父王
黄泉の門は、皆が何度か見ているのだが、長方形の扉のような大きさのものだった。
あちら側は明るく靄が立ち込めていて、一寸先も見通せない。
それでも光が満ち、安心するような空間だった。
「これが…?」
維心は、頷く。
「黄泉の門。あちら側は黄泉。生者は足を踏み入れる事は出来ぬ。そして、黄泉へと行った後も、己の門でなければくぐることは出来ぬ。これは、誰の門でもなく、ただ我がこちらから呼ぶ時のみ開く門であるのだ。」
レオニートは、初めて見る門に、恐る恐る近付いた。そして、中を覗くが、誰も居ない。どうしたものかと思っていると、維心は言った。
「そのように立っておるだけでは来ぬぞ。そこから、主が呼ぶのだ。主の父王をな。」
レオニートは、驚いて門を見つめた。ここへ向かって、自分で呼ぶのか。
「ち…」レオニートは、少しためらった後、叫んだ。「父上ー!」
その声に、親を呼ぶ声を感じて、維月が薄っすらと涙ぐんだ。自分も親なので、子がこんな風に呼んでいると思ったら、居ても立ってもいられないだろう。
しばらく沈黙が流れる。
門の向こうには、誰も居なかった。
「…力が足りぬのやも。」炎嘉が、それを見ていて言った。「結構な力が要るのだ。それに、技術もな。維心ぐらい気を持っておったら平気だろうが、我など到着した時点で青息吐息であったわ。それなのに、しょっちゅう呼びよってからに。」
維心は、炎嘉をチラと見た。
「青息吐息?文句を言うだけ言うておったくせに。元気であったわ。」と、黄泉の門の中を必死に覗く、レオニートの背を見た。「これの父なら箔炎ぐらいは気があるだろう。来られるはずぞ。」
と、足を進めた。そして、門に向き直って、険しい顔をした。
「レヴォーヴナ。参れ。」
維心の声は、腹に力の入った、結構な気を込めたものだった。
レオニートは、それを横に見て、目を丸くした。そうやって呼ばなければならなかったのか。だが、とてもそこまで気を込めるのは無理なのだが。
そう思っていると、遥か遠くから何かが見えて、気が付くと目の前に、ゆらりと気が立ち上ったかと思うと、レオニートがもっと育ったらなるだろう姿にそっくりの、男が一人、立ってこちらを見ていた。
「父上!」
レオニートは、門に取り付こうとして、何か透明の膜のようなものに阻まれてそれが出来なかった。杏奈も、慌てて飛んで来てその姿を見上げた。
「お父様…!」
声を詰まらせている。
あちらへ行けば皆若いのだが、しかしレヴォーヴナは恐らく、この姿で亡くなったのだと思われた。
『龍王殿。』その男は、言った。『感謝し申す。主の気を頼りにこちらへ迷わず参れた。レオニートの声は聞こえていたが、場所が分からずで迷っておったのだ。我がレヴォーヴナ、コンドルの王であった者ぞ。』
維心は、会釈した。
「我が討ったやもしれぬと思い、せめてと主の子らに会う機会を与えようと思うて呼んだ。主もこの際であるから、言いたかったことがあれば申すが良いぞ。」
レヴォーヴナは頷き、レオニートと杏奈の二人を見た。
『主らには誠に苦労を掛けてしもうたの。しかし、あちらから見ておった。レオニートは己の力で同族と交流を始め、そうして助けられて城を守れる体制を作った。アンゲリーナ、主はこの、月の宮という桃源郷に嫁ぐ事が出来、生涯安泰ぞ。我は、誠に安堵しておるのだ。』と、後ろに立って見ている、蒼を見た。『蒼殿。初めてお目にかかる。主が我の代わりにという心地でアンゲリーナを娶ってくれたことは知っておる。誠に感謝し申す。もしや政略の道具になるのではと気が気でなかったが、こうなれば我がコンドルの未来も明るい。我は、もっと早くにこちらの同族と交流しておればよかったのだ。いつなり出来ると、そればかりで先延ばしにしてしもうたばかりに、このような事に。』
箔炎が、言った。
「水臭いではないか、レヴォーヴナ。我は箔炎、鷹の王ぞ。我ら同族であったのに、戦の折、申してくれておったなら、我らが手助けをしたのに。主は出撃せずで良かったやもしれぬ。そのように若い身空で…惜しい事よ。」
レヴォーヴナは、苦笑した。
『誠にの。己の城の領地内で心地よく我らだけで生きておるのに慣れてしもうて、なかなかに外へ出る心地になれぬで。戦になったといきなりに助けてくれなど、虫が良過ぎると思うて、声を掛けることもできなんだ。だが、主らが助けてくれておるから、我は安心ぞ。』と、レオニートを見た。『レオニート。』
レオニートは、じっとそんなやり取りを聞きながら、半ば放心状態だったが、ハッと顔を上げる。レヴォーヴナは続けた。
