婚姻
アンゲリーナは、もう寝る準備を整えて寝台へ入ろうとしていたところだったようだ。
土地は離れているのだが、コンドルの領地と月の宮のある場所との時差はほとんどない。
なのに、そんな夜になって蒼が来たと聞いて、アンゲリーナは驚いて、化粧も何も無いまま、慌てて出て来て頭を下げた。
「蒼様…。あの、このような恰好で申し訳ありませぬ。ええっと、王…?」
アンゲリーナは、困ったようにレオニートを見る。レオニートは、単刀直入に言った。
「姉上、夕刻に話したのだが、姉上は蒼殿に嫁ごうと思うておるな?」
アンゲリーナは、頷いた。
「ええ。あの、はい。」
レオニートは、更に言った。
「ヴェネジクトには嫁ぎとうないの?」
アンゲリーナは、驚いて慌てて首を振った。
「なぜにドラゴンに。王にも嫌がらせをしておるのに、我などあちらも否でありましょう。我だって、そんな城へなど行きたくありませぬ。」
レオニートは頷いて、言った。
「ならば、今夜蒼殿と婚姻を。」アンゲリーナは、仰天して口を両手で押えた。レオニートは続けた。「蒼殿が月の王であるから、我らが縁続きになったらあちらには不都合なのだ。それを阻止しようと、和睦だなんだと申して姉上に婚姻を申し入れて来るやもしれぬ。いや、恐らく申し入れて参る。我は戦を避けるため、そうなったら断ることが出来ぬのだ。蒼殿は、それを懸念してわざわざこんな時間になってまで、月から来てくださったのだ。姉上、この上は覚悟を決めて、どうしても蒼殿の所へ参って幸福になりたいのなら、今夜婚姻を済ませて、それから告示した方が良いのだ!」
アンゲリーナは、突然の事に話が頭に入って来なかった。だが、蒼に嫁ぎたければ、今夜でなければ無理なのだということ。そうでなければドラゴン城に行かねばならぬということなのだとは、理解出来た。
「それは…それは蒼様に嫁ぎたいです!絶対にヴェネジクト様の所へ参るのは嫌ですから!」
レオニートは、何度も頷いた。
「分かっておるから。とにかく、急で準備もままならぬが、婚姻などそんなもの。とにかくは、今夜婚姻を済ませて、何なら明日にでも月の宮へ連れて参ってもらったら良い!後から侍女やら調度は送るゆえ、そうせよ!」
いきなりだったので、侍女達もおろおろしているが、しかしアンゲリーナは段々冷静になって来た。蒼様が良い。ならば、今夜であろうと数か月後であろうと、同じなのだ。嫁げない方が大変だ。
「…分かりました!」アンゲリーナは、意を決して言った。「私は今夜、蒼様に嫁ぎます!」
かなりはしたない事を言っているのだが、そこに居る四人は、一斉に頷いた。
「では、それで。」と、レオニートは、蒼を振り返った。「では、姉上をよろしくお頼み申す。我らは戻るゆえ。」
レオニートは、炎耀と箔真を見た。二人は、真剣な顔でレオニートに頷き、レオニートもそれに頷き返した。
そうして、三人が出て行った。
取り残された蒼とアンゲリーナは、どうしたものかと立ち尽くしていたが、侍女達が慌てて言った。
「では、アンゲリーナ様、蒼様、こちらへ。寝台はご準備が整わずあいにく狭いのですが、お二人がお休みになるぐらいなら大丈夫かと。」
蒼は、頷いてアンゲリーナの手を取った。アンゲリーナは、急にこれから婚姻なのかと緊張し始めて、カチコチに固まってしまっていたが、蒼はそんなアンゲリーナを連れて、とにかく助けてやらねばと、甘い気持ちなど全く無く、侍女についてアンゲリーナの寝室へと入ったのだった。
次の日の朝遅く、維心は蒼から、無事にアンゲリーナを連れて戻ったと連絡を受けた。
娶るだけでも良かったのだが、連れて戻ったとなるとますます手を出せないので、蒼にしたらかなり急いて頑張った動きだったが、維心はそれでホッとした。これで、ドラゴンは動きようがあるまいの。
維心がそう思っていると、維月が窓際で空を見上げて何やら話している。
そちらへ意識を向けると、十六夜と話しているようだった。
《…でさ、アンゲリーナと話し合って、こっちへ来るから名前が長いってんで、蒼は杏奈って名前を付けてやったらしい。そんなわけで、アンゲリーナは今、杏奈なんだよ。》
維月は、袖で口を押えて微笑んで答えた。
「まあ、良い名前ね。私も覚えやすいし、元の名前に近いから良いじゃない。」
十六夜は答えた。
《そうなんだよな。あっちにしてもある名前らしくて、杏奈も気に入ったらしい。で、月の宮へ来て、気があんまり清浄だから、涙を流して喜んでた。まさかコンドル城の他に、あんなに気が穏やかな場所があるなんて思わなかったってさ。》
維月は、それにも笑顔で答える。
