父王
維月は、トボトボと居間へと引き返して来た。
いつもなら維心が居る居間に帰るのはホッとする時間だったが、先ほど維心に窘められたところだったので、気が重かったのだ。
だが、それも自分のせいだったし、弓維の事を話さねばならない。
維月は、重い足取りで居間へと入った。
すると、そこには正面の椅子に、維心が巻紙を手に座っていた。
いつ見ても改めて見ると、本当に美しく心が洗われるような姿だ。
維月が維心に見とれていると、維心は、維月が帰って来たのに気付いてこちらを見た。
「維月。戻ったか。」
維月は、ハッと我に返って維心に頭を下げた。
「維心様。弓維と話して参りました。」
維心は、維月から緊張を感じ取って苦笑すると、維月に手を差し出した。
「これへ。話を聞こうぞ。」
維心は、綺麗に装丁された巻紙を、脇へと置いて維月を呼んだ。維月は、その手を取って維心の横へと座ると、まだ緊張気味に言った。
「あの…弓維に維心様が仰ったように申しました。あの子は、目が開かれたようだと申して…。維心様が仰る通りにしていれば、間違いはないのだと。黎貴様に嫁ぐということも、なので特に抵抗はないようでした。お父様が仰るのだから、と。それで、ご挨拶に来たいと申しております。」
維心は、苦笑したまま言った。
「であろうの。我も悪いのだ、もっと早うにあれを叱責しておれば、ここまで拗れずで収まったやもしれぬのに。主があれを気遣って傍に居るゆえ、何も言えずに来てしもうた。だが、弓維は乳母からしっかりと躾けられ、そのように育っておる。瑤姫もそうであったろう?我がどれだけ完全無欠だと思うておるのか知れぬが、あれらは王は絶対だと教わって育っておるので、我の言う事は間違っていないのだと妄信しておるのよ。」
維月は、頷いた。すっかり忘れていたが、王族の女神は皆、王は絶対で、間違いはないと信じているのだ。
特に維心のような絶対の王の皇女なら、尚更そうだろう。
「前世のことでございましたし、完全に忘れておりましたわ。ですが、その方が幸福なのだろうなと思いました。絶対に信じられる存在が居て、安心して過ごせるのならこれよりの事はありませぬ。ですが維心様、黎貴様がどのような皇子であるのか、よう調べてからにしてくださいませ。あの、二度と辛い思いをさせたくはないのですわ。もし良いかただと確信が無いのでしたら、軍神の誰かにご降嫁をお考えください。瑠維のように、維心様の側近くに置いて頂きたいと思います。」
維月は、まだ維心にわだかまりがあるのか、緊張気味に見上げていたが、それでも必死にそう言った。維心は、息をついて維月の頭を撫でると、頷いた。
「分かっておる。我とてあれがかわいいからの。黎貴の事は、主に目を覚まさせるために申しただけ。軍神が良いと申すなら、誰かに決めて降嫁させようぞ。とにかくは、あれの希望を聞いてみようと思う。ここへ来させよ。あれの話を聞こう。」
維月は、ホッとして頷いた。
「はい、維心様。」
そうして、心配そうに維月について来ていた八重に向かって頷くと、八重は頭を下げて、仕切り布の向こうへと出て行った。
維心は、弓維を待つ間、先ほど脇へ置いた巻物を手に取った。
「ところで、これが出来て参ったのだ。」と、紐を解いた。「主が申しておった、人世の物語を絵師に描かせておったのだ。共に眺めようと思うてな。」
維月は、スルスルと少しだけ広げられた巻物の、美しい絵を見た。
「まあ!これは、私が前にこんなものがあったらと申した、源氏物語の絵巻物を現代風にした…。」
維心は、微笑んで頷いた。
「そうよ。もっと華やかな物が見たいと申しておったであろう。そう申し付けて、描かせておった。後で共に眺めようぞ。本日はもう政務が無いゆえ。」
維月は、目を潤ませた。維心は、維月が務めを怠っていたのに、それでも維月の望みを叶えてやろうとこうして命じてくれていたのだ。
「維心様…私は、維心様にご迷惑をお掛けしておりましたのに。呆れられて、嫌われてしもうたかもと、思うておりましたのに…。」
維月が泣きそうなので、維心は慌てて維月の肩を抱いて自分に寄せた。
「良いのだ。主が何を思うてああであったのか、分かっておったからの。だが、我は王であるし、言わねばならぬこともある。それだけぞ。あのような事で、主に愛想を尽かすと思うてか。そのように気に病むでないぞ。主が我に怯えておるようで、その方が我はつらく思うわ。」
維月は、維心に抱き着いた。
