った。
「間違えておる。」ザハールは、ダニールに言った。「こちら側へ皆を誘導せよ。もう遅いかもしれぬが…王の結界が、段々に揺らいでおるから。我が張り直しても良いが、それも長くはもたぬかもしれぬ。我は、元々これほど大きな結界を張る事に慣れておらぬからな。」
ダニールは、頷いた。
「は。では、すぐに。」
ダニールは、皆が集まっているコンドルとの結界境の方へと飛んで行った。
義心は、言った。
「それでもないよりはマシかもしれぬぞ。結界を張って、ここへ流れ込むのを阻止した方が、犠牲は少なくて済む。このままでは…恐らく、かなりの犠牲が出るだろう。月が間に合えば霧に憑かれても治療してくれるが、そこまで精神が持つ者も少なかろう。」
ザハールは、それを聞いて義心を寂し気に見た。
「我ら、もう駄目かもしれぬ。王となるような者が、もう居らぬ。」と、城を見下ろした。「主は我を愚かと罵るが良い。我が妻と子は、ヴェネジクト様のご様子がおかしいと感じた時に、戦に巻き込まれてはと密かにアルファンス殿の城へと送り出して、今は居らぬ。己の妻と子だけ…。もしかして、こうなるかもと思うておったのやもしれぬ。なのに、他のドラゴン達には知らせなかった。」
義心は、眉を寄せた。それは、批判されても仕方がないだろう。もしかしたらと、予感はあったと言うことだ。恐らくは、自分ではこれ以上、ヴェネジクトを抑えておけないと思い、戦火から妻と子だけを逃したのだろう。
「…それは、主の事ぞ。我は、己の責務を全うする。我が王の御許へ戻る。」
ザハールは、島の方角を見た。
「…霧が追って参るぞ。この中を戻れるのか。」
義心は、すぐに頷いた。
「我には、守りがある。」と、甲冑の腕を握った。「我が陰の月の御方が、我を守ってくだされる。無事に王の御許へ帰り着くことが出来よう。」
ザハールは、息をついた。
「それは長くはもつまい。そうと思うて作られた物ならいざ知らず、それはただ、月が縫ったというだけの衣。残った気配に霧が惑って従うだけであろう。」
義心は、首を振った。
「これには、心がある。」義心は、南へと足を向けた。「我には分かる。我は守られておるのだ。」
義心はそう言って、ザハールに軽く会釈すると、迷いなく一気に島の方角へと飛んで行った。
ザハールはそれを見送って、そうして表情を引き締めると、避難民の誘導のために、思い切ったように下へと降りて行ったのだった。
その頃、弓維は婚儀は北の異変で中途半端に終わってしまったものの、黎貴と思ってもみないほど穏やかに幸福に過ごしていた。
黎貴は、本当に弓維を愛しているらしく、まるで父が母にするように、いつも愛情深い目で見て、居間へと戻って来た時には嬉しそうに手を差し出してくれる。
居間では常に横に置いて、肩を抱いて弓維を片時も放さなかった。黎貴は、あの初日の夜にここへと戻って来た時に、弓維をずっと想っていたと告白してくれて、弓維がどんな様子だったのかも、真剣に聞いてくれた。
そうして、弓維を気遣ってくれて、その夜も褥へ入るのは共でない方が良いか、気が進まぬなら後日でも良い、と言ってくれた。
婚儀の夜に部屋へ帰るなど、普通はあり得ないことなのに、黎貴の気遣いには弓維も心から感謝した。
そうして、その心に報いたいと心から思い、弓維は黎貴に寄り添って、そうしてにこやかに黎貴と過ごしていたのだ。
母は、月の十六夜が気を失ってしまったので、突然に月へと帰ってその役目を果たさねばならなくなったのだという。
父も、島が霧に飲まれてしまってはならないので、急いで帰ってしまっていた。
招待客たちも宮を守るために夜半には帰ったとのことで、次の日に黎貴と共に弓維が匡儀に挨拶に行った時には、もう誰も居なかった。
いったいどうなってしまうのだろうと不安にしていた弓維に、黎貴は主の母君は大変に出来たかただと聞いておるし、きっと何とかしてくださるから、信じておれば良いと慰めてくれた。
そうして、父の匡儀の結界の中に、黎貴も結界を敷いて、決して霧を中へと入れぬ構えで、弓維を守ると言ってくれるその様に、弓維はすっかり安心していたのだ。
そんな白龍の宮だったが、実際は霧が深刻になって来ていた。
誓心の宮の上を通り過ぎたその霧は、あちこちの宮の結界の上を通り、時にはその中まで浸食しながら、白龍の宮のほど近くまで迫って来ていたのだ。
