霧の中で
ヴァリーは、咄嗟に腕を振り回して、襲いかかって来る霧を封じた。
霧はとりあえず封じられて転がったが、まだまだ暗闇の中で蠢いて近付いて来るのが分かる。
「うわあああ!」
「アナトリー!ぐわ…っ!」
ゲラシムの声もする。
ヴァリーは、自分にも絡み付く霧を払いながら必死に駆け寄った。
「ゲラシム!アナトリー!」
しかし、他のもの達も身悶えた。
「ああああ!」
ヴァリーは、闇雲に封じて行ったがきりがなかった。どうする事もできない…!
「くそ!この、霧め!やめよ、こやつらを襲うな!」
ヴァリーは、必死に叫んだ。
すると、霧は何があったのか分からないが、身悶える皆の体から、サラサラと落ちて、地面に流れて漂った。
「…!?」
ヴァリーが驚いていると、今の今まで霧に抗って暴れていたもの達が、解放されて跳ね起きた。
「…何ぞ?!」
ヴァリーは、困惑して首を振った。
「分からぬ。急にこのような…。」
ゴルジェイが、言った。
「ここから出るのだ!この霧では全滅ぞ!来た道を戻って入った所から出るしかない!警備兵など蹴散らしてここへ放り込んでやる!」
7人は頷き合い、そうして覚悟を決めて暗い地下道を最速で飛んで出口を目指した。
「地上!のはず…?」
先頭を飛んでいた、ゴルジェイが飛び出した。
次々にそこを飛び出して行った皆が見たのは、真っ暗になるほどに霧に覆われた、王の結界だった。
「なんだ、どうなった…?!」
ロマーノが、宙に浮いたまま言う。
ヴァリーは、回りを見渡した。
夜が明けて明るくなって来ているが、ドラゴンの警備兵は、いやそれどころか獣でさえも、誰も居ない状態だった。
足元には霧が溢れて、何とかして結界の中に入ろうと蠢いている。
「これでは我らどころではないはず。」ヴァリーは、言った。「幸い我らは結界外ぞ。このままこの騒ぎに乗じて南へ下るぞ!」
しかし、イゴーレが言った。
「親兄弟は…?これでは結界内もどうなっているのか分からぬ。助けに参らねば…!」
しかし、ゲラシムが首を振った。
「我らが戻れば皆どうなるか分からぬぞ!親兄弟も、共に始末される!ここは行方不明のままで死んだと思われていたほうが良いのだ!」
だが、イゴーレは首を振った。
「無理ぞ!逃れるのなら共に!我は行く!」
イゴーレは、真っ黒い結界の中へと飛び込んで行った。
「…我には親は居らぬ。」ロマーノは、言った。「あれの気持ちは分かるが、あれでは共に死にに行くようなものよ。」
ゲラシムは、険しい顔で言った。
「我にだって家族は居る。だが、我が戻ることで家族がどうなるのか分からぬのも知っておる。霧をどうにか出来る術は、我らにはない。封じるにも、この量では無理だ。」
ヴァリーは、頷いた。
「霧など、こんな量は見た事がない。明蓮から教わったが、この黒い霧を消して浄化する役目を負っているのは、月なのだと。月はそのために地に生み出されて存在し、日常で発生する霧は月が消して何とかしておる。」と、明るくなった空にまだ見える、月を見上げた。「だが、この量ではさすがの月でもどうにも出来ぬでいるのだろう。そも、月に見放されておるのやもしれぬしな。」
ヴァリーは、言ってからハッとした。そう、月と霧の関係性はそんなものだ。明蓮は、陽の月と陰の月の存在を教えてくれた。陽の月は霧を消し、陰の月は霧を操る…。
そして陰の月は、龍王妃の維月。
「まさか…」ヴァリーは、自分が着ている鎧下着の襟に触れた。「まさかこれは、陰の月が縫った物か。明蓮は月の衣と言っていた。もしかして、あの時我らから霧が離れたのは…。」
ゴルジェイが、同じように気付いたように自分の襟元に触れた。
「…そうだ。明蓮が言っていたと主は申したな。陰の月は、霧を操る?」
ヴァリーは、頷いた。
「そうだ。もしかして、その衣を纏う我らは、霧に命じることで影響を受けぬのかもしれぬ。あの時我は、思わずこやつらを襲うなと叫んだ。だから霧は、それに従ったのでは。」
アナトリーが目を輝かせた。
「ならば思うがままぞ!霧を操れるのだぞ?家族を助けに戻っても、襲って来た霧を使って軍神達を蹴散らして逃げられるのでは!」
しかし、それにはキリルが首を振った。
「そんな強い力は感じない。もしかして、我ら神が人に与える護符のようなものなのでは。己の身を護る以上の事は、出来ぬのではないか。」
それには、ヴァリーは頷いた。
「我もそのように。そもそもそんな大層な物ならば、我らに下賜したりせぬわ。おかしなことを考えるでないぞ、アナトリー。霧は諸刃の剣。我らに扱えるものではない。まして、陰の月は龍王妃で、勝手な事をしたら護符を取り上げられるどころか、霧に襲わせることがあるかもしれぬ。」と、南を睨んだ。「行くぞ。イゴーレの事は諦める。我らは生き残らねばならぬ。ここへ戻るのは、お偉方がこの霧を何とかしてからぞ。ロマーノ、主は我らから離れるな。霧は我らの事は襲わぬ。その傍に居れば、主も大丈夫ぞ。」
ロマーノは深刻な顔をして頷き、円形に浮き上がっている五人の真ん中へと入った。
