月の着物
そうやって立ち合っていて、気が付くともう、夕刻になっていた。
炎嘉は王であるし、前世の記憶があるので場数が違う。なので、いくら筋の良いヴァリーでも、全く炎嘉の敵ではなくて、指導のための立ち合いをして終わったという感じだった。
ヴァリーが連れて来たのは、他にゲラシムとアナトリー、ゴルジェイ、キリルという名の軍神達だった。
他の四人もヴァリーには劣るもののそれなりの気の大きさを持っており、生まれが良ければ恐らくは、今頃ドラゴン城の上位の軍神だったはずだ。
あの城は、下克上とはいえ、相当の力が無ければ最初から実力を認められて上位には行く事が出来ず、その点ではこちらの宮の方が実力勝負でそんな格差はなかった。ドラゴン城は、ある意味不平等だと思えた。
そんなこんなで和やかな雰囲気で楽しく立ち合いを終えた後、ドラゴン達は泊まりで来ているようで、おっとりと片付けを手伝っている。
炎嘉は、義心から渡された着物に着替えて、顔をしかめた。
「義心から聞いたが維心は何やらまだ忙しゅうて明日の朝まで待たねばならぬ事になったわ。まあ、暇だから遊びに参っただけであるし、今夜はここに泊まる事にした。」
もちろん、維心は今日は暇なので奥でサッサと報告に来いと言っているぐらいなので、そんな事は無いのだが、炎嘉はまだ何も掴めていなかったので、そう言った。
すると、片付けを監督していた明蓮が、こちらへ歩いて来ながら言った。
「ならば炎嘉様、この後我の居室で酒盛りをしようかと話しておるのですが、いかがですか?」
それを聞いたヴァリーが、ぎょ、とした顔をした。
「明蓮、そのような。王を我らのような者達の酒席にお呼びするなど、我でもやらぬぞ。」
明蓮は、笑って言った。
「炎嘉様はよう密かにそんな酒席に来られて共に酒を飲んでくださるのだ。王と申して、そのように堅苦しいかたではないのよ。逆にお誘いせねば失礼なほどぞ。」
ヴァリーは隣りのキリルと顔を見合わせる。
炎嘉は、ハッハと声を立てて笑った。
「維心には眉を寄せられるが、我はどこへでも参るのだ。湯殿の宮というのがあっての、下々の者達が集まって風呂に入った後、雑魚寝しながら酒を飲むのだが、そこへも出入りしておった。礼儀だなんだと言われることもなく、大声で笑っても誰も咎めぬし楽なのだ。」
ヴァリーは、驚いた。王もそれぞれなのだ…恐らく炎嘉は、そういう事に抵抗がないのだろう。
確かに立ち合いを指南してくれるのも、親切であったし細やかに、親身になってくれているのが感じ取れた。堅苦しい事もなく、共に笑い合って話が出来るのは確かにそうなのだ。
…ということは、炎嘉様からいろいろ今の世の事なども聞けるのかもしれぬ。
ヴァリーは、そう思った。何しろ、ドラゴン城に仕えているといっても下士官で、全く世の動きなど教えられていなかった。
ただ命令に従って動くだけで、その理由も知らせる事は無い。こんなことをしていて本当にいいのかと、時に考える時があった。
なので、判断できるように詳しい事は知りたかった。
なので、言った。
「…炎嘉様とご同席出来るとなれば、我も嬉しい限りよ。我らあちらの土地に居るとはいえ、あちらの土地の動きなど何も知らぬから。いろいろお話出来たらと思う。」
ヴァリーが明蓮に言うと、明蓮は頷いて炎嘉を見た。
「いかがでしょうか、炎嘉様。ヴァリーもこう申しておりますし。王から任務の褒美に皆が戴いた酒があるのですよ。」
炎嘉は、笑って頷いた。
「もちろん、主らが良いなら参ろうぞ。我だって、気の張る酒席ばかりでのうて、少しは主らと語らいながら気兼ねのう飲みたいわ。」
明蓮は頷いた。
「では、こちらへ。皆着替えて参る予定ですので、炎嘉様には先に我の居室へご案内致します。」
炎嘉は頷いて、明蓮についてそこを出た。
…誠に気が回るやつよ。
炎嘉は、明蓮を見ながら、そう思っていた。
維心は、炎嘉から義心に言伝られていて、まだ何も掴めておらぬから、明朝まで待て、と言われていた。