「そうね。あの土地に入ったらみんなそう言うものね。私も次の里帰りでお会いするのが楽しみだわ。蒼はどう?幸せそう?」
十六夜は、笑って答えた。
《ハハハ、そうなんだよ、蒼が嬉しそうなんだよな。杏奈が結構気に入ったみたいで、帰ってからも宮の中をいろいろ見せて回ってた。そんで、日本語が難しいみたいだから、毎日教えるんだってさ。》
維月は、それは何よりだと思い、満足げに頷いた。
「良かったこと。これで、杏奈殿の御父上様も喜んでくださっておったら良いのだけれど。」
そこまで言うと、後ろから維心が言った。
「では、聞いてみるか?」
驚いて維心を振り返ると、維心は続けた。
「恐らく、箔炎と同じだけ気を持っておるとしたら、門まで来られるはず。呼べば参るのではないかの。問題は、我を知らぬから我からの呼びかけで来るかどうかであるが。」
十六夜が、言った。
《でもさ、だったらレオニートにも杏奈にも会わせてやりてぇよな。一度呼んだら四年ほど呼べねぇって聞いてるぞ。門開くなら、あいつらが居るとこでやってやったらどうだ?》
維心は、もっともだと頷く。
「そうであるな。あれらが呼べば来るであろうしの。まあ、人では無いのだから神は何年経っても『個』が残る。急ぐ必要はあるまい。」
維月は、首を傾げた。
個が残る?
「…維心様、それだと人が『個』を失くすようでありますわ。」
維心は、頷く。
「その通りよ。主は知らなんだか?…人はの、そう長い間、あちらで『個』を保っていられぬのだ。数十年といったところか…百年は無理かの。我ら神はこのまま転生するが、人は違う。それが、転生のシステムというものよ。」
十六夜が、怪訝な声で言った。
《でもさ…オレが代々守ってた月の女達は人だったが、あっちに残ってたぞ?どういうことだ。》
維心は、苦笑した。
「我とて全てを知るわけではない。主らのように月と接して生きた者達は、少し違うのやもしれぬの。人だとて、神や月と接しておったら命が変わる。それゆえやもしれぬな。」
維月は、維心を見上げて言った。
「ならば維心様、人はどうなるのでございますか?そういえば…私の人の頃の娘である有は、神と同じ場所に居りましたわ。人はかなり離れた場所のはずであるのに。」
維心は、維月を見つめた。
「…これを話して、主がどう思うのか分からぬが…主ら月と過ごして来た人は残っておった。だが、普通の人であるならば、黄泉へ参ってしばらく、そう、数十年から百年ほどで、散る。眠るようにな。例えるならば、主らが学んでおった宇宙の中の塵のようになり、そうして、他の塵と混じって、それが濃くなれば、また『個』になる。そうしてまた世に出て参る。いろいろな魂の集合体となって、また新しい生を生きるのだ。あまりに良くない命であったら、消滅させられてしまうので、次に出て参る命はそこそこ良い命や良い命の集合体であるので、そのうちに良い命ばかりになるだろうという途方もない作業であるのだ。なので、我らのように前世の記憶などあったら大変よ。場合によっては百ほどの前世があるからの。まあ、記憶があったとしても、そのうちの一つ二つぐらいではないか。」
維月は、目を丸くした。神がこんな感じに転生しているので、人も同じだと思っていた。
「…知りませんでしたわ。」維月は、下を向いて口を押えた。「という事は、前世人の頃に接していた者達は、皆もう、散ってあちこちの命の一要素として新しい命になっておるという事ですわね。もう、会えぬのですわ。」
維心は、慰めるように維月の肩を抱いた。
「そうであるな。黄泉へ参ってすぐであれば、接することも可能であったがの。神と人は違うのだ。だが、こう考えてはどうか?その主が知っておった人は、あちこちで生きておるのだ。より良い命を目指しての。ただ覚えておらぬだけぞ。それで良いかと思う。」
黙って聞いていた、十六夜が言った。
《まあ、もう人とは一緒に暮らしてないしな。》十六夜の声は、何かを吹っ切ったようだった。《月の女達だって、もしかしたら時間が長かっただけで、もう散ってるかもしれないんだもんな。オレ達には黄泉の中まで分からねぇ。今を生きてるんだし、振り返らないようにする。》
維心は、頷いた。
「それが良い。主らはもう、我ら神と同じなのだ。人は人で、上を目指して生きておる。我らはそれを見守って、我らに近付くように補佐するだけよ。」
維月は、頷いた。振り返っていても始まらない。何より自分は生まれ変わり、新しい生を生きているのだ。もう、人だった記憶は遠いのだ。
蒼の婚姻でおめでたい気持ちだったのが暗くなってしまったが、維月は前を見て、生きて行こうと決めていた。