意地
維斗が弓維の手を引いて維明の背を追って訓練場へと到着すると、維明が、ふと大きなガラス窓の前で立ち止った。
「兄上?」
維斗は、問うように言いながら、訓練場の方へと目をやる。
そのガラス窓は、大きく何の間仕切りも無く、上から下までを満遍なく観覧出来るようにと設えられたもので、外に丸く壇状に設えられた観覧席とは違い、中から様子を見られるようになっている。ここには座席なども特に用意されておらず、脇の壁際にベンチが幾つか設置されているだけで、基本は立ち見する場所だ。
その脇から、訓練場へと入る扉が開いていた。
維斗が見た訓練場では、匡儀と維心が、上空で立ち合っているのが見え、他の王達や維月は、それを見上げていた。
今居るここには、匡儀につき従って来た、軍神筆頭の明羽も来て食い入るようにガラスの向こうを凝視していて、三人が来た事にも気付かないようだった。
そして、なぜか維月は袴姿で、髪も束ねられていた。
もしかして、母上が立ち合われておったのか?…だとすれば、こちらに来ている王達はさっさと下されてしまっただろう。何しろ母は、父以外には負け知らずで、軍神達すら一目置いている手練れなのだ。アマゾネス城へアディアを救出しに飛んだ時も、なので義心も帝羽も、たった三人だというのに、アマゾネスの軍神達に囲まれる中でサポートに徹しているだけで良かったのだと聞いている。
維斗が思っていると、維明が言った。
「…珍しい。父上は滅多に本気の立ち合いなどせぬのにの。」
維斗は、まさかとじっと目を凝らした。
確かに、父上の速度があり得ないほど速い。
しかし、まだ余裕があるようだった。対して匡儀の方は、確かに手練れなのだが何やら力んでいるようにも見える。
父は、どうやら一本取れるのに取っていない状態のようだった。
「炎嘉殿と戯れに立ち合われる時には、気を使わず簡易に対峙されるようですが、此度の様子はどうも違うようです。」
維斗が言うと、維明はじっと二人の動きから目を離さずに、言った。
「どうも、匡儀殿の動きが硬い。父上はもしかして、匡儀殿が本調子になるのを待っておるのではないか。どうしても真正面から立ち合ってみたいと思われておるのやもな。」
弓維は、訳が分からないので、ただ黙って二人の背を見て立っているしかない。
維明と維斗は、じっとその立ち合いの様子を凝視していた。
「…なんぞ。なぜに取らぬ。」
焔が、じっと見上げてそう言った。そこに居る、誰もが思っていたことだった。
維心は、大概立ち合いでも非情で、ちょっとでも隙を見せたら不機嫌になってさっさと終わらせようとする。
しかし、匡儀相手にどう見てもとっくに一本取れていたものを、見逃して取らない。
匡儀は、維心にどうしても勝ちたいという気持ちが先に立ち、何度もミスを繰り返しているのに、維心はいつものように不機嫌になるわけでもなく、さっさと終わらせようともしていないのだ。
炎嘉が、今は落ち着いた様子で言った。
「恐らく、匡儀を待っておるのよ。」皆が炎嘉を見るのに、炎嘉は苦笑した。「匡儀の力が入り過ぎておるのは我らですらわかっておる。維心なら尚の事。なので維心は、自分が手を控えているのを匡儀に気取らせて、冷静にさせようとしておるのではないのか。維心は、冷静な匡儀ときっちり戦いたいと思うておるのだろう。」
駿が、少し感心したように言った。
「ほう。維心殿もやはり同族には配慮なさるか。」
しかし、炎嘉は駿を睨むように見た。
「配慮?維心がか?」と、炎嘉は、険しい顔をした。「逆ぞ。同族であるからこそ己が王なのだと知らしめるためにああしておるのだ。冷静でない匡儀に勝ったとて、普通ではなかったという言い訳が出来よう。それをさせぬために待っておる。そういう事ぞ。」
駿は、驚いて見上げた。
すると、そこでは匡儀の動きが停まって、維心と睨み合う形になっていた。
…維心様が、匡儀様にそのようなことを思われて…?
維月は、炎嘉の言葉に不安になった。同族だからこそ、仲が良いのだと勝手に思っていた。だが、同族だからこそ王として立つ二人には、その地位を守るためにどちらが上なのか、証明しなければならないという、王ならではの意識が芽生えているのか。
そんな話をして落ち着きなく見上げる維月の目の前で、匡儀は維心を睨んで言った。
「…なぜに避けてばかりぞ。我など相手ではないと?」
維心は、頷く。
「今の主ではの。力が入り過ぎて、本来の動きが出来ておらぬのだろうが。我は、本来の主と戦う。それ以外など無駄でしかないわ。冷静になれ。我から一本取れるのだろう?」
匡儀は、歯ぎしりした。確かに今の自分は冷静ではない。
維月の立ち合いを見た時、敵わない、と思った自分に苛立った。敵わない事などあるはずはない。あれは月、ただの女。そんなものに龍族の王である自分が負けるはずなどないのだ。
しかも、この維月は維心にだけは勝てないのだという。維心はこの妃を育て、更に上を行く能力を持っているのだ。ならば同じ種族の王同士、どうあっても維月にだけは負ける訳にはいかない。
そう思い、目の前で他の王達があっさりと下されるのを、焦燥感と共に見ていたのだ。
維心が相手をすると言った時、少しホッとした。維心になら、負けても示しがつく…。
しかし、そう思った自分に猛烈に腹が立った。維心に負ける?なぜに最初からあやつに敵わぬと思うておるのだ!
匡儀は、絶対に負ける訳にはいかないと思った。龍族の王は自分。維心は青龍の王でしかない。龍族全体の王としての座は、渡す訳にはいかぬ。白龍全ての名誉に掛けて、その王である自分は、負ける訳にはいかぬのだ!
そんな気持ちが、匡儀を常の状態とは違ったものにしてしまっていたのだ。
「…我は確かに焦っておる。」匡儀は、維心に答えた。「だが、手加減は無用ぞ。我が龍族の王。主は青龍の王よ。我が白龍達のためにも、我は主に勝つ!」
維心はまた、スッと目を細めた。やはりこやつも同じ考えでいたか。
「…ならば手加減はせぬ。」維心は、刀を構えた。「後で言い訳せぬようにの。主は酔ってはおらぬ。酔いのせいで負けたなどと申すでないぞ。」
匡儀は、ムッとして刀を上げた。
「同じ事を返すわ、維心!」
そうして、斬りかかって行った。
「…不味いの。」維明が、その様子を見て眉を寄せた。「匡儀殿はどうあっても父上には勝てぬ。父上には余裕がある。己が最強だと言う自負があるからぞ。しかし、匡儀殿は恐らくどこかで父上を恐れておる。あれでは対等には立ち合えまい。」
それを聞いて、明羽がハッと維明の存在に気付いて、振り返った。そして、慌てて頭を下げた。
「維明様、維斗様。申し訳ありませぬ、つい見入ってしまい。」
維明は、会釈を返した。
「良い。己の王のことであるものな。」と、視線をガラスの向こうへ移す。「色は違えど同族であるのに、その中で諍いなどあってはならぬが、確かに龍族全体を考えるとお二人の心地も分かるゆえ。お止めする気にもなれぬの。」
維斗は、険しい顔をしながら同じように見上げた。
どう考えても、父の強さの方が、上回っているのは確かなのだ。
明羽も、そう感じているのか、それとも龍族同士のこれからの諍いを危惧しているのか、ずっと険しい顔になりながら、戦況を見守っていた。