政務上
維月は、維心と共に湯殿に行って、帰って来たところだった。
居間で冷たい茶を維心と並んで飲んでいると、十六夜がいきなり話し掛けて来た。
《維月?あのな、蒼の嫁が決まったんだよ。》
維月も維心も、仰天したように窓から空を見上げた。声がいきなりなのにも驚いたが、内容が内容だったからだ。
「え…あの子、面倒なんじゃなかった?!」
維月が言うと、十六夜は答えた。
《今日炎嘉と一緒に会いに行ってたんだけどさ、あいつは世話してやろうかと思ったって。》
維心は、何度言っても直らないし、この際急に話し掛けて来た事は問わずに、言った。
「…もしや宇州に押しきられてとか言うまいの。」
十六夜の声は首を振ったようだった。
《いいや。炎嘉が居るのにそれはない。ほら、コンドルの、レオニートの姉だよ。アンゲリーナとかいう。》
維月は、頭の中で検索しているようだった。
「…ええっと、十六夜と一緒に月から見たわね。あの、金髪に赤い瞳の可愛らしい子?」
十六夜は答えた。
《そうそう、それ。何しろあっちは穏やかな神が多くてな、蒼もあそこから嫁ぐなら月の宮ぐらいでないと無理だろうってさ。父親みたいだって蒼を見てはしゃいでるのを見て、父親の気持ちになったみてぇで。若くして幼い子達を残して死ぬのは心残りだっただろうなって思うと、世話してやろうかと思ったらしい。》
蒼らしい。
維心は、思った。普通はそんな子供の皇女を、娶ろうとは思わないからだ。政略でもない限り。
「…ならば良い事やもしれぬ。」維心が言うと、維月は不思議そうに維心を見る。維心は続けた。「理由はどうあれ、コンドルが月の宮と縁続きになるのだ。最近、ドラゴンの動きが気になっておったのだが、これで何も出来なくなろう。あちらで今、一番に力を持つのはコンドルとなったのだ。名実共にの。」
維月は、途端に不安そうな顔をした。十六夜は、言った。
《…てことは、戦が起きる確率が限りなくゼロってことか?レオニートは戦だけはしたくない王だから。》
維心は、頷く。
「その通りよ。レオニートが信じられる王ならば、そうなるの。あちらはそういう政略に明るくないゆえ、ただ一番良い嫁ぎ先をと蒼に頼んだのだろうが、それが結果的に城の力を強くしたことになるのだ。それでなくとも炎嘉と箔炎が同族で手を貸しておるのに、その上に月もとなると、無敵ぞ。次の大会合では、もうレオニートを無視することは出来まい。ドラゴン一強からコンドル一強に変わるのだ。」
維月は、それはそれで面倒なのでは、と思った。それを黙って見ているヴェネジクトではないだろう。もしやなにか仕掛けて来るのでは…?
それを気取ったのか、十六夜が言った。
《ちょっと待て、てぇことは、レオニートは知らない内にそんなことになって、ドラゴンから恨まれる事になるんじゃねぇのか。ヴェネジクトが横槍を入れて来るなんて事はないのか?》
維心は、それを心配そうに聞いて、自分を見上げる維月の頭を撫でてから、頷いた。
「…あり得る事よ。もしかしたらあやつが娶るとか言い出す可能性もある。和睦のためにな。そうなったら戦を避けたいレオニートには断れぬ。ゆえ、もし娶るなら急いだ方が良い。そうよな、蒼に言うて今夜にでもあちらへ行って娶って来て、事が成ってから公表するのだ。それしかなかろう。」
十六夜も維月も仰天した。今から?!
