懐かしい気配
炎嘉はそれで、さすがに宮を放って置けないので帰途についた。
ヴァリー達は七日の非番の初日を立ち合いに使ったので、次の日からは明蓮の部屋へと通い詰め、あちらの歴史から、礼儀、そしてこちらの礼儀、歴史を並べて教えた。
それから、最近に交流が始まった北西の大陸の事も、明蓮は既に熟知していたので、それも大まかに教えた。
とはいえ、全部いきなり頭に入るわけもないので、大筋を初日に教えて流れを把握させ、次の日から各パート毎に詳しくやって行く、という形だった。
教えていて思ったのだが、ヴァリーの理解力が群を抜いて高い。他の四人が愚かな訳では無くて、ヴァリー一人が突出して賢いのだ。
全員で学んでいるのだが、ヴァリーが次々に理解して質問を投げかけて来るのにも関わらず、他の四人はまだ学んでいる最中なので、ただ困惑して明蓮とヴァリーのやり取りを聞いている、という形になってしまう。
遂に、ゲラシムが言った。
「駄目だ、ヴァリー、主だけまず学んだ方が良い。」ゲラシムは、明蓮お手製の教科書を置いて、言った。「我らは主のように理解が出来ぬのだ。短い時しかここに居れぬのに、そんな事では主の足を引っ張ることになってしまう。主だけが明蓮から教わって、我らは主から、戻った後なら時がいくらでもあるのだから、教わる事にしようぞ。幸い、明蓮がこうして書を作ってくれたのだし、これを見ながら主から我らは教わる。」
ヴァリーは、戸惑う顔をした。
「我が?だが…まだ教えるほどでは。」
明蓮が、首を振った。
「主ならすぐに教えるレベルまで行ける。ゲラシム達には訓練場にでも行っておいてもらって、主はこちらで励めば良いではないか。そして、習った場所を、次に来るまでにあちらで皆に教えておくのだ。そうして、続きをまた教える。それでどうだ?」
ヴァリーは考える顔をしたが、渋々頷いた。
「…では、それで。何やら重大な任務を負わされたような気がするが、出来るだけの事はする。主らも、せっかくであるから訓練場ででも何かを掴んで参れよ。」
四人は、頷いて立ち上がった。
「では、我らは参る。ではな、明蓮。頼んだぞ。」
そうして、解放されたのが嬉しいのか、足取りも軽く出て行った。
それを見送って、ヴァリーは息をついた。
「あれらはあれで良いのかの。知識は己の鎧にもなるのに。」
明蓮は、苦笑した。
「少し詰め込み過ぎておるから。主は確かに飲み込みが良いのだ。主のペースに合わせると、あれらはとてもついては来れぬ。そうすると、分からぬようになるゆえ面白うないのよ。教える時は、気を付けねばならぬ。我は急いでおったから、つい主に合わせてしもうて。すまぬの。」
ヴァリーは、自分が飲み込みが良いのか、と驚いた。考えたことも無かったが、確かにコンドルの教師にもそんなことを言われたような気がする。
「ならば我が急いで学ぶ。頼むぞ、明蓮。」
明蓮が頷くと、そこへ侍女がやって来て頭を下げた。
「明蓮様。王妃様から、厨子とお文が参っておりまする。」
明蓮は、立ち上がった。
「王妃様から?」
王妃と言っているが、明蓮にとっては祖母だ。大変に優しく美しい大好きな祖母だった。
侍女が立ち去ると、明蓮は厨子を受け取って、文を開いた。
「…王妃様が、お縫いになった鎧下着と裁付袴を、主らにと。」と、厨子を開いた。「やはり。我も戴いたのだが、練習用にと縫った物が多くあるので、これで良ければ着てもらえればと仰っておる。」
ヴァリーは、驚いた。王妃が軍神達に着物を縫って与えているのか?!
「この宮はこの規模なのに、わざわざ王妃が裁縫を?」
明蓮は、苦笑して首を振った。
「いや、王の物を縫いたいからと、鍛錬なさっておいでだったのだ。それで、その鍛錬の際に出来た物を、王には着せられないので、我らにと戴いた。大変に貴重な物でな。王妃様は、陰の月であられるから。」
言われて、ヴァリーはその、これまで見た事がないほど良い布で作られた鎧下着を手に取った。
そこからは、何やら癒されるような…それでいて、涙が出て来るほど懐かしいような、そんな気がした。
「これを、我らに?こんな質の良い物は、身に着けたことも無いのに。」
明蓮は、頷いた。
「断るのは失礼にあたるのだぞ。有難く戴くが良い。」
ヴァリーは、その鎧下着に手を入れて見た。
「…何であろうか。癒されるような…なんとも言えぬ、懐かしい心地がする。その上、何やら物悲しいような…。」
物悲しい?
