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砂漠の街にて

作者: 二束

 昼、全ての生命を焼き尽くし、滅ぼし尽くしてしまおうとするかのような灼熱の光球が地平線の彼方に沈むと、その街はほんの数時間だけ息を吹き返す。

 肌を出したままでは身体が発火しそうな陽光の昼に、人は日陰を渡り、屋根の下に潜む。

 その陽光の絶える宵の口。その僅かな隙間だけは人々にどんな危害も加えない。昼の内に大地を突き刺した陽熱が天へと昇っていく。その緩やかな暖気はどんな歩みも妨げない。

 ただし、その熱を大地が全て吐き出しきった夜は、これも人の生きる世界ではない。

 天が昼に落としてしまった熱さを全て取り戻そうとするかのように、全て構わず生命の証とも言える熱を奪っていく。

 そして熱と共に、潤いも奪われる。舗装された道は乾き、ひび割れていく。生命を守る石壁は渇いた風に侵食され、徐々に姿を失っていく。

 遠い地にある砂の海から、黄色い砂が運ばれてくる。

 砂は時に人の視界を奪い、命を奪う。心を奪い、家族を奪う。

 生者の隠れ住む死者の街には軽すぎた砂が風に舞っていた。



 男はコートの襟を立てて歩いていた、やや急ぎ足で。

 誰もすれ違う者などいない。街は既に生の時間を終えようとしていた。

 舗道を急ぎ、街の南へと向かう男のブーツに冷気が絡みつく。

 カツカツカツ、と乾いた足音が石造りの街に響きながら、徐々にリズムを速める。

 男は歩調を速めながら、コートの襟元を更にグッと握り締める。その手にも黒茶色の手袋がはめられ、首には茶褐色のマフラーが巻かれていた。

 目を瞬く回数さえも減らしながら男は急いでいた。瞬けば風に水気を奪われた頬が裂けてしまいそうだったのかもしれない。

 ただ男は何をも考えていないような表情で、一心に南へと向かっていた。

 コートを握っている方ではない、反対側の男の手には黒いケースが握られている。


 女はジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま、建物の出入り口前の階段に座っていた。

 まるでこの街の中に自分しか生きていないのではないかと思うほどの静寂の中、女は首筋を撫でていった冷気に背筋を震わせる。

 ジャンパーのウールが少しだけ付いている襟に頬を摺り寄せながら女は両足を引き寄せ、黒いスーツケースを抱え込むように座り直す。

 その街では誰も必要としていないであろうホットパンツから伸びる両足は白く凍えていた。

 手をポケットに突っ込んだまま、もぞもぞと動かす。それでもいつまでも温まらない両手を思いきって顔の前に持ってくると女は息を吐きかけた。

 息を吐いた瞬間、口の中までが急激に冷え乾き、鼻を突く砂の臭いに咳き込む。

 ほんの拍子で触れてしまった階段の手摺は金属特有の冷たさで女の指を突き刺した。

 何か暖かい物でも飲みたい、と左右を見渡すが、女の座っている道沿いにそれらしいものが手に入りそうな場所はない。

 仕方なく、むしろ諦めたような眼で女は皮のジャンパーの内ポケットからシガレットケースを取り出す。

 ケースを開けた途端に僅かな風が吹き、最後の一本だった煙草が数メートル先に舞い飛んでいった。

 仕方なく、そして諦めたような仕草で女は立ち上がると階段を離れて、その落ちたタバコを拾った。

 口に咥えると唇に軽い砂の感覚がある。女はチッと舌打ちをしてその煙草を捨てた。

 しかし女のその日は、よほど気に入らない事ばかりだったのかもしれない、せめて煙草だけは吸ってやろうというような顔つきで一度捨てた煙草を拾い直した。再びそれを口に持っていき、ライターを探す。