「え、今からですの?!」
維月が言うのに、維心は頷く。
「既成事実があればどうにも出来ぬのだ。こんなことが絡んで来る婚姻はの、何でも先手必勝なのだ。アンゲリーナを不幸にさせたくなければ、急げと申せ。炎嘉も気付かぬのか…まあ、気付いておらぬやもしれぬの。」
十六夜が、やっとショックから立ち直って言った。
《つまりやることやってたらヴェネジクトが何も言えねぇから、今夜中にさっさとやって来いってことか?さっき決まって帰って来たとこなのに?》
維心は、神妙な顔で頷く。
「我だってこんなことを言いたくないが、起こるやもしれぬ事には先に備えておく事が重要なのだ。蒼に申せ。どうしても娶りたいと思うておらぬならこの限りではない。だが、明日では遅いぞ。恐らくドラゴンは様子を窺っておるから、情報は漏れる。ヴェネジクトは行動力がある王ぞ。」
維月は、不安げに空を見上げた。十六夜は、躊躇ったように気を変化させていたが、言った。
《…わかった。》と、意を決したように答えた。《蒼に言うよ。今日は満月だしオレが送ってやる。あっちは驚くだろうが、仕方がねぇ。お前がそう言うなら、そうなんだろうしな。》
維心は、空を見上げて頷いた。
「急げ。ヴェネジクトから書状が来てからでは遅い。」
十六夜は頷いたようだった。
そうして、しばらく。
月の宮から月の光が立ち上ぼり、蒼が運ばれて行ったのを感じたのだった。
いきなりに単身、城の中に現れた蒼に、コンドル達は仰天した。
蒼は、ほとんど部屋着のままだったが、鋭く言った。
「レオニートは?」そして、奥へと歩きだしながら続けた。「炎耀と箔真は居るか。話があるのだ、早うこれへ!」
コンドルの臣下達は慌てて三人を探しに行ったが、真っ先に出て来たのは炎耀だった。
「蒼?!どうしたのだ、もう夜であるぞ?」
まさか気が変わったか。
炎耀は一瞬案じたが、蒼は鬼気迫る勢いで炎耀に詰め寄った。
「婚姻の話は、まだ誰にも教えておらぬか?」
炎耀は、蒼の迫力に圧されて首を振った。
「まだぞ。明日告示だと臣下達は準備を…」と、レオニートが慌てて出て来たのを見て、蒼がそちらへ向かう。「こら、蒼!待たぬか、一体何があったのだ?」
蒼は、無視してレオニートを見た。
「レオニート、一刻の猶予もならぬのだ。今夜娶るゆえ、準備をせよ!」
「「「ええ?!」」」
後ろから出て来た箔真も、ビックリして声を上げる。レオニートは、戸惑いながら言った。
「それは…その、姉上の心の準備も。一体なぜに?」
蒼は、落ち着かなければと息を整えた。コンドルの臣下や軍神達も固まって遠巻きに聞いている。回りが、蒼の答えを待って固唾を飲む中、蒼は逸る気持ちを抑えて、言った。
「維心様に話をしたのだ。そこで分かった事なのだが、オレがアンゲリーナを娶る事で、主は月の宮と縁続きになる。」
レオニートは、ポカンとしている。そんな当然の事が何ぞ。
「ええっと…確かにそうだが。」
しかし、炎耀と箔真には分かったようだ。顔が、ハッとした様子に変わったからだ。
「…気付かなかった。」炎耀が言う。「そうか、コンドルは知らぬでこちらで一の城に成り上がるのだ。それでなくとも鳥や鷹とは縁続き…まあ同族で、関係が深いのに、その上に難攻不落の月の宮まで縁戚になれば、ここは最強になるのだ。」
レオニートは、驚いた顔をした。回りで聞いていた臣下達も驚いていたので、恐らく思いもしなかったのだろう。
箔真が、続けた。
「…そうなってからでは手を出せぬ。となれば、悠長にしておったら己の城が成り下がると、阻止しようとする輩が居ろうが。」
言われて、レオニートはハッとした。ドラゴン…?
「…ヴェネジクトか?あれが何をして来るのだ。」
蒼が答えた。
「和睦のために婚姻をと言うて参ろう。そうなれば戦を避けたい主にはそちらを断れぬ。ゆえ、そうならぬようにオレは今夜参ったのだ。まだ誰も我らの婚姻を知らぬ間に既成事実だけでも作っておかねばならぬのよ!アンゲリーナのためぞ!」
レオニートは、やっと理解した。蒼は、アンゲリーナを不幸な婚姻から助けるために、こんなに急いでここへ来たのだ。
「では…では、姉上に話を。奥へ参ろう。」
蒼は、断固とした様子で頷いて、とても婚姻に向かう男とは思えない険しい顔で、レオニートについて歩き出した。
箔真と炎耀は、顔を見合わせてそれに倣って歩き出したのだった。