水面下
弓維が龍の宮へと戻り、維心がその婚姻関係を破棄した事実は隠しようもなく神世に知れ渡った。
高瑞が里帰りを渋っていたのは皆が知っていた事だったが、それだけの事で婚姻破棄などおかしい。とはいえ、維心が再三戻すように求めていたにも関わらず、頑なに首を縦に振らずに最後には強制的に迎えを送ったのは皆、気取って知っていた。
何やら朝から高瑞の領地辺りに龍が出入りし、最後には隠しようもない大きな気である維明の気が向かったのも、どこの宮でも見ていなくても気の流れで分かっていたので、そうなってもまだ高瑞がごねていただろうことは、なんとなく皆、想像出来た。
龍王の求めに応じないなど、宮を消されても仕方がないのだが、さすがの龍王もたかが妃の事で宮一つを消すのもと思って婚姻破棄で済ませたと考えたら合点がいった。
なので、皆なんとなく訳は想像出来たが、何も言わなかった。
もちろん、炎嘉や焔などからは、直接に維心に問い合わせがあった。
維心は、また会った時に話す、と言って、書では何も知らせてはいなかった。
高瑞はと言えば、傷も消えて次の日の朝意識も戻ったが、龍王からの婚姻破棄の知らせをその時に知って、狂ったように暴れ回って臣下達は大変な想いをした。その時は、左腕が動かない事にすら気付かないかのようまさだった。
軍神達に囲まれて何とか抑えられた時には、もう廃人のようになっており、そのまま再び治癒の間へと籠めて、おかしなことをしでかさないようにと監視している。
それでも、王であるには変わらなかったので力を持っているので、高湊に頼んで治癒の間一体に結界を張ってもらい、高瑞が外へと勝手に出てしまわないようにと対策を取っていた。
高湊も、臣下軍神が頼めば王の仕事なども淡々とこなしてくれたのだが、以前の高湊のように、回りと雑談をすることもなく、用件が終わるとすぐに自分の部屋の奥へと籠ってしまって出て来なかった。
高瑞があんな状態の今、どうあっても高湊にしっかりしてもらわねばならないのに双方がそんな様子になってしまい、臣下達はこのタイミングで高湊に出生の秘密を打ち明けてしまったことを後悔していた。
幸い龍王は、あれから何もこちらに言っては来ない。
弓維の産む子は確かに高瑞の子だとはいえ、間違いなく龍であり、どちらにしろ龍の宮で育つしかない皇子。
なので、臣下はもう、その件には触れずにおこうと思っていた。
そんなことになっているなど知らず、弓維は出産までの時間を奥宮で穏やかに過ごしていた。
文だけでも届けようかと言う弓維に、維月は思わせ振りにあなたの文など見たら、尚更に寂しくお想いでしょう、と言って、あちらから文が来るまでは待つようにと言い聞かせた。
もちろん、そんなものは来るはずもなく、来たとしても弓維の手に渡る事はない。
何も知らない弓維は、何の疑いもなく維月の話に納得し、あちらに関わる事もなく毎日を過ごしていた。
とはいえ、弓維もまだ迷ってはいた。
子を産んだ後、その子は龍なのでこちらに留め置かれることになる。
いくら多種族に嫁いでいるとはいえ、弓維は自分の子に出来るだけ会いたいと思っていた。
しかし高瑞のあの様子では、帰って来られるとは思えない。
いくら父母が居るとはいえ、弓維は自分の子が母を知らずに育つなど考えたくなかった。
そんな日々の中で、今日は瑠維が宮へと弓維に面会するために戻っていた。
瑠維は軍神に降嫁していて、もちろん相手は龍なので、何の問題もなく子育てしてもう、子は大きい。
全く姿が変わらない兄や父母とは違い、瑠維は緩やかに老いていて、今の姿は母より歳上に見えた。
そんな瑠維は、相変わらずの美しい様で微笑んで言った。
「まあ、もうそのようになるのね。乳母は決まっておるのですか。」
瑠維が言うのに、弓維は答えた。
「はい、お姉様。如月の子がちょうど子に手が離れたところでありまして、我の子の乳母に選定されました。」
瑠維は、頷いた。