 冷たい風が足下を切るように走る度にふくらはぎを擦り合せながら、ようやく女はライターを寒さで言う事を聞かない指でポケットから引っ張り出した。

 シュッシュッと石を擦るが、まるで女を焦らす様に炎はつかない。なんとかついた炎も吹き続ける緩い風が嘲笑う様に消していく。

 風が二度目に炎を消したと同時に女はその赤いライターを投げ捨てた。すると、いつまでも砂の味がする煙草を咥えているのにも腹が立ち、それも投げた。

 これ以上、出来る事も無くなり、女はまた階段に戻り、腰掛ける。

 しかし再び立ち上がり、一度投げ捨てたライターを探し始めた。その赤いライターは女にとって大切な物なのかもしれない。女は石の道に這うようにして探していた。

 ようやくそのライターを見つけた時、女は膝の震えも抑えられないほど冷めていた。

 いつまでもこんな場所に座り続けていては命が危ない、と砂漠の街に露出の高い服を着てくるような女でも気付いたはずだ。

 女が黒いスーツケースを取るために階段に戻ろうと振り返ると、何故か一人の見知らぬ男がそのスーツケースを右手に握っていた。

 黒いコートに茶のマフラーで、明らかに自分よりも暖かそうな服装に女は少し悔しさを感じる。

 男は左手に、女のスーツケースよりも少し小さめのケースを握っていた。

「それ、私のよ」

 女は男が何を考えているのかわからず、とりあえずそう言った。

「貴方のと取り換えても、わかるわよ。大きさが違うから」

 女は男が似たようなケースを持っているので、とりあえずカマをかけてみた。

「あぁ、こっちは僕のだ。別に取り換えようなんて思っていないよ」

 男は女に自分がカバン泥棒ではないとわかってもらおうと顔色も変えずに言った。

「ただ、邪魔だったんだ。入り口のドアの前に置かれると、…入れない」

 男は女に自分がこの建物の住人だとわかってもらおうと入り口の鍵を見せながら言った。

「だったら、いつまでも私のカバンを握っていないで、適当に除けて良いから放してくれない?」

 男は女の高圧的にも聞こえる言葉に顔色一つ変えることなく、言われた通りにドアから少し遠ざけてケースを置いた。

 そしてそのまま男は何も言わず建物の中に入っていく。

 女がその建物の三階を見上げると、ある一室の灯りが点くのが見えた。あの中は外と違って暖かいのだろう。きっと薄いバスローブに包まっていても風邪をひいたりしない。そう考えながら、女は自分のふくらはぎを再び擦り合わせた。足の震えが肩を揺らすほど激しくなっている。


 男は三階の三号室に入るとすぐにヒーターのスイッチを入れる。キシューという不思議な運転音を出しながらヒーターは部屋を暖め始めた。この広くも狭くもない部屋がヒーターで暖められるまでに二十分が必要な事を男は知っていた。その二十分が過ぎるまではコート掛けにコートを掛ける事は出来ない。

 男がふと窓から道路を見下ろすと、寒そうな女が身体を温めるためなのか、道端のゴミ箱を蹴り飛ばしていた。


 女がゴミ箱を蹴り飛ばすと、その蓋は軽く乾いた音を出しながら向こうの通りまで滑っていった。スチール製のゴミ箱は女自身予想していなかったほど大きくへこんでいた。しかし公共物を一つ破損させたところで女の憤りはおさまりもせず、次に女は公衆電話のプッシュボタンに力任せに肘を叩きつける。ぐしゃりという嫌な音を立てて、③と⑥のボタンは奥に埋まったまま戻ってこなくなった。

 叩いた拍子にコインでも出てくれば電話をかけることが出来るのに、とでも女は思ったのだろう、何度も電話を殴打する。

「何を、しているんだい?」

 背後からの声に女が振り向くと、建物の出入り口に先ほどのカバン泥棒がいた。

「別に。電話に八つ当たりしてるだけよ」

 そう言いながら、女は足下にあったスーツケースを左足で自分の後ろにまわす。

「どうして電話に?」

 男は少しだけ笑みを浮かべた表情を少しも崩さない。

「コインが…、財布にコインが無かったからよ。…何よ? 何か文句でもあるの? さっきの態度が気に入らなかったのなら謝るわよ。電話を壊したのがいけないって言うのなら、それも謝るわ」

