里帰り
弓維は、困っていた。
腹はもう大きくせり出て、まだ産み月ではないのは知っていたが、今にも産気付くのではと毎日不安にしていた。
それなのに高瑞は、臣下からの里へと帰る日取りの打診にものらりくらりと返事をせず、いつ帰れるのかも分からない。
さすがに初めての出産なので、母の側に居たかった。
早くから里帰りして出産することは決まっていたのだから、本当なら今ごろは里で生まれた後のことなどを母に相談したりして、穏やかに過ごしているはずだったのだ。
大会合の日に帰ることになるのだろうと期待していたのだが、高瑞はあちらにも何も申していないので突然連れ帰っては非礼だと言って連れて行ってはくれなかった。
ほとほと困っていた時に、大会合から戻って来た高瑞が、先触れもそこそこに居間へと駆け込んで来て、言った。
「龍の軍神がどうしてもついて参ると聞かずで。維心殿には連れ帰れと命じてあれらを寄越したのだ。」
弓維は、父が迎えを寄越してくれたのかと顔を明るくした。
「まあ、お父様が我の迎えを?」
嬉しそうな弓維に、高瑞は咎めるような目をして言った。
「こんな突然に押し掛けて来てなどおかしいであろう。あれらにはまだ準備が整わぬと一旦帰し、改めて戻ると申せば良いぞ。」
弓維は、戸惑う顔をした。
「え…ですが侍女達がもう何ヵ月も前から準備は終わらせておりますので、問題ないかと思うのですが。」
高瑞は、首を振った。
「まだ早いわ。それに天下の龍の宮が非礼であろう。先触れもなくいきなりに我と共に来るなど。主とて気持ちが整わぬのに。」
弓維は、首を振り返した。
「戻る心積りは出来ております。初めての出産なので、不安に思うておりました。母とも話したいと思っておりますし、我は父が迎えを寄越してくれたのなら、このまま戻りたいと思いますわ。」
それでも、高瑞は首を縦に振らなかった。
「まだ許さぬ!主は我の妃なのだぞ。王の許し無く奥を出るのが許されないことは分かっておろう!もう良い、我が申して来る。」
高瑞は、今入ってきたばかりの扉へと足を向ける。弓維は、慌てて言った。
「王、そろそろ戻らねばいつお子が生まれようとするか分からぬのでございます!」
だが、高瑞は振り返りもせずそこを出て行った。
…どうしよう…もしかしたら、王は我を帰してくださらないおつもりなのでは…。
弓維は、更に不安になって来て、脇から出て来た乳母を見た。乳母は、弓維を気遣うようにその手を握った。
「あまりにもわがままなご様子でありまする。弓維様には、不安なお気持ちをお持ちでも毎日仕えておられるのに。王妃様に、我から密かに御文を。弓維様、ご案じなさいますな。」
弓維は頷いたが、どうなってしまうのだろうと気持ちが騒いで仕方がなかった。
高瑞は、膝をついて待つ帝羽の前に戻って来た。帝羽は、眉を寄せた…弓維様が居らぬ。
「今弓維に知らせたが、急なことで準備が間に合わぬようぞ。ここは一度帰るが良い。改めてこちらからお送りすると維心殿には伝えて欲しい。」
しかし、帝羽は答えた。
「連れ帰れという命を受けておりまする。ご準備の間お待ち致しますとお伝えくだされば。」
高瑞は、イライラと言った。
「王妃の準備が簡単に終わると思うてか。改めて参ると申しておろうが!」
しかし、帝羽は首を振った。
「幾日でもお待ち致しまする。我が王からの命は絶対でございますので。それに、弓維様さえお戻りならば、あちらで全てご用意出来まする。殊更に何かをご準備なさるご必要はないかと。」
ここで用意出来るものは、あちらで全て揃えられるのだ。あの宮に、ここにあって無い物などなかった。
「軍神の分際で帰れと申す我の命が聞けぬと申すか。」
帝羽は答えた。
「我の王は龍王維心様であられるので、他の王の命には従いませぬ。どうしてもと申されるなら、一人帰して我が王の下知を賜ります。」
帝羽が振り返って、後ろに控える明蓮に頷き掛けると、明蓮は帝羽に頭を下げて立ち上がった。
高瑞は、慌てて言った。
「そのようなことをわざわざ聞く必要はない。我の許し無くこの宮の中に居れると思うのかと問うておるのだ!」
帝羽は、立ち上がった。
「ならば、外でお待ち致します。何度も申し上げますが、我が王から弓維様を連れ帰れと命を受けておりまする。それを違えることは出来ませぬ。弓維様には、外でお待ちしておる旨をお伝えを。」
帝羽は、皆に頷き掛けると、他の軍神と共にスッと輿を持ち上げてそこから飛び立って行った。
高瑞は、歯ぎしりした…どうあっても、弓維を連れて帰ると言うか…!