維心は気が急いたが、自分の結界の中、見ようと思えばどこでも見られるので、炎嘉が何かを掴もうと話しかけていたなら、いくらでも聞くことが出来た。
なので、仕方なく待つ事にした。
そうして、日がとっぷりと暮れた頃、維月が疲れ切った様子で奥から出て来た。
「維心様…お待たせしてしまいましたわ。」
維心は、そんなに疲れてと知らない時には気にならなかったのに、最大限に気を遣って維月を脇へと座らせて肩を抱いた。
「良い。気にするでないぞ。すまぬの、我が何も知らぬばかりに、傍に居らぬと叱ったりして…。」
維心は、また後悔でドスンと落ち込んだ。維月は、慌てて言った。
「良いのですわ。私が何も言わずにおりましたから。というか、いつになったらものになるのか分かりませんでしたし、もしかしたらずっと維心様の衣を縫えぬかもと思うておりましたので、ある程度道筋が見えてから申し上げようと思うておったのです。」
維心は、うんうんと頷いていたが、言った。
「仕立ての龍達には一言申した。織りの龍にもの。我が妃に我の衣の生地を渡さぬとはどういう事ぞと申しておいた。」
維月は、びっくりして目を丸くして維心を見上げた。
「え?!ここへ呼びましたの?!」
だとしたら、龍達には悪い事をした。
維月が思っていると、維心は首を振った。
「いや、暇であったしあちらまで行って来た。」
維月はもっと仰天した。滅多に行かないのに、押し掛けたの?!
それは、呼びつけられるより怖かっただろう。
「まあ…あれらは悪くないのですわ。自分達の王に、おかしな物は着せられないと思うのは当然の事でありますもの…。無理を申して教えてもらっておったのに、労うならまだしも意見なさったなど…気が咎めまするわ。」
維月が案じて袖口で口を押えて下を向くと、維心は慌てて言った。
「我の物は主の物なのだ。この宮に主が手に出来ぬ物など無いのだぞ。あれらには、王妃の求めに応じぬ選択肢など本来無い。なのにそのような横暴な様を。許せぬ所業ぞ。これからは常、我のための生地を手にすることが出来ようほどに。思う存分我の着物を縫うが良いぞ。」
維月は、維心の気持ちは分かったが、だが龍達にも誇りがあるのだ。なので、明日謝っておこう、と思い、顔を上げた。
「ところで、これまで縫い貯めた物が出来ましてございます。」と、厨子を手に待っていた侍女達に頷き掛けると、侍女達はそれを持って進み出て、目の前にテーブルを設置して、その上に並べ始めた。「ご覧になってみてくださいませ。」
維心は、次々に並べられる厨子を見て、どれだけ縫ったのだと驚いた。てっきり、部屋着か訪問着でも縫っていて、それだけだと思ったのだ。
「…これ全て我の?」
維月は頷くと、傍の厨子から開いた。
「はい。これは、お友達の所へ軽く出掛けられる時の訪問着。これに時が掛かってしまって、やっと先ほど出来ましたの。」と、隣りの厨子を開く。「こちらは、部屋着ですの。最近に完成させたのですけれど、まだ自信がなくて。龍達も、あまり良い顔をしませんでしたし…もっと良い出来でなければと思ってしまって。」
維心は、それを手に取ってサッと羽織って見た。間違いなく維月の気がする…炎嘉や義心の衣からはしなかった、強い愛情のような気が感じ取れた。
まるで、維月の愛情に包み込まれているような、それは心地よい感覚がした。
「ここに居る時は、常にこれを纏う。」維心は、それを抱くようにして、言った。「主の心地が我を包むようぞ。このように快い衣は初めてぞ。」
維月は、慌てて言った。
「あの、たくさんお着物をお持ちなのですから、これだけとは言わないでくださいませ。せめて、私が里帰りの時とか、居らぬ時などに、使って頂きましたなら。」
しかし、維心はもう、それを脱ぐ気にもならなかった。
「このように心地よいのに。我はこれが良い。」
お父様と一緒だわ。
維月は、懸念していた事だったが、碧黎はどうあれ維心は毎日同じ着物を着ているわけにはいかないので、多分大丈夫だろうと違う厨子を開いた。