 女は男がいつまでも薄ら笑いを浮かべているのでなぜか苛立ってきていた。

「別に、君を責めにわざわざ降りてきたわけじゃないよ」

 女が感情を昂ぶらせていると分かっていても、男は微笑みを消さない。

「だったら何? 俺に謝る必要はないから警察にでも行けって言うつもり? だったら警察まで私を連れていきなさいよ。こんなクソ寒い所にいるくらいなら、警察に突き出された方がマシだわ。公共物の破壊、深夜の騒音、罪状なら山ほどあるわよ。砂漠なんてクソ食らえなのよ。誰が好きでこんなシケた街にいつまでもいるもんですか。早く警察に連れていきなさいよ」

 女はそう叫んで、もう一度電話に肘をぶつける。電話は砂避けのプラスチックケースごと道に薙ぎ倒された。

 女が急に喚き始めるのを見ていると、男はなぜか妙に可笑しくなり、手袋をしたままの手の甲を顎に当てながらクスクスと笑った。

「何よ? 人が寒くて死にそうだってのいうのに、何が可笑しいのよ?」

「寒いなら、僕の部屋に来ないかい? ブランデーも安物で良ければあるし、ここより少しはマシだと思うけど?」

「貴方、頭がおかしいんじゃないの? さっきはカバンをすり替えようとして、今度は部屋に呼んで。何をどう考えたらそういう結論になるの?」

「嫌ならそれで構わないよ。僕の部屋はそんなに広くないからね」

「私が娼婦にでも見えるって言うの?」

「この街に娼婦なんていないよ。少なくとも電話を殴り倒すほど粗暴な娼婦はね」

「私に近づいたら殺すわよ」

 どこから取り出したのか、女は右手に握った拳銃を男に見せながら言った。

 それを聞くと男はまたクスと笑って建物の中に入っていった。

 女も黒いスーツケースを拾うと男の後について中に入る。男の事は信用できなかったが、それでもこの寒さから解放されると考えるだけで女は内心、嬉しくて堪らなかった。


 男が開けたドアをくぐって、女が三階三号室に入った時、部屋はまだそれほど暖まっていなかった。

「全然、暖かくないわ…」

「年代物のヒーターだから、そんなにすぐには暖まらないんだ」

 そう言った男に女は一瞥の視線をよこす。

「部屋に来たからって変な事考えたら死ぬわよ。私は寒いから来ただけなの」

「別に君をどうこうするつもりはないよ。家の前で凍死体になられると困るからね。明日になれば勝手に出て行ってくれるよね?」

「当たり前でしょ」

「それなら良いんだ。そうだね、これは雨宿りみたいなものなんだから、お互い深入りはしないようにしよう」

 砂漠の街で「雨宿り」か。

 男の例えが妙におかしく聞こえて、そこで女はやっと自分がどうやら今晩助かったのだと気がついた。

「まぁ、その、一応お礼は言うわ。ありがとう」

「うん、良いんだよ」

 男は穏やかな顔で笑みを浮かべる。

「あぁ、ごめん。その顔やめてくれる? その薄笑い」

「………? 今、笑ってた?」

「えぇ、笑ってた。悪いんだけど、貴方の笑い方……、すごく誰かに似てる気がする」

「似てる? 誰に?」

「分からないけど、きっと私の嫌いな奴だわ。だって、貴方に笑われると私は、その……」

「厭な気持になる?」

「……えぇ、そう。助けてもらって申し訳ないけれど、私、貴方の笑顔が苦手だわ」

 女は男に悪態をつきながら部屋の中央にあるソファにスーツケースを投げ置いた。

 そんな女の言動を見ながらも、男はなぜか微笑みを絶やさなかった。

「部屋が暖まるまでシャワーでも浴びてくれば?成り行きとはいえ君は客人だから、僕はお酒でも用意しているよ」

 やはり男はにこやかな表情で隣の部屋に引っ込んでいった。

「ちょっと、どこにシャワーがあるのかぐらい教えてから行きなさいよ」

「目の前のドアだよ」

「覗いたりしたら殺すわよ。それと、私のカバンにも手を触れないで。いい?聞いてるの?」

「わかったよ。君にもカバンにも興味はないね」

 女は右手に銃を握ったままバスルームへと入っていった。


 十分ほどして、女がシャワーを浴びてバスルームから出てくる頃には部屋も充分に暖まっていた。外では寒くて仕方のなかったホットパンツも、今は丁度良い。むしろ長袖のシャツは袖を破り取って半袖にしたいくらいだ。

