この世の地獄
炎耀とレオニートは、結界外へと出て、愕然とした。
「王!」筆頭軍神のヴィタリーが急いで飛んで来た。「結界内へお入りください!ここはもう、手が付けられませぬ!」
レオニートは、茫然と言った。
「どうなっておる…?なぜにこのような事に!」
炎耀が、レオニートの腕を掴んで叫んだ。
「そんなことはどうでも良い!早う中へ戻れ!」と、ヴィタリーを見て言った。「主らも!ここは諦めよ、とにかくは、中へ!皆に命じよ、総員、結界内へ!」
「は!」
炎耀は、ヴィタリーが答えるのを背中に聞きながら、急いでレオニートを結界内へと押し込んだ。
…何ということだ…霧になっている。
炎耀は、結界内に入って、自然震えて来る手を無理に抑えた。今見た光景が、脳裏を離れない。
ドラゴンの結界方面は、真っ黒い霧にうねうねと絡みつかれてまるでイバラのように、城を包んで行くように見えたのだ。
だが、島へ知らせを送ることもこのままでは出来ぬ。
炎耀は、何とかしてこの惨状を、炎嘉に知らせねばと頭をフル回転させていた。
「…遅かったか…!」
ドラゴン城を遠く見ながら、義心は言った。
瘴気の存在はまだ感じているが、それを取り囲むように、北の大陸全体から黒い霧が這うように漂いながら、その周辺へと集まって来ている。
ドラゴン城周辺は、さながら地獄を見るような状態になっていた。
幸い、あの辺りは人が少なく獣が多いので、獣達が何かに気付いて駆け出して逃れていたが、僅かな人は気付かないようだった。
それでも、神達の悲鳴があちこちから聴こえて来る。
空から浄化の光は降りてはいたが、維月一人で全体を浄化することはとても出来ず、追い付いていなかった。
ヴァリーは地下道と言っていた。
義心は、眉を寄せた。地下道など、サイラスは網目のように密かに張り巡らせていて、そのどこに居るのかなど見当もつかない。
…ドラゴン城に行くよりないのか。
義心は、黒く包まれようとしている城を見た。瘴気と霧の只中へ突っ込んで行くのは、いくら義心でもどれだけもつか分からない。
だが、今こそ情報が必要なのだ。維心が滞りなく世を整えるために、自分は記憶を持って転生した。
義心は、覚悟を決めて、回りの神が逃げ惑う仲ドラゴン城へと、霧の合間をぬって飛び込んで行った。
近付いてみると城周辺は、包まれているとはいえ、まだまだらに霧が存在しているだけで、完全に飲まれているわけではなかった。
結界は、余裕がないのか義心の事はすんなりと通し、弾かれる事はなかった。
軍神達が霧を封じては転がしてを繰り返してなんとか結界内に入り込んで来た霧を抑えようとしているが、あまり成功していなかった。
それでも結界外の惨状と思えば、まだ結界は機能していて一応霧をいくらか遮断はしているのは見て取れた。
城の結界はと向かうと、そこも義心はすんなり入った。
ヴェネジクトは、自分が来たのを知っているのか。
義心は思いながら、到着口に降り立った。
すると、一人の重臣が転がりでて来た。
「おお、義心殿か!」
義心は、その顔を知っていた。筆頭重臣のドナートだった。
「何としたことか、ドナート殿。こちらに不穏な気配を感じ取り、我が王の命で見に参ったらこの始末。あちこちに黒い霧が…」と、漂う霧が寄って来たのを、義心は片手で封じた。「きりがないぞ。結界外はもう真っ黒で、この領地は遠目に見ると真っ黒に見える。」
ドナートは、項垂れた。
「はい…どうした訳か、もう夜も明けようのに真っ暗で、恐らくそうだろうと皆で不安に思うておりましたところ。王は昨日夕刻辺りから何かに激怒されており、我らは何も知らされておらぬので、何に憤っていらっしゃるのか分からぬ状況で。その辺りから、不穏な気配がし始めて、何事か我らにも分からぬのです。」
義心は、頷いた。
「とにかくは軍神達は?上位の誰かは居らぬか。」
ドナートは頷いた。
「はい、そういえばダニールあちらに。ご案内致します。」
義心は頷いて、そこにもあちこち漂っている黒い霧を封じて回っている下士官達を後目に、ドナートについて城の中へと入って行った。
すると、いくらも歩かない間にダニールが駆け出して来た。
「義心殿か?!おお、助かった!」
義心は、眉を寄せたを
「助かってはおらぬぞ、ダニール。どうした事だこの有り様は。ヴェネジクト様は?何をしておられる。」
ダニールは、それを聞いて暗い顔をした。そして、ドナートを気にしながら、言った。
「…ザハール殿がこちらに。我からは何も申せぬが、ザハール殿に聞いてくれぬか。」
ドナートは、不安そうな顔をしている。
義心は、頷いた。
「ならば参る。」と、ドナートを見た。「主らはとにかく霧を封じて機を待つのだ。原因を探って対応を考えるゆえ。霧は月しかどうにも出来ぬのだが、月も今問題があって、完全に機能しておらぬのだ。しばし堪えよ。」