「申し訳ありませぬ。合わせる顔も無いと思うて、ここへ戻るのも気が重かったのですわ。もう、このような事は無いように致します。」
維心は、頷いて維月を抱き寄せた。
「もう良いと申すに。気が付いて改めてくれさえしたら我は良いのよ。これ以上気に病むでない。」
維月は、維心の優しさに涙が溢れて止まらなかった。一年近くも放ったらかしにしていたのに、維心はあれで許してくれるのだ。
維月がそうやって維心に気遣われながら涙を拭いていると、弓維の声がした。
「お父様。ご挨拶に参りました。」
維心は、維月の肩を抱いたまま、扉に向かって言った。
「入るがよい。」
すると、きちんと着物を着替えて公式の姿になった、弓維がしずしずと入って来て、頭を下げた。
維心は、言った。
「母から聞いた。考えを改めたようだの。」
弓維は、顔を上げて答えた。
「はい、長らく申し訳ありませんでした。我は、己に酔っておりました。赤子のことは、確かに残念なことでしたが、あれがかつての高彰様で、分かっていて去られたのだと理解しているはずなのに、長く塞いで…。皆に気遣われることが、心地良かったのだと思います。お母様も、常に側に居てくださいましたし…我はお母様に甘えてまるで赤子のようでした。この上は、お父様が仰る通りに致します。」
維心は、頷いて言った。
「ならば良い。始めは仕方のないことだと我も思うてあったが、あまりに長い。本日、高湊から妃が身籠ったと聞いた時、もう良いだろうと思うたのよ。恐らくは腹の子は高彰。ゆえにの、主はもう、解放されねばならぬのだ。過去は忘れて、己の責務に忠実に生きるがよい。」と、息をついてから、続けた。「して…黎貴との縁談であるが、主は良いと?」
弓維は、頷いた。
「お父様がそうおっしゃるのなら、我はあちらへ参ります。」
維心は、苦笑した。
「我は良いと思うが、しかしあちらが真実どのような神なのか表向きしか知らぬ。ゆえ、もし縁談を進めるのなら、ようよう調べてからにしようと考えておる。しかし主が我の結界内に居たいと望むなら、軍神達の誰かに降嫁しても良い。瑠維はそれで、幸福にやっておる。まずはどちらか選ぶが良い。」
弓維は、戸惑った顔をした。
「え…お父様の良いと思われる通りに。」
どうやらもう、自分が信じられないので決めて欲しいらしい。
維心は、息をついて言った。
「そうであるな、では黎貴であったら、主は恐らく身分柄正妃となろう。しかし、我とは違い、地位のある男というのは複数妃を娶る可能性がある。なので主一人とは限らぬ可能性もあるということぞ。軍神であれば、先に妻が居らぬ限りは恐らく主一人であろう。我への対面があるゆえ、主の後から誰かを娶る事はしないもの。仮に先に妻が居っても、主はやはり身分柄正妻となろうがな。ちなみに軍神の屋敷は宮より遥かに狭いゆえ、他に妻が居るとしょっちゅう顔を合わせる事になろうし、複数の妻でも良いと考えるなら、広い宮を持つ黎貴の方が良いとは思うがの。つまりは、一人が良ければ独身の軍神の誰か、複数でも良いなら黎貴と薦める。まあ、黎貴が主に執着しておる度合いを見て、こちらからの条件で他に妃を娶らぬ事だと申し出て、あちらがそれを受ければ黎貴が一番良いのだろうがな。」
弓維は、じっと怖いほど真剣にその話を聞いている。
維月が、控えめに言った。
「あの…嫁ぐ以外にもお役に立つ方法はあります。あなたは私が教えて、書も美しいですし、お父様に見て頂いて歌も素晴らしいわ。それを、定期的に皆に教えるという、教師の役目もありまする。そちらが良いなら、そちらでも。」
維心は、それに頷いたが、しかし弓維が皆の前で立ち働く様子は想像出来なかった。
思った通り、弓維は首を振った。
「お母様、我は皆の前で何かを教えるなど、とても出来そうにはありませぬ。では…黎貴様が、もし複数の妃を娶られぬでも良いとおっしゃるのなら、我は黎貴様に。お父様とお母様のように、生きたいと願っておりますの。でも、もしも否であるなら、軍神達からお父様がお決めくださいませ。」
維月は気遣わしげな顔をしたが、維心は頷いた。
「ならば調べさせた上で、問題無ければ匡儀にその旨、打診してみようぞ。しかしながらあちらはまだ、かなりの数の妃を娶る風潮があるゆえ、どうなるか分からぬがの。」
確かに匡儀には一人も妃が居ないが、他はかなりの数の妃を持っている。
維月は案じたが、維心は言った。
「では、戻るが良い。経過はまた知らせる。」
弓維は頭を深々と下げて、そしてそこを出て行った。