「着替えは持ってないのかい?」

 女が先ほどと同じ服を着ているのを見て男は言った。

「仕方ないでしょ。着替えはもう一つのカバンの方に入れていたんだから」

「盗まれた?」

「バカみたいに陽気なタクシーのおじさんにね」

 男が女にカップを差し出すと女はすぐにそれを受け取った。中身は恐らく紅茶。仄かに香る匂いで、少しだけブランデーが垂らしてある事が女にはわかった。

「着替えは貸せないな」

「結構よ」

 女がその部屋に一つしか無いソファにどっかりと腰を下ろしているので、男は両手でカップを握ったまま立ち尽くしている。

 女が黒のスーツケースを足下に落とせば、二人は肩を寄せ合ってそのソファに座れるのだろうが、男にも女にもそのつもりはなさそうだった。

「…あぁ、まだ名前を聞いてなかった。君、名前は?」

 何を今更、と感じながらも成り行きとはいえ一晩の寝床を借りるのだから名ぐらい名乗っておかなければ、と女は男の質問に答えた。

「フィーナ」

「そう、フィーナね。それじゃあフィーナ。今日は向こうの部屋の僕のベッドで寝れば良い。僕はソファで我慢しよう。たったの一晩だからね」

「今日だって、出来る事なら貴方の世話になんてなりたくなかったわよ」

「僕もシャワー浴びるけど、入ってこないでね」

「男のくせに女々しい事を……。貴方みたいに線の細い男は好みじゃないのよ」

 女がそう言うと、男は白い頬をクイっと引き上げて笑った。それから何も言わずにバスルームへと入っていった。

 気に障るほどニヤケる男だとフィーナは感じていたが、気に障っているのはただその表情だけではなかった。目線、手の仕草、全てがフィーナの癇に障っていた。

 男がクスクスと笑いを漏らすのは決まってフィーナが男に強い態度をとった時だった。フィーナにはそれが、男が自分を軽くあしらっている、という事を示しているようで気に入らなかったのだ。

「イイ年した女がすれ違った男に相手にされないからって僻んだりするわけないわ」

 しかし頭では分かっていても、女はその結論を追い出すかのように呟いて、紅茶を一息に飲み干した。

「本当に、あの軽薄な笑い顔。誰に似ているのかしら……?」

 フィーナは右手の人差し指を目尻に添えて、男の入っていったバスルームの扉を見ていた。薄ら笑いを浮かべた男の顔は思い浮かぶのに、フィーナの思い出せる範囲の記憶に男と似た面影などなかった。

 どんなに考えても結論は出ないし、譬え結論が出たとしても一晩の部屋を借りただけの男が誰に似ていようと何の価値もないことなので、フィーナはスーツケースを持って奥の寝室に向かった。

「狭い部屋……」

 ベッドを前にしてフィーナの言葉はそれだけだった。

 男の部屋は居間もバスルームも、何もかもが一人分のスペースしか無い。その寝室はまさにそれを象徴するように、シングルベッドが見事なほどピッタリと部屋に納まっていて、余分な隙間などなく、まさに寝るためだけの部屋だった。

「アイツ、恋人はいないわね」

 フィーナはベッドにスーツケースを投げながら笑う。自分を軽くあしらう男も実は女に相手にされていないという結論がフィーナを笑わせていた。

「こんな狭い部屋とベッドに二人で眠るなんて出来ないもの……」

 クスクスと小さな笑いを漏らしながらフィーナはベッドに横たわる。

 ドアは閉めたが鍵のないドアなので、寝るには窮屈なシャツや何かを脱ぐべきかどうか悩んだ。

 結局シャツは脱いで部屋の僅かな隙間に落とした。

「ドアを開けたら、撃つ」

 そしてドアにその張り紙をして、枕元に拳銃を置いて、安心して眠った。

 ベッドに横になると部屋の割に大きな窓が横にあって、その窓から月が見えていた。視覚的には美しいかもしれないが、その窓から外の寒さが少しだけ伝わってくるのがフィーナは嫌だった。


 翌日、フィーナは朝早くに起きて部屋を出て、昨日会う予定だった人物とコンタクトをとるつもりだった。ベッドの中でもその人物に会った時、昨日来なかった事をどのように責めてやろうかと考え、夢の中でそのリハーサルをしていた。