「そう。如月の子ならば安心ね。我の子もそういえば、お母様が宮から乳母を遣わせてくださって、我の乳母の娘であったわ。お陰で娘は立派に育ってこの程軍神の一人に嫁いで。」
信頼出来る侍女や乳母は貴重だ。そんなもの達からの繋がりで、王族の乳母や侍女は決まる。珍しい事ではなかった。
「それにしても…あなたにはお戻りになるのが遅かったこと。我など、夫の屋敷が程近いのに、あの方は我を大層案じて早くからお里帰りをとそれは落ち着かなかったものなのに。ごゆっくりなさっておったのですね。」
瑠維は何も知らないので、あっさりと疑問に思っていたことを口にした。
弓維は、下を向いた…やはり、夫は妻の身を案じるものなのだ。
瑠維は、弓維の様子にいけない事を言ってしまったのか、と慌てて言った。
「あら、あの…我はお父様の臣下に降嫁しておるので…。何かあってはお父様に申し訳がと案じたのやも知れませぬ。あなたのように、きちんとした王族の方に嫁いだのではないので…。」
しかし、弓維は首を振った。
「いえ…その通りでありますわ。お父様も、お母様を己の身よりも案じてそれは大切にされますのに。お姉様の夫君のご対応が、正しいのだと思いまする。」
思えば、高瑞は自分のことばかりだったのだ。
確かに重苦しい過去があるので、傷付いているのだろうと弓維は思っていた。なので、出来る限りの癒して差し上げようと里帰りを許さない様にも自分が我慢すればと思っていた。
だが、出産となると話は別だった。
確かにあちらでも無事に産めるのだろうが、龍の自分が龍の治癒の者以上に信頼出来る相手はいない。
最強の父を持つ自分が、出産という一大事にそこへ帰りたいという気持ちを、分かって欲しかった。
高瑞は、弓維の事より自分の事の方が大切だったのだ。
それが分かって、弓維は静かに涙を流した。そうだ、自分が想うほどに、あのかたは我を想ってはくださっていない…。
瑠維は、それを見て慌てたような顔をした。
「まあ弓維?」と、侍女に言った。「誰かある。お母様にこちらへいらしてくださるようにお願いを。弓維のお側にと。」
侍女が、仕切り布の向こうで慌てて出て行ったのを感じた。
弓維は、そのまま瑠維に背を撫でられながら、今知った事実を受け止めていた。
その頃、維心は炎嘉の訪問を受けていた。
会合が来月なのだが、そこまで待っては居られなかったのか、急に来ると言って、来訪したのだ。
維月は、瑠維が弓維に会いに来るから菓子でもと、台盤所へ朝から引き籠っていて、ここにはいない。今頃は、維月の好きなタルトでも完成させて喜んでいる頃だろう。
炎嘉は、少し離れてから見ると、相変わらず華やかで美しい姿だった。
維心は維月がここへ菓子を持って来たら面倒だな、と思いながら炎嘉を見た。
「座れ。書で残るのもと思うて会ったら話すと申したが、それほど急ぐものでもないであろうが。もう終わったと思うてあちらには何も言うておらぬ。高瑞のことであろう?」
炎嘉は、維心の前にどっかりと座ると、憮然として答えた。
「終わっておらぬわ。主、あちらの宮の事を何も知らぬであろうが。我は前にも言うたが炎耀の妃の千子の繋がりで聴こえて来ることがあるのだ。高瑞の腕を落とさせたそうだの。」
維心は、渋々頷いた。
「維明が命じて義心がの。わざわざ繋がるように綺麗に斬ったというておった。だが知っておるだろうが、義心が斬って完全には治らぬ。我が龍が治療するなら別であるがな。」
炎嘉は、はあと息をついた。
「まあ、維明に掴みかかったらしいゆえそれぐらいで済ませたのは主にしては軽い方だが、高瑞はあの後、意識を取り戻して主からの離縁の宣告を知って暴れ回り、放心状態になって誰の呼びかけにも答えぬようになって、治癒の間で高湊の結界の中に籠められて監視されておる状態ぞ。高湊は高湊で、主の沙汰が甘いので、もしかして他に思惑がと案じておったから、臣下が龍王が高瑞の過去を知っているからではないかと説明して、己の出生の秘密を知ってしもうた。罪人の子だと、此度の事が己のせいだと思い悩んでおるようぞ。」