明蓮は、最後のものはよく分からなかったが、頷いた。
「月は癒しと慈愛の象徴と言われておるから。月が縫った衣など、なかなかに手に出来るものではない。主らは幸運よな。」
ヴァリーは頷いて、しばらくその鎧下着をじっと手にして、考え込んでいた。
そうやって数日、ヴァリー達は名残惜しげに龍の宮を飛び立って行った。
次の非番はいつなのか見当もつかないと言っていたので、次はいつ来られるのかも分からないが、ついに維心は一度もヴァリー達と対面することなく、五人を北へ帰した。
元々臣下達が交流するのにこちらが何某か言うことなどなかったし、そもそも維心は簡単には外からの神に会ったりしない。
なので、これが自然だった。
ヴァリー達が帰り、ずっと世話をしていた帝羽と明蓮の二人から報告を受けた、義心が維心に報告に来ていた。
「…ならば問題なく帰ったのだな。」維心は、言った。「ヴァリーの学びの様子はどうであったか。」
義心は答えた。
「は。明蓮が申すにはかなり飲み込みがよろしく、北ばかりか島、北西などの大筋での歴史は皆、頭に入ったのだとか。その上で北の詳しい歴史を終えたところで、あちらへ戻ったのだそうです。こちらや北西の事は流れしか知らぬので、次までに明蓮の書で学んで来て質問すると申して飛び立ったのだと聞きました。ですが明蓮は、とりあえずは詰め込み式でしたが北の事は頭に入ったので、今は問題ないのではないかと申しておりました。」
六日でそれをやったか。
維心は、感心した。それを教えた明蓮も大概だが、ヴァリーもそれだけ理解が速かったから出来た事だろう。
「良かったことよ。こうして少しずつあれの知識を増やす事で様子を見よう。して?維月の鎧下着は。」
義心は真面目な顔で答えた。
「お届けくださった次の日には皆、それを身に付けておりました。襟の刺繍は、我が見たところ龍であろう形でありましたが、あれらはドラゴンの刺繍をしてくださったのかといたく感動しておったとか。少し、太めの胴で手足が大きめに縫われておりましたので。」
維心は、そういえば維月がそんなことを言っていた、と思った。
「…だが、翼はないのに。」
しかし義心は、首を振った。
「後から縫われたのでしょうが、翼もありました。」
だから、あの日また奥に籠っておったのか。
維月は、ドラゴンに見えるようにわざわざ翼を付け直したのだ。
「まあ…無駄にならぬのだから良い事よ。あれは無駄になるのが嫌だと気にしておったしの。主も、あまりに不恰好な龍なら無理して身に付けずで良いからの。今日の龍は…まともであるが。」
維心は、義心の襟元を見て言う。義心は、首を振った。
「せっかくに縫われたのですから。それに我に戴いた物は、太ってはおりませぬから。」
維心は頷いたが、複雑だった。しかし、炎嘉も言っていたように、戦う時に月の気はかなり役に立つ。瘴気と霧が渦巻く殺戮の場で、霧に襲われないのはかなりのメリットなのだ。
いくらなんでも龍五万の軍神達全てに縫わせるわけにはいかないが、高位の軍神が逃れるのは戦略的に重要な事だった。
「まあ、そのうちに飽きるだろうし、それに腕を上げた。主らの献身には頭が下がるわ。我の着物を縫うために、あれもいろいろな物を生み出したものよ。」
それにしても、まだ維月は奥に籠っている。
いったい何を縫っているのだろう、と、維心は少し聞いてみなければと思った。
維月は、これまで世話になった仕立ての龍達に、心から謝罪をした。
自分がどうしてもと無理を言って、下っ端の弟子として教えて欲しいと鍛練していたのだ。
それを、維心が押し掛けて叱ったりしたので、かなり怖かったはずなのだ。
なので、皆が持つ懐剣に付けるための、根付けを山ほど作って持って行った。
龍達は平伏然りだったが、維月は言った。
「維心様には、あれから私がどういう風にあなた達に頼んだのかよくお話して、分かって頂きました。なので、怖い思いをさせてしまったお詫びなのですわ。そのようにせずで良いのですよ。」
仕立ての長の、海波が、頭を下げたまま言った。
「そのような。我らも思いもかけず王妃様が筋が良いので、つい強く申しておりました。何しろ我が縫うのを一度見られたら、そっくりそのままの動きを真似られるので、これはものになる、と、誠に弟子のように…。立場も弁えず、申し訳ありませぬ。」
隣りで頭を下げる、織りの長の俊基も言った。
「我も、布をお渡しせぬで…王妃様は、まだまだ腕を上げられると海波が申すので、ならばと意地になっておりました。申し訳なく思います。」
維月は、首を振った。
「私は月なので、見たままを模倣するのが得意なの。だから立ち合いもあのように。でも、力加減などは慣れるよりありませぬ。なので、時がかかって維心様にもイライラおさせすることになってしもうて。私に何も申されぬので、あなた達に言いに来られたのだと思うわ。もう、そんなことはしないとお約束くださったので。」と、厨子を押しやった。「根付けだけは前から作れるようになっておったの…細工の龍が前世に教えてくれて。たくさん作って参ったので、これをあなた達に。懐剣に付けてくれたら嬉しいのですけれど。」
これだけは、簡単なのでと前世に細工の龍達に教わった、維月の得意な細工物だった。前世からずっと維心の根付けは維月の手作りだ。
ちなみに維月の根付けは維心が作った物で、維心は何でも出来るのだと、細工の龍が感動していたのを覚えている。
完璧な造りの根付けだった。
海波と俊基は深々と頭を下げ直した。
「ありがたく頂戴致しまする。」
二人は、大量にあってざらざらと音を立てる厨子を押し戴いて、そう言った。
維月は、ホッと肩の荷を下ろした…これで、龍達の献身に、少しは報えたかなあと思ったのだ。
維月は根付けが上位の皆に手渡されて行くのを見届けて、その場を後にしたのだった。