 けれど実際にフィーナが起きたのは、地面が焦げて砂煙が燃え始める昼の直前だった。

「起こしてくれても良いじゃない……。ドアを開けなくても起こす方法ぐらいあるでしょ?」

 ベッドの上で男に責任転嫁しながらフィーナは髪にブラシを当てる。それから昨日と同じ服を着て、部屋を勢いよく出た。

「ちょっと、貴方が明日の朝に出ていけって言ったのよ。どうして起こしに来ないのよ? もう昼じゃない。約束が違うとか言わないでよ。貴方が悪いん……」

 フィーナは右手にスーツケースを握りながら、男のいる居間の方に向かって怒鳴り歩く。

 しかし居間に入った途端、男もまだ寝ていたのを見て言葉を失った。

「見送る気もなかったって、はっきりわかったわ。それよりも、私が何か盗んでいくかもしれないとか考えなかったのかしら?」

 人を信じる事もこの男を見て、度を過ぎればバカらしく見えると感じた。

 ソファに座り、テーブルの上に両足を乗せて眠っている男を見ながら呟く。

 よく見ると男はまだその両手に黒い手袋をつけていた。灰色のシャツの腹部で組まれた両腕には僅かばかりも露出がない。

 睡眠中も手袋を外さない事はやはり不自然な事だが、フィーナにとってそんな事はどうでもいいことだった。男の両手には酷い火傷の痕でもあるのかもしれない、などと理由をつけてしまえばフィーナにとってそれ以上に関わる価値のないものだから。

「せいぜい楽しい夢でも見てなさいよ……」

 眠りながらも僅かな微笑みを見せる男に向かってフィーナは言った。昨晩も感じていた既視感に似た何かをまた男の寝顔に感じていた。

 しかし譬えその男とフィーナが以前にどこかで会ったことがあるとしても、今のフィーナにとって重要なのは穏やかな寝顔の男よりも、右手に握ったスーツケースを待ち合わせの人物に渡す事だった。

 だからフィーナは男を起こさずに部屋を出た。男の寝顔があまりに素直で優しく女性的にも見えたので、それに手を出す事が色々な理由で躊躇われたからかもしれない。


 男が起きた時、外は既に薄暗く、暑過ぎた昼に息を殺して潜んでいた人々が往来を行き交っていた。

 しばらくソファの上で机に足を乗せたまま、まどろみの縁で酔っていた。

 男の耳には自分のゆっくりした呼吸音と街のざわめきしか聞こえない。小さなテレビも古びたラジオも動いていない今この部屋の中は物音一つしなかった。

 その静けさを確認すると、つまり女が既に出て行っている事を確認すると男は起きあがってキッチンへ向かった。そこで両手の手袋を外し、棚の中から細長い煙草を取り出すと、その一本を口に咥えた。

 キッチンの窓は小さかったが、それでも街中が夕陽のせいで赤黄色に染まっている事がわかる。風に乗って舞う僅かな砂が更にその色を鮮やかに見せていた。

 煙草を三分の二ほど吸うと、未だハッキリしなかった意識もようやく起床した。

 その煙草を灰皿に擦ると、男は昨晩から着ていた灰色のシャツを脱ぎながらキッチンを出た。

 居間にあるクローゼットの中から新しいシャツを出し、それを着るとまたキッチンに行く。開け放された棚の中には煙草の箱と、その横にはまだ少しだけ暖かい手袋がある。男はその手袋をまたつけてから居間に戻った。

 ソファのすぐ横に置いたカバンを持つと、男はコート掛けからコートとマフラーを取って部屋を出た。


 通りを北に向かって歩く。

 男の住む街はそれほど大きくなかったが、それでも擦れ違う人々は知った顔も知らぬ顔も様々だった。ただ、女達が着飾っている事や男達が格好をつけている事は街中の誰もが同じだった。

 誰もが互いに誘い合っている。

 男はこのあるゆる環境や資源に見放された街の存在理由をその事によって納得していた。


 男が向かった先は一軒の小さな酒場だった。

 街の丁度中央に位置する、その辺りの建物の造りは男の住む南側とも多少違っていた。白色系の多い南側と有色系の多い北側、それぞれの民族がそれぞれに安堵できる居住地を作ったところ、不思議と街はその造りによって幾つかに分割された。