維心は、そんな事になっていたのかと眉を寄せた。王は絶対が世の常なので、確かに腕を落とす事で譲位が起こるかもしれないとは思ってはいた。
実際、高湊は成人しているし、王座に就くのは問題はない。高瑞の子とはいえ、歳があり得ないほど近接しているので、それでも良いと思ったのだ。
高瑞は出来た王だったが、心に闇を抱えていて、何かあった時には脆いという事が今度の事で分かった。
他の宮から妃をもらっていて、そこと同じようにもめているなら維心も関知しないが、この龍の宮の皇女である弓維をそんな風に扱う事を、維心は黙っていることなど出来なかった。
世の王とか何とかいうことよりも、ただ自分の娘の事を案じるからに他ならなかった。
あちらからしたら、舅がたまたま世を治めるような王であっただけで、こんな面倒な事になってしまったのだ。
とはいえ、維心は今回世の王としての沙汰を下したわけではない。
炎嘉も軽いと言う沙汰で済ませたのは、維心の配慮であった。
「…我が娘の扱いの不当さと、第一皇子への無礼に対してあの程度で済ませてやったのだからその後の事まで我は責任は持たぬわ。主も薄々聞いておるだろうが、あれは弓維が出て来ておるのにまだ強引に奥へと連れ去ろうとしておったそうな。義心と維明を前に、そんな事が成せるはずなどあるまいに。我が命じた通り、あれは弓維を取り返して連れ戻った。あまりに頑な過ぎて奇異な対応に、そんな男に娘は任せられぬと婚姻を破棄した。それだけぞ。我が悪いか。」
炎嘉は、うんざりとしたように顔をしかめた。
「別に主を責めておるのではない。だが、あの宮をどうするつもりなのよ。あのまま放って置いてはあの宮は立ち行かぬようになろう。王が不在なのだ。それでなくとも高司、高晶とおかしなことになり、やっと高瑞で落ち着きそうになったところでこの事態。このままでは生殺しになろう。序列上から二番目の宮であるのに、消滅の危機に瀕しておるのだ。」
維心は、眉を寄せてそれを聞いていた。他の宮ならば維心も訳を聞いて手を回すのだが、今回は弓維絡みでいざこざがあり、こちらと確執がある宮なのだ。こちらから何某か働きかけなど出来ない。
「…我には此度ばかりは何も出来ぬぞ。だからといって、高瑞にまた弓維を任せるなど出来ぬ。あれは病んでおるのだ。病的に弓維に固執してあれの心情も、体の事も気遣う余裕がない。幼い頃から張り詰めておった精神が、弓維が居る事で解放されておったらしく、己の心のために弓維をまるで監禁ぞ。許すことは出来ぬ。」
炎嘉は、渋い顔をしながらそれを聞いていたが、頷いた。
「そうよな。主にはどうにも出来ぬし、あれの病的な固執は我らも見ておるから分かる。それに、維明まで行ってその様なのだろう。だが、その心の病もあれのせいではないし、常は良い王であった。それだけに、惜しまれるのよ。このまま廃宮にすることも出来ぬし、軍神の誰かを王に据えて格を下げるのも気が咎める。ならば…やはり、高湊か。あれの方が幾らかマシだろう。病んでおるほどではないようで、臣下に頼まれたら政務の判断もしておるようだ。ただ、奥に籠りがちなだけで。」
維心は、仕方なく頷いた。
「我が何某か出来ぬが、あの宮を救うためなら影から手を貸そう。確かに此度のこと以外では、高瑞は良い王だった。だが、心の病など抱えたまま王にはなれぬ。高湊には心に重いことであろうが、ここはなんとか癒す方法を考えて、あれを王座へ。高瑞の腕は、心の病が治れば我が龍に治療させても良い。そうすれば、王座に返り咲くことも出来ようし。」
炎嘉は、ふうと肩で息をついた。
「本当はの、高瑞の腕を治療して弓維を戻してやれと言いたいところだったのだ。だが、さすがに宮に監禁状態とは哀れよ。ましてこのようにしっかりした実家があるのに、帰ることもままならぬなど無理強い出来ぬ。我が娘であったらと思うたら否であるしな。ゆえ、我が何とかするわ。とりあえず高湊であるが、それは蒼に頼もうかの。癒しというたらあの宮を越える治療が出来る場は無かろう。」
