命がない
維心が奥宮の中に設えられた産所へと飛び込むと、足元に治癒の神達が立ち並ぶ中、維月が必死の顔で弓維の手を握りしめ、気を補充しているのが見えた。
「維月!何としたこと、何があった。」
弓維の顔は真っ青で血の気も引いており、ピクリとも動かない。
維月は、気の補充を止めずに答えた。
「急に気を失ったのですわ。それでなくとも速い、速すぎる進行で、まだ痛みが始まって間もないのに、出口は全開になっており、それは速い速度で子が降りて参って…。どうしたことかと治癒の者達と不思議に思うておったら、弓維が不意に、『ああ命が…!』と呟いて、そして気を失いましたの。一気に失われる気を、治癒のの者達と私で補充して、体は留めておりまする。」
維心は、急いで弓維に手を翳した。弓維…。
しばらくそうやって探るようにしていた維心は、次に腹へと手を翳した。
そして、首を振った。
「弓維は黄泉の道を歩いておる。弓維は恐らく我が引き戻せるが、子は…もう、何も入っておらぬ。」
維月は、驚いて顔を上げた。
「入っておらぬ…?どういう事ですの?」
維心は、息をついた。
「当然、そこにあると思うて探っておらなんだが、弓維の腹の子には命が入っておらぬのだ。このまま生まれても長くは持たぬ。碧黎が言うておったであろう…命が入っていない器は生きられぬと。ここへ生まれようと思う命がおらなんだのだろう。誰も入っておらぬから、それで外へ出すという作業のようになっておるのだ。もしかしたら、弓維はそれを気取ったのではないか。腹の子の命を探そうと、黄泉へ行ってしもうたのやも知れぬ。」
維月は、焦ったように言った。
「そのような!それではあんまりでございます。あれほど子の誕生を待ち望んでおりましたのに…!」
維心は、維月の肩に手を置いた。
「命には選択権があるのだ。誰も強制は出来ぬ。龍として生まれ、しかし立場は皇子ではなく、王である父は心の病で、生まれても不安定な立場になるのは事実。そんなところに生まれ出て、成せる責務が誰も思いつかなんだのだろう。誰も責められぬ。」と、宙に手を翳して、ドンと亀裂を開いた。「弓維を連れ帰る。主はここで気の補充をしておれ。主以上にそれが出来る者は、ここには居らぬ。」
維月は涙を流しながら頷いた。
どうすることも出来ない…命が誰も、ここへ来ようと思ってくれなかったのだ。
維心は、そんな維月を気遣わし気に見てから、亀裂へと飛び込んで行った。
弓維は、暗い道を歩いていた。
さっきまで、宮の産所に居たはずだ。隣りで母が手を握り、進みが早過ぎると案じていた。
弓維は、そこまで思い出して、ハッとした。そうだ、吾子…。
弓維は、自分の腹の子を探して、ここへ来たのだ。
実は、維心は知らなかったが、腹の子は最初から命が無かったわけではなかった。
弓維は確かにそれを感じていて、それが、あの直前にスッと抜けて、これでは無理だ、という男の声が聴こえて、そうして消えて行くのを感じた。
弓維は、その後を追おうと必死に願った…そうしたら、今、ここだった。
「吾子…!」
弓維は、重い足を必死に動かして前へ進もうとした。吾子は、自分を見限ってしまったのかもしれない。こんな母では無理なのだと思ったのかもしれない。だが、良い親になるように努めるから。だから、説得して戻ってもらわねばと。
しかし弓維は、何かに足を取られてその場に倒れた。もう一度立ち上がろうとするが、何かが足に縋っているように纏わりついて、体を起こすことも出来ない。
必死にじたばたともがいていると、聞いた事があるような無いような、男の声が聴こえた。
「無駄よ。」弓維が驚いて顔を上げると、その男は続けた。「主は地に留められておるゆえ。決してあちらへは逝けぬ。」
弓維は、驚いてその顔をまじまじと見た。それは、高瑞によく似た様子の、三十代ぐらいの美しい男だったのだ。
「あなた様は…?我は、吾子を探さねばなりませぬ。我は、良い母親になるように努めると約して、吾子を説得せねばと…。」
相手は、息をついて首を振った。
「諦めるが良い。我が、その主の腹に居った命。」弓維が仰天していると、相手は続けた。「一族の未来を憂いての。記憶を奥深くに秘めて、単純に高瑞の子として産まれたらと思っておったのだが、どうも思っておったのとは違う。腹で我に返って外の様子を伺うと、どうも我は龍に生まれる事になっておるらしい。それではならぬのよ。」
弓維は、立てないので座ったまま必死に言った。
「何がならぬのですか?我が龍だから、吾子は生まれるのが否と?」
相手は、困ったように頷いた。
「母が龍とは思わなんだのよ。それでは、我はあの宮で王座には就かぬだろう?しばらくは、龍でも王族に近いし何とか出来るかと考えたが、どうあってもあの宮を建て直さねばならぬのに、父親の高瑞もあの様子では、離れておっては力になれぬ。ゆえ、一度帰って高湊の子にでもなるかと。そちらを待った方がまだ未来も見えようものぞ。」