『主はよう頑張った。何も分からぬのにあちこちから助けを受けて、最後には同族に渡りをつけた。これらは主を助けてくれる。主はよう、我ならどうするのかと考えておるが、我は間違ったゆえ命を落としたのだ。我になど倣うでない。主は主のやり方を模索するのだ。』
レオニートは、驚いて父を見上げた。
「…知っておられたか。」
レヴォーヴナは頷いた。
『見ておるからの。あちらで水鏡を作れば大抵のことは見えるのだ。主らがまだ幼かったゆえ、どうなるかと案じてずっと見ておったのだ。だが、もう案じる事もない。』
レオニートは、父を潤んだ瞳で見上げた。
「父上…。」
レヴォーヴナは、苦笑した。
『誠に大きくなったものよ。成人まであと少し。我が王座に就いたのは、250の時であったしな。主にはまだ時がある。精進せよ。』
蒼は、あ、と急いで侍女に申しつけ、レヴォーヴナを見た。
「レヴォーヴナ殿、主の孫が。本日はその、披露目で皆、内々だけ集まってくれておったのだ。納弥と申す子ぞ。」
乳母が、急ぎと聞いて慌てて駆け込んで来た。杏奈が、納弥を乳母から受け取り、スススと門へと近付くと、レヴォーヴナに赤子を見せた。
「お父様、我が生んだ子、納弥ですの。お父様の孫でございます。コンドルでありました。」
レヴォーヴナは、目を細めてそれを見た。そうして、微笑んで頷いた。
『イリヤ。良い名よ。そうか孫か。あの頃には思いもせなんだがの。主も、母になったか。』
杏奈は、涙を流して頷いた。
「はい。我は只今、幸福でありますわ。とても、こちらの気が清浄で柔らかく、このような場所があるのかと思うたぐらい。我は誠に幸運でありました。」
レヴォーヴナは、頷く。あちらから見ていて、それはとっくに知っているのだろう。
維心が、後ろから言った。
「…レヴォーヴナ、聞きたい事がある。」レヴォーヴナは、維心を見る。維心は続けた。「ドラゴンぞ。あちらでヴァルラムには会ったか。」
レヴォーヴナは、首を振った。
『いいや。我が来た時にはもう居らぬようであったな。こちらに数千年休んでおる命もあるぐらいであるし、そう急がずともと止めたのだが、戻らねばと言って、戻ったと回りから聞いておる。なので、我は顔を見ておらぬのだ。しかし、ミハイル殿とは会った。喧嘩っ早い皇子であったから、何かしたのだろうなと思うたのだが。』
維心は、頷く。
「そうか。ならば良い。」
炎嘉が、脇から言った。
「何が良いのだ。という事はヴァルラムが転生しておるのだろう?」
維心は、チラと炎嘉を見た。
「恐らくはな。ヴェネジクトがそうではないかと思うておって。あれのやり方、若い頃のヴァルラムとよう似ておるのだ。我はあちらの歴史も知っておるから分かる事であるが。」
レヴォーヴナは、眉を寄せて案じるような顔をした。
『…ならば、また戦国に?』
維心は、レヴォーヴナを見て、首を振った。
「そうはならぬ。今はコンドルがあちらで一の城ぞ。誰も手出しは出来ぬ。今戦などしたら結局コンドルが全て押さえてすぐに終わる上、元凶であるドラゴンは消される。知っておるからそんなことはせぬだろう。ただ、これからの事よ。あれのやり方を知っておった方がこちらもやりやすい。あれがヴァルラムと申すなら、こちらとしては幸運ぞ。我は、ヴァルラムのやり方を知っておる。」
それを聞いて、思っていたより維心はずっとヴェネジクトを観察して考えていたのだと皆、思った。
だからこそ、蒼が杏奈を娶ると言った時も、あちらの動きを的確にすぐに読み、炎嘉も気付かなかった事に気付いた。
今レヴォーヴナに聞いたのは、確認の意味だったのだ。
皆が黙り込んでいる中、炎嘉が沈黙を破って言った。
「面白うないのう。これだからこやつは何でも見通しおって。」炎嘉は、ニッと笑った。「だが、それだからこそ主に任せられる。ま、ならばあれはこれから主に手の内を読まれて先手を取られて参るのだろうて。」
しかし、維心は首を振った。
「そればかりではないわ。新しい手を使って参ったら読めぬやもしれぬ。だが、知力であるなら負けはせぬ。戦にはせぬから、安心しておれば良いぞ、レヴォーヴナ。」
レヴォーヴナは、門の向こうで頭を下げた。そうするよりない状況だからだ。自分はもう死んでいて、こちらに手出しは出来ないのだ。
「…さて。酒でも持って来させるか、蒼よ。せっかくレヴォーヴナが来ておるのだ。酒は通るゆえ、門の向こうに投げてやれば良い。」
炎嘉が言う。
蒼は頷いて、慌てて酒の準備をさせたのだった。