維心は、首を傾げた。
「蒼か。いや…十六夜に申すしかないかもしれぬの。蒼自身は癒しの効力はないゆえ、宮へ預かって宮の気で治すという形しか出来ぬ。心の病の神ばかりを受け入れておったら、あれも大層であろうし。」
炎嘉は、顔をしかめた。
「何も高瑞を癒せと言うておるわけではないし。だが、確かにの。高湊の事は十六夜に頼んでみようぞ。高瑞は…今思うたが、月の宮へ預けた方が良いのでは。あれは根が深いゆえ、あの宮の気を常に受けておったら戻った参るのではないか。」
維心は、炎嘉に呆れたように言った。
「だから今申した。蒼に面倒ばかりを押し付けるでない。とはいえ、主の申す通り、根が深い心の病はあの宮ぐらいでなければ治療は難しいかもしれぬ。だが、蒼が渋ったらやめておけ。あれはいつも誰かを気遣っておるから。」
炎嘉は頷いて、立ち上がろうとした。
するとそこへ、侍女が入って来て、頭を下げた。
「王。王妃様からこの菓子をお届けするようにとのことです。」
侍女は、盆の上に茶とタルトを二つずつ置いて、頭を下げる。
維心は、いつもなら自分には維月本人が持って来るのに、と少し驚いて侍女に言った。
「あれが持ってこなんだのか。」
侍女は答えた。
「はい、王妃様には瑠維様が弓維様のお傍にと、急ぎお呼びであるからとかで。こちらに炎嘉様もいらしておるのをご存知になって、お二人にお出しするようにと仰せつかりました。」
弓維に何かあったか。
維心は気になったが、炎嘉が暗い顔から一転、嬉し気に言った。
「お、維月が作ったのか?ならば食してから帰るかの。そういえば、果実酒を殊の外気に入ったようで、あれから礼の文が来たゆえ我が醸造の鳥達も報われる思いだと喜んでおったわ。あれは書をさらに良くしておったなあ。艶が出ておったわ。」
維心は、目の前にテーブルをセッティングする侍女達を見ながら、ブスッとした顔をした。確かに維月は、炎嘉が持って来たレモンの果実酒をそれは気に入って、あの瓶一本はすぐに飲んでしまい、もっと送ってもらおうと、炎嘉に礼の文を書いていた。そうして炎嘉から大量の果実酒を送ってもらい、それは喜んで、また礼にと炎嘉の着物を仕立てたりしていた。
それも、手ずからだ。
それが気に入らず、細かい所に気が付く炎嘉に負けた気がして、維心も醸造の龍に命じて何としてもあれより良い果実酒をと、発破をかけている始末だった。
「…艶とて我が教えておるからの。書の腕も上がろうほどに。とはいえ、維月が縫った着物は本日着て来ておらぬではないか。」
炎嘉は、タルトを口へと運びながら、フフンと笑った。
「何ぞ?嫉妬か。あれはもったいのうて軽々しく着られぬのだ。とはいえ、月の気がする珍しい着物だということで、居間に飾っておるのよ。主だって維月が作った根付けだの、襦袢だのを持っておるくせに。着物は主の龍が縫ってしまうゆえ、己では縫えぬと維月は言うておったの、そういえば。」
維心は、フンと横を向いた。
「龍王が着る着物を仕立てるにはまだ未熟だからとか申しておった。だが、最近は仕立ての龍に教わって、我の着物が一着でも縫えるようにと励んでおるわ。」
炎嘉は、恍惚とした顔をしながらタルトを堪能し、言った。
「どうせ縫い目が一つでも違ったらとかそんな厳しい事を申すのだろう、こちらは。あちらはそうではないからの。我はそこまでうるそうないし、維月が着物を縫う鍛錬をしておると申すから、ならば我の物を礼に縫ってくれと申した。それだけぞ。」と、茶を口にした。「ま、主は上手くやっておるのだから良いではないか。それより、高瑞と高湊ぞ。我が何とか道筋を作って、また報告する。」
維心は、我が厳しい事を申しておるのではないわ、と思いながらも、自分も維月の作ったタルトを味わって、しばし癒されていた。