「それから、こちらは衵、それから襦袢、足袋。これらは複数縫っておきましたので、龍達の着物の内側に着てくださいませ。足袋は、うまく縫えないので人世の靴下と申すものと同じ形にしましたの。草履でない時にお履きくださいませ。」と、別の厨子を開いた。「これは、滅多にお召しになりませんけれど、一応縫いましたの。鎧下着と、裁付袴ですわ。義心などこればかり着ておるので、練習に縫った物を大量に引き取ってもろうて。襟の刺繍が歪んだりして、大変ですのよ。でも、すっごくたくさん縫ったので、慣れてこれらは成功した物ばかりです。」
知っておる。
維心は思ってそれを見た。
確かに、ここにあるのは義心の物より立ち襟の刺繍は華やかで凝っているのだが、歪みなど無く綺麗に仕上がっている。
維月は、綺麗に完成した物を維心にと、一生懸命励んでいたのだ。
ただ、生地を無駄にしたくない節約家の維月なので、練習に縫った物は臣下達に配り歩いていたのだろう。
「…主を侮っておった。」維心は、その刺繍に指を這わせて、言った。「何と器用に。これも我のためにと励んでくれたのだと思うと、嬉しく思う。」
維月は、苦笑した。
「刺繍は苦手なので、でも無駄な事はしたくないし、鎧下着など物凄い数を縫いました。裁付袴は案外にすんなり縫えましたけれど、立ち襟の刺繍だけは本当に。」と、刺繍を見た。「やっとここまでに。上位の軍神達には、軒並み申し訳ないのですけれど、たくさん配らせて頂きましたわ。義心だけでも着用しきれない多さでしたから。」
いったい、何枚縫ったのだろう。
維心は、思って言った。
「誰にやったのだ?そんなに縫ったのか。」
維月は、頷いた。
「はい。最初は義心に出来るたびに渡しておったのですけれど、段々に枚数が多くなって参って、さすがに義心だけに縫うのはおかしいと思って、帝羽、明蓮、義将、新月、明輪、義蓮、慎也に五組ずつぐらいですかしら。義心には三十組くらいになったぐらいで、他の軍神達にも分けますか、と言うから、そうしましたの。」
義心はあれを、三十持っておるのか。ならば着ておるはずよな。
維心は思った。義心は密かに、維月の練習の結果出るどこか拙い着物を、引き受ける役を務めていたのだ。
そして、少し上達して来たのを見て、他の軍神達にも、と言ったのだろうということが、維心には透けて見えた。
…ということは、他の着物もか。
「…主、義心に他に何を渡しておった?部屋着もか。」
維月は、維心が何かを勘繰ってしまうのではないかと案じたが、しかし嘘を付いても仕方がないので、答えた。
「ここにある物は、全て練習しましたから、出来る度に義心に。でも、着物はそんなに着ないようだったので、鵬達に与えてはと言われて、そちらに。」
…知らぬ間に、義心に維月の世話をさせておったとは。
維心は、己の不甲斐なさにため息が出た。今頃義心の宿舎には、山ほど維月の練習で生み出された着物があるのだろう。
「主…あまり義心に世話を掛けるでない。我に申したら何とかするゆえ。その様子ではあれの宿舎は主の練習で出来た物が山ほどあるのでは。」
維月は、少し拗ねたような顔をした。
「義心は、向こう数年は着物に困らぬだけ戴いたので助かりまする、と言っておりました。襦袢だって義心に渡した物の数があれだけあるから、こうして襟の返しを上達させることが出来ましたのよ。」
そう言うしかなかったのだろう。
維心は思ったが、しかし維月の気がする着物の数々は、確かに癒された。決して素晴らしい出来だとは言えないかもしれない…仕立ての龍の腕には敵わないからだ。それでも、この癒しという要素は、身に着ける着物には、重要な要因なのだと維心は長く生きて来て、今気づいていた。義心も、毎日維月が縫った着物を身に着けて、もしかしたらそれなりに幸福なのかもしれない。
それから、維心は維月に手伝われてあれもこれもと身に着けては、維月の愛情をそこから感じて、充実した気持ちになりながら夜を過ごしたのだった。