匡儀の結界は絶対なので、それを通って来ることはまずない。
これまでも、霧などが結界内にあった例はなかった。
今はその上、黎貴がどうしても自分が弓維を守りたいと敷いた結界が、匡儀の結界の内側にも張られていて、霧が入って来ようもなかった。
なので、中は安全なのだが、外へ出られないようになって来ていたのだ。
匡儀は、深刻な顔をしながら、会合の間に黎貴と並んで座っていた。
「どうしたことか。」匡儀は、眉を寄せて言った。「十六夜はまだ目を覚まさぬようぞ。維月は浄化しておるようだが、追いつかぬのだ。蒼は島を守る事が精いっぱいで、北やこちらまでは手が回っておらぬ。このままではこちらが霧に飲まれて、被害は甚大になる。後の処理が困難になりそうよ。」
堅貴が、頷いた。
「は。軍神達にも結界外の見回りは中止させて内側から外を眺める形になっておりまする。島との境がまだ無事なので、そちらから行けばまだ何とか島との連絡は取れまするが、誓心様とはもう、連絡を取る手段が無くなっておる状態です。山向こうの彰炎様の所へも、南から大きく回り込んで行かねば霧に襲われる状態。危うい状態になって来ておりまする。このままでは、孤立しようかと。」
匡儀は、ため息をついた。
「仕方がない。霧だけは我らにはどうしようもない。気を整えたり封じたりは出来るが、この量では消してもらわねば無理なのだ。我が結界内の人世はどうにか持ちこたえようが、外の者達は…恐らく、それと知らずに犯罪などに走り、疫病が流行り、無残な事になろう。早う何とかしてもらわねば。まさか、このままということはあるまいがの。」
匡儀は自分で言って、その可能性に驚いた。もし、十六夜がこのまま目を覚まさなかったら、どうなるのだ?
人や神は、己の心が産み出した霧に飲まれて、自滅の道を歩むしかなくなる。
地上の生き物は、殺しあって全滅してしまうだろう。
生き残った自分達も、結界から出る事が出来ず、未来永劫この地に縛り付けられてせっかくに和解した友の神達にも会えぬようになる…。
匡儀は、まだ青い空を見上げた。十六夜…!早う目覚めよ。まだ皆が生き残っておるうちに…!
義心は、霧の中を己の感覚だけで方向を見定めて、島の龍の宮を目指した。
霧はかなりの上空にまで達していて、霧の影響なしで進むことは困難だ。
だが、霧は義心を取り巻きながらも、決して襲って来ようともせず、むしろ後押しするかのように義心を島の方向へと誘導した。
霧の圧力後ろから押してくれるので、義心は常より勢い良く飛んだ。
そうして、その力がフッと消えた瞬間、パアッと視界が開けて、眼下に旭が治める、島の北の蝦夷が見えた。
驚くべき事に、霧はここでピタリと無くなっていて、この辺りで消え去っているようだった。
…維月様が、ここで食い止めていらっしゃるのか。
義心は、なんとしてもと必死な維月の気を感じ取った。
島には維心が居る…何より、維月が守りたいだろう神を、維月はここで守っているのだ。
義心が思って龍の宮へと足を向けると、維月の声が降ってきた。
《良かったこと…無事に抜けたのね、義心。》
義心は、驚いて顔を上げた。維月様…!
「…はい。維月様の守りのお陰で我は無事に霧から逃れて参りました。あとは王にご報告を。」
維月の声は、あまり力がなかった。
《十六夜がまだ起きないの。寝ているというよりは気を失っているみたい。私ではこれ以上、消す事は出来ないわ。蒼が島を守ってくれるから、あなたが無事に抜けたのを確認出来たし私はこれからドラゴン城に集中します。このままでは闇になるとお父様が懸念してらして…ヴェネジクト様単体を狙うけど、あまり期待はしないで。》
義心は、案じて言った。
「維月様、ご無理はなりません。十六夜が戻るまで持ちこたえたら良いのです。あなた様まで力を失えば、何も守るものがなくなるのですから。」
維月は、頷いたようだった。
《分かってるわ。でも、やるしかないのよ。》
そうして、維月の声は途切れた。
すると、途端にそこで消えていた霧が、島へと向かって流れ出すのが見えた。
そして、それが蝦夷へと到達する寸前で、月の力が消して行く。
…蒼様か。
義心は、蒼も必死に島を守っているのだろうと、龍の宮へ精一杯のスピードで飛んで行ったのだった。