 この中央周辺の建築物がそのどれにも似て否なる造りをしているお陰で街は分散することなく一つになっているようなものだ。この街は中央で融合、妥協しているのかもしれない。

 男はその酒場に入るとすぐに店の奥へと引っ込んでいった。

 頭の禿げ上がった店の主人が男に軽い食事を出す。

 開店前の店の中ではバーテンやウェイターが机や床を丁寧に拭いていた。

 開店まではまだ数十分あるのにも関わらず、既に何組かの男女が店の前で待っているようだった。


 男が主人の用意してくれた食事をゆっくりととり終えた頃、店は開店した。

 店内にはすぐに客達のざわめきと安物のアルコールの匂い、それから煙草の煙、僅かに香水の香りも広がる。

 外の空気に比べれば店内の空気はそれなりに澱んでいるだろう。けれど男はそれが嫌ではなかった。分別盛りを迎えた大人達が酒を口にする事でハメを外したり外さなかったり。それを見ていると男はこの店内に言いようもない静寂を感じていたのだ。

 確かに店内は客達の話し声で騒がしいけれど、誰もが自己を無くすような酔い方をしないので、店内に一定の品位は常に保たれていた。

「そろそろ、頼むよ」

 カウンターであまり売れ行きの良くないワインを飲んでいた男に主人は声をかけた。

 それを聞くと男は頷いて、また奥へと戻っていく。

 控え室に置いたままだった黒いケースを開けると、そこには鈍い黄銅色に光るサックスが収まっていた。

 男がそのサックスを持ってステージに向かうと店内からは拍手が起こる。男はこの拍手を聞く事でなぜか安心できた。

 それはその拍手が客の程よい酔いを表していたからかもしれない。男の演奏を聞いてくれるかという事を心配していたのではなく、その日の客は楽しく過ごしているかという事が気になっていたのだろう。

 店内の客達の夜はこの店から始まっているのだ。だからこそ、男は客達に心地良い始まりを提供したかった。

 男の演奏は人並みよりも多少出来る程度で、余分な金を取ってまで人に聞かす事の出来るレベルではない。だから男がここで働き、食事が出来るのもほとんど店の主人の気紛れからだった。

 けれど男にとって重要なのは自分が客達の褒めちぎるような演奏を出来るかどうかではなく、自分の演奏を聞いて、その後の会話が盛り上がってくれれば、それで構わなかった。

「あのサックス吹き、まだまだだよね。僕も吹けるけど、同じくらい出来るかも」

 といった具合にだ。


 仕事を終え、男はすぐに帰路へつくつもりだった。店を出る時刻が遅くなればなるほど、ほとんど南の端とも言える位置にある男の家までの道程が寒さの為に長くなってしまうのだ。

 けれど、いつもの事だから分かりきっているのだが、馴染みの客が男を引き止めて、結局は男も閉店ギリギリまで店に残る事になるのだ。

 そうなる事は分かっていたから、男はコートを持ってきていた。

 店を出るとやはり風は肌を切る様に冷たい。熱気の篭る店から外に出た瞬間が最も空気の鋭さを感じる。

 男は何度往復したかもわからない道を通り、南へと向かう。石の道とブーツの間に砂が混ざり、足音がやや不明瞭に響く。

 砂漠の街の深夜に外を出歩く者など誰もいない。男は一人きりの道をただ黙って歩き続けた。

 十数分もすると男の家が視界に入ってくる。

 だが男がその入り口付近に目を凝らすと、ぼんやりと白いものが揺れるのが見えた。猫達だってこの時間に外を歩けば凍える事を知っている。

 思い出せば、昨日も同じような揺れる白いものを見た。男が仕事から帰ってくると家の前の通りで白いものが揺れていて、近づくとそれは無用心にも軽装で街を訪れた女、フィーナという名だったか、その女の細い両足だった。

 寒そうに震えているくせに、強気な言葉ばかり口にする。まるで攻撃性の象徴みたいな女だった。この街中でも他にあんな女はきっといないだろう。珍しい女だった。

 男は昨晩擦れ違った女を思い出してクスクスと笑う。あれほど警戒心を露にした瞳は久しく見ていない。その事が男は可笑しかった。当然の事を忘れていた自分と、純粋な興味が男を笑わせていた。