弓維は、どう見ても赤子ではなく、恐らくは元は王族の命であったであろうその男を見上げた。そして、はらはらと涙を流した。
「そんな…。吾子を、心待ちにしておりましたのに。我の所へは、来てはくれぬと…。」
男は、気遣うように弓維の頭を撫でた。
「すまぬ。主ほどに美しい母とは思わなんだが、それでなくとも主に不足などないのだ。ただ、我が状況を見誤って器を選んでしもうただけ。他の入りたい者が居ったら譲っても良いのだが、誰も居らぬようだ。此度は諦めるが良い。」
弓維は、ただただ涙を流した。吾子を諦めねばならぬのか…。
すると、聞き慣れた声がした。
「弓維?」
弓維は、ハッと顔を上げた。これは、父の声。
「お父様!」
そこには、いつ見ても美しい父王が立っていた。だが、その目は目の前に居る男の方へと向いている。
そして、父は言った。
「…主…高彰か…?なぜにここに?」
その男は、困ったように微笑した。
「維心殿か。すまぬ、手間をかけてしもうたの。だが、我はもう行くゆえ。」
しかし、維心は首を振った。
「待て、もしかして主、弓維の腹に居ったのか?それで出て参ったと?」
高彰は、仕方なく頷いた。
「高瑞の子ならばと簡単に思うて入ったら、主の娘で我は龍として生まれるのだと知ったのだ。記憶は最初から持って参るつもりでおった。腹で我に返って探ったら、外がそんな様子で驚いた。だが、我は一族の平安を求めておるのよ。龍でも何か出来るかと思うたが、高瑞があの様子では無理ぞ。ゆえ、高湊の方へ転生しようと器から出て参った。それを、主の娘が追って来たのだ。」
維心は、悟っていた。高彰は、高杉の父だ。つまりは、あの宮の王は、高彰、高杉、高司、高晶、高瑞と続いて来ているのだが、曾々祖父となるのだ。
維心は、もちろん前世で高彰のことは知っていた。
高彰は、大変に賢い王で、志心に様子の似た落ち着いた男だった。高杉はあまり高彰に似ておらず、だが皇子が一人だったのでそれを継ぎ、そして高司、高晶、高瑞と来た。この中で一番似ているのは、不思議なことに高瑞だった。
「…そんな理由なら留めることは出来ぬな。高彰よ、残念な事になってしもうた。我としては、高湊がこのまま後を引き継ぐ形にしたいと思うておるのだが、主が転生して来るまで持つと思うか。」
高彰は、深いため息をついた。
「分からぬ。そもそもが高湊は、あまり妃を娶ることに積極的な方ではないしの。いつになるやら分からぬではないか。これの腹から聞いておったが高瑞は病んでおって…今、面倒な事になっておるのは、こちらへ来て見たゆえ分かる。主に任せる。我にはどうしようもないしの。」
維心は、眉を寄せた。もしかして、今ここで高彰に会ってしまったばかりに、あの宮をこれが転生して来るまで持たせねばならなくなったのでは。
維心が答えに困っていると、弓維が割り込んだ。
「高瑞様が面倒とは、何かあったのですか、お父様?高湊様が王座に就かれるなんて…高瑞様は、王座を降りねばならぬほどの事があったのですか?」
維心は、まだ言っていなかったのにと弓維を見た。
「高瑞は、今や狂神となってしもうて、その身の内に持つ瘴気のせいで、周辺の宮も人も難儀しておる状態なのだ。このままでは甚大な被害が出るゆえ、蒼が月の宮へ引き取ってそこで治療と、もし回復せぬとしても籠めて面倒を見ると約してくれたところぞ。なので、高瑞にはもう、主は会う事は出来ぬと思うた方が良い。」
弓維は、ショックでフラフラと地面に臥せった。高彰が、困ったようにそれを見て、言った。
「女の身でつらかろうが、王妃は強くなければならぬ。簡単に臥せっておるようでは、務まらぬものぞ。とはいえ…龍の皇女ではな。」と、維心を見た。「維心殿、我は逝く。さっきはああ言ったが、もし我が戻るまで我が一族を繋いでくれておったなら、我があの宮を何とか立て直そうぞ。それまで、細々とでも良い、残してはくれぬか。それから、高湊には龍ではない妃を無理にでも娶らせて欲しい。次は間違わぬから。」
維心は、高彰の瞳を見つめながら、渋い顔をした。確かに、龍では龍しか生まぬし厄介であろうな。
「…分かった。出来る限りはやるが、高湊次第ぞ。あれが愚かであったら、宮は迷わず廃宮にする。恨むでないぞ。」
高彰は、真剣な顔で頷く。
「感謝する。では、我は逝く。急いで準備をせねばならぬから。器が生じたら、すぐに参る。」
そうして、高彰はサッと身を翻すと、己の門が開いているだろう場所へと駆け出した。
「吾子!待って!」
弓維は、慌てて叫んだが、高彰は振り返ることもなく、そのままその姿は、見えなくなった。
維心は、高彰ならば無理だったろうと、改めて思って弓維を抱き上げると、黄泉の亀裂へと急いだ。
弓維の出産は、死産となったが、親しい宮以外には公表されなかった。