維心は、居間で一人戻って来た、明蓮から事の次第を聞いていた。
維月が横で、困惑した顔で黙り込んでいる。
維心は、険しい顔で言った。
「…あやつ、我に逆らうか。高晶のことで分かっておると思うたのに。回りが見えておらぬと見える。」
明蓮は、神妙な顔で頷いた。
「は…。何やら頑ななご様子でございました。弓維様が案じられます。」
維月が、言った。
「維心様、これはあんまりなことでございます。弓維も不安でありましょうに…このようなことがあっては、体調も悪くなるのではと案じられますわ。」
維心は、ギリギリと歯を食い縛っていたが、言った。
「…維明に行かせよ。あれにこれが最後通告だと言わせるのだ。甲冑を着て、義心を連れて行かせよ。後は事態を悟ってあれが上手くやろう。それでもとなれば、こちらも考えがある。事は弓維云々のことではないとの。」
明蓮は、頭を下げた。
「は!」
そうして、そこを出て行った。
入れ替わりに、侍女が文箱を手に入ってきた。
「王妃様。弓維様の乳母の如月から御文が参っておりまする。」
維月は、慌てて言った。
「まあ、これへ。」
維心も、黙ってその様子を見ている。維月は、侍女から渡された文箱の紐を解くのももどかしい様で、それを開いた。
中には、弓維が帰りたいと再三言っているのに、許さない高瑞の行いの数々が面々と書き連ねてあった。
此度のことも、父が迎えを寄越してくれたとそれは嬉しそうだったのに、まだ早いと取りつく島もない様子だったとか。
急いだのか、いつもそれは美しい文字の如月の文字が、逸るように乱れていた。
横からそれを覗き込んでいた維心は、イライラと言った。
「あやつは…我が娘を返さぬつもりか。永遠にと申しておるのではない。出産の間だけのことであろう。」
維月は、袖で口を押さえながら、言った。
「これでは監禁でありますわ。いくらなんでも酷い扱いかと。あまりに頑ななご様子ですわ。」
維心は、弓維を案じる維月の肩を、いたわるように抱いた。
「何にしろ必ず戻す。話はそれからぞ。一生里帰りをせぬ妃も居るぐらいであるから、別に何某か申すつもりもなかったが、あまりにも目に余る。まして我の娘ぞ。父親の龍王の我が返せと申しておるのに、この強硬な様子には我慢がならぬ。あまりにも我を甘く見ておる。ここは維明に連れ帰らせて、それから考えようぞ。弓維次第ではあるが、もうあれに弓維を任せてはおけぬやもしれぬ。」
事が大きくなりそうだ。
維心は、ここまで渋る高瑞に、狂気染みたものを感じ始めていた。
昼も近くなって来ていた。
未だ高瑞の軍神は何も言っては来ないが、結界脇にじっと待機する龍の軍神達に落ち着かぬ様子だった。
帝羽は、高瑞のあまりに頑な様子に、何か別に理由があるのかと勘繰っていた。とはいえ、高晶の妃を巡っての面倒は記憶に新しいはずで、高瑞は穏やかで賢明な王のはずだった。
じっと考え込む帝羽の耳に、王そっくりの声が響いた。
「まだ何も言うては来ぬか?」
驚いて振り返ると、そこには義心と明蓮、そして甲冑姿の維明が浮いてこちらを見ていた。
帝羽は驚いて空中で膝をついた。
「維明様!は、未だ何も。」
維明の到着を気取った高瑞の軍神達が、慌てた様子で飛び回り、宮へ、こちらへと飛んで来るのが見える。
維明は、焦って寄って来る高瑞の軍神を見つめながら、言った。
「とにかくは参るぞ。父上が我を寄越された事で、少しは事態を気取れば良いがの。」
帝羽は頷き、義心を見た。義心も、険しい顔で帝羽を見て軽く目で頷く。
まさかこんな事で、宮同士の諍いなどに発展せぬだろうな、と帝羽はうんざりした気持ちで維明が軍神達に案内される、後ろから飛んで行ったのだった。