「今晩は大人しく座っているけど、何をしているんだい?」

 男が言うと、建物の入り口の階段に座っていた女が顔を上げた。

「もう一晩だけ、泊めて欲しいの。待ち合わせの相手も捕まらないし、盗まれた荷物も見つからないから」

 男は不思議と今晩のフィーナに昨日と同じような刺々しさを感じなかった。それよりもむしろ別人かと思えるような雰囲気の違いに戸惑う。

 数秒間、無言で見詰め合った後、フィーナはまたうつむいた。両手でしっかりとカバンを抱きかかえて、氷のように冷たい金属の手摺に寄りかかったまま、静かに男の答えを待っているようだった。

「すると、今晩は僕がベッドを使う番になるけれど、いいかな?」

「……わかったわ」

 男がフィーナの横を通り過ぎて建物の中に入っていくとフィーナもそれに続いていった。

「部屋の中に入れなくても、外で待つ必要もないのに。外よりも中の方がいくらか暖かいでしょう?」

「部屋の前で待ったりしたら、貴方が断れないでしょう?そういうのは嫌なのよ、私は」

「寒い中で凍えながら待たれている方が断れないと思わなかった?」

「悪かったわね。そんな温情に期待するつもりはないのよ。屋根とヒーターさえあればどこでもいいの」

 前を歩く男のすぐ後ろをフィーナはゆっくりと歩いた。

 男が部屋のドアを開けると、フィーナは何も言わずに中へと入る。

「とりあえず、シャワー貸してくれない? 寒くて仕方がないの」

 男が入り口の鍵も閉めないうちにフィーナは聞き、更に男がそれに答えるよりも早くバスルームへとフィーナは入っていった。


 男は昨日と同じように紅茶を入れる。身体が冷えているのは男も同じだったから、男はフィーナが早くバスルームを空けてくれることを望んでいた。

 しかし、キッチンで煙草を一本吸い終えても、扉が開く気配はなく、ついに紅茶が冷めてぬるくなった時には何かしらの嫌な感が男の脳裏をよぎった。

「フィーナ? 早く代わってくれると嬉しいんだけど」

 バスルームの扉の前にきてノックをする。しかし返事はなかった。ただ激しい水の音が聞こえるばかりで、それ以外には微かな音も扉を越えてこない。

 もう一度ノックする。バスルームは案外に広いけれど、部屋のどこにいてもそのノックが聞こえないはずはない。

 もう一度だけノックした後、ドアノブにそっと手をかける。十秒数えて、それでも返事がなかったから男はその扉を開く事を決めた。

「開けるよ。いるのなら、返事をしてくれないか?」

 昨晩、フィーナの言っていた、覗いたら殺すわよ、という言葉が思い出される。男にとってフィーナは全く理解しがたい女だった。男もずっと以前、この街に住むよりも前ならば理解できたのかもしれない。しかしこの数年間で男の見てきた人の動向はフィーナのそれとは全く異なる。

 だから男はフィーナが本当に撃つつもりなのか、全く見当もつかなかった。

 男は手袋をはめた手で完全にドアノブを回しきった。後は軽い力でそれを引けばバスルームに入れる。

 男はその引く力を出すのにそれほど躊躇しなかった。

 撃たれることはない、と思ったのではなく、撃たれても仕方がない、と考えたのだ。この場でその珍客に殺されたとしても、それは自分が度を越えたお人好しだったからで、人を信じ過ぎるのも考えものだという戒めなのだ。

 だが結局、バスルームに銃声が響く事はなかった。拳銃は洗面台の上に衣服と並べて置いてあり、そのすぐ横の壁にフィーナも寄りかかってうつむいていた。

 男が一歩近づいても顔は上げず、屈んで声をかけても返事はない。

 いつまでも出しっ放しだったシャワーを男が止めると、うるさかった水音が止み、代わりに女の息が聞こえた。

「確かに暖かいけれど、こんな所で寝てもらうと困るなあ」

 男はフィーナの膝の下に手を通し、もう一方の手を肩に添えると、さして重そうな様子もなくひょいと持ち