そうして、いざ南へと進路を向けると、ちらちらと結界の方を見ていたアナトリーがいきなり、叫んだ。
「…我は行けぬ!」
そうして、矢のような速さで結界へと飛び込んで行った。
「アナトリー!」
ゴルジェイが慌ててその腕を掴もうとしたが、アナトリーはそれをすり抜けて黒い霧の中へと消えて行った。
茫然とそれを見送るしかなかった五人がそこに浮いていると、ヴァリーが言った。
「…あやつの選択ぞ。」と、飛び始めた。「月の守りがある内に、我らは南へ行く。」
キリルは涙目になっていたが、それでも頷いた。
ゴルジェイも、アナトリーを掴めなかった手を見つめていたが、決断したように頷いて、そうしてロマーノと含めた五人は、一路誓心の結界を目指して、南へと飛んで行った。
アナトリーは、必死に結界の中の実家へと向かった。
住民達は、軍神達にせっつかれて全員が、いくらか霧が薄いコンドルとの結界境の方へと誘導されている。
だが、結界の前には大量の霧があって、外へ出て行けない状態であるようだった。
…だから外は神っ子一人居ない状態だったのか。
アナトリーは、霧と住民達に紛れて、軍神達に見つからないように実家を目指した。
家へと駆け込むと、父親と母親が、妹を連れて出て行こうとしているところだった。
「父さん!」
アナトリーが駆け寄ると、父はこちらを向いた。
「アナトリー!王からお前は死んだと連絡が来て…皆でどういう事かと信じられずにいたら、この騒ぎなんだ!どうなった?どこへ逃げればいいんだ?!」
アナトリーは、頷いて言った。
「結界の外はもう霧だらけで飛ばなきゃ無理だ。飛んでも、霧は追って来るから…かなり高く飛ばないと外へ出るのは無理だと思う。」
母親が、恐怖に引きつった顔をした。
「そんな…!私もサーシャもそんなに高く飛べないわ…!」
アナトリーは、この二人を抱いて飛ぶにも霧から逃れて大丈夫だろうかと不安になった。軍神同士でも自分のことでいっぱいいっぱいなのだ。
「…ちょっと待って!」アナトリーは、自分の部屋へと駆け込んだ。確か、ここにあったはず。「あった!」
それは、龍の宮でもらった鎧下着だった。
しかし、今着ている物を含めて五着あったはずが、一着しかない。
とりあえずそれを手に取って戻ると、まだ30歳のサーシャに着せた。姿は、まだ人で言うところの5歳ぐらいだ。
「これを着るんだ。」と、手伝いながら大き過ぎるが袴も履かせた。「霧が襲って来たら、離れろ、来るなって叫ぶんだぞ。分かったな。」
サーシャは、不安そうな顔をしながら、頷いた。
「兄様の服?」
アナトリーは、サーシャに着せながら言った。
「父さん母さん、他に三つあっただろう、どこにあるか知らないか。」
それには、二人は顔を見合わせたが、言った。
「…あんなに要らないだろう。我らの着物に換えて来た。外で市をやってたから。」
アナトリーは、顔色を変えた。
「何やってるんだ!貴重な物だって言ったじゃないか!」と、サーシャを抱いた。「父さんは母さんを。外へ出ないと、そのうちに王の結界が崩れて一気に霧が流れ込んで来るぞ!そうしたら命は無い!この衣が、命を守ってくれるのに!」
アナトリーは、サーシャを抱いて外へと飛び出した。
それを追って慌てて駆け出して来た父親が、浮き上がるアナトリーに言った。
「待て!その衣がなんだって?!」
アナトリーは、サーシャを抱きしめて言った。
「月の衣。陰の月の維月様が我らにくださった、霧から逃れる唯一の衣なんだ!それを、自分達の服のために売っちまうなんて!」
母親が、慌てて飛んで来ながら言う。
「なんですって?!だったら袴だけでも我が着るわ!あなた達より高く飛べないのに!」
父親は、首を振った。
「お前なんか別に生きてても仕方がないじゃないか!我に!」
アナトリーは、霧の中で両親を見下ろした。普通の両親だと思っていた…だから働いて、もらった物は家に渡して。
それが、こんな状況で、娘の衣を剥ぎ取って自分のために使おうと言うのだ。
腕の中のサーシャは、ぶるぶると震えている。アナトリーは、言った。
「…勝手にしろ!サーシャは守る!」
アナトリーは、そう言って上空へと飛び上がった。
「待て!アナトリー!」
父親の声が追って来るが、軍神として現役で働いていて、しかも両親より遥かに気が大きなアナトリーに、追いつけるはずはなかった。
ぐんぐんと上昇していくと、腕の中のサーシャが、アナトリーを見上げて小さく言った。
「兄様…。」
アナトリーは、サーシャを見た。
「サーシャ。大丈夫だ、お前は我が絶対に守る。だが、もし兄が倒れたら、その衣を絶対に脱がずにコンドルの結界の方へ逃げろ。そして、結界に向かって、アナトリーの妹だ、助けてくれって言うんだぞ。そうしたら、兄の知り合いが居るから絶対に助けてくれる。分かったな?」
サーシャは、不安そうだがそれでも健気に頷いた。
アナトリーは、サーシャを強く抱きしめて、結界外の黒い霧に向かって突っ込んで行った。