ドナートは、頷いた。
「はい…。よろしくお願い致します。」
そうして、心細げなドナートを置いて.義心はダニールと軍神の執務室へと向かった。
奥へ行くほど不穏な。
義心は思った。本来奥は、王が居るのでどこより平穏で守られている場所だった。
それなのに、そこへ近付くにつれて、何やら重苦しく心に来るものがあって、それを己で調整せねば流されて、激情に叫び出したい心地になる。
ここの瘴気は、怒りの瘴気だった。
奥へ近付くにつれて、ダニールも険しい顔をし始める。どうやら己の中に沸き上がる、憤怒の感情を抑えているようだった。
「ここぞ。」
ダニールは、ぶっきらぼうにそう言うと、その扉を開いた。
中には、ザハールが座っていた。
その眉間には、必死に何かと戦うように、深い皺が刻まれていた。
義心は、進み出て言った。
「ザハール殿。結界外は黒い霧に包まれて出ることも難しいのではないかという有り様。我は我が王からの命で、様子を見に参った。」
ザハールは、答えた。
「王が昨日夕刻から抑え切れぬ怒りに叫び出されて。そこから、我らが何を言うても聞いてくださる様子はない。こんな有り様なのに、コンドル城へ討って出ろと命じられる。それは我がなんとか抑えている状況ぞ。」
義心は、淡々と言った。
「もはや正気ではないな。霧の中で戦など、霧の思うツボではないか。このままではここらの神も人も獣も、皆狂うて死ぬ。死ぬのはまだ良いほうで、暗い念を産み出させるために、生かせる事も多い。ここは滅ぶぞ。」
ザハールは、ふるふると震えていたが、突然に立ち上がって叫んだ。
「…月は何をしておる!霧などあの力で一瞬であろう!なぜに消さぬのよ!」
義心は、そんなザハールにも全く動じず、無表情で言った。
「月に不具合が生じておって、今は陰の月一人しかおらぬ。陽の月力を借りて下ろしておるが、それでは追い付かぬ。そもそもが原因を絶たねばいくら月でも無限に産み出される霧を消し続ける事は困難ぞ。むしろ結界外があの様子なのに、ここがこれで済んでおるだけでも、陰の月が霧に命じていくらか抑えているからではないのか。主らの王が、霧を大陸全体から呼んでおるのだ。」
それを聞いてダニールが、義心の隣りで怒鳴り出した。
「だからあの王では駄目だと申したのに!コンドルの甲冑など着せて、同じドラゴンの警備兵を襲わせたりしたからこんなことになったのではないのか!」
義心は、目を見開いた。警備兵を襲われた…?まさかヴァリーか?!
「どういうことぞ!」
義心も、思わず声を荒げた。ここの気は怒りを増長させるので、本物の感情には抑えきれない事がある。
ザハールは、まだ震えていたが、急に力を抜くと、椅子へと崩れるように座った。
そして、言った。
「義心殿…我には止められなかった。王が自ら下士官に命じて、コンドルとの戦の口実のために、下士官にコンドルの甲冑を着せて、結界境の警備兵を襲わせたのだ。知ったのは事後、我は密かに別の下士官に命じて目撃したもの達諸とも隠すように命じた。それは上手くやったようで、襲わせた下士官を始末した王が現場へ向かった時には、誰も居らず襲撃の痕跡もなかった。己の企みが失敗したことを知った王は、烈火の如く怒り狂い、そこから一気に全てが、こんなことに。戦は阻止出来たが、このままではドラゴンは王の瘴気に呼び寄せられた霧に全滅させられてしまおう。」
義心は、その事実に愕然とした。これではまずい…十六夜が言っていたのは、これだったのだ。
「…ならばヴェネジクト様を殺さねば!」義心は、足を扉へ向けた。「霧は呼ばれる元が絶たれたらそこに漂うだけになる。これ以上大陸の霧がこちらへ来ては、皆抑えきれぬようになろうが!」
それにはダニールが、苦々しげに言った。
「近寄れぬのよ。」義心がダニールを見ると、ダニールは続けた。「我らがそれを考えなかったと思うか。ザハール殿にも近寄れなかった。既に瘴気は霧になりつつあり、結界外から滲み出てきた霧は全て王に吸い寄せられて取り巻いて、我らには近寄る事も出来ぬのだ。せめて回りの霧だけでも月に消してもらわねばと思うのに、月は不具合とかなのだろう?」
義心は、やはり遅かったのか、と唇を噛んだ。だが殺さねば…このままでは全てが飲まれてしまう。十六夜の目覚めが間に合うとは思えない…!
「…それでも、参る!」義心は、扉へと進んだ。「大陸全ての命がかかっておるのだ!消さねばならぬ!」
断固として言って歩き出す義心に、ダニールとザハールは視線を合わせて、そして頷き合うと、共にヴェネジクトの居る王の居間へと向かった。
そう、殺すしかない。自分達の命は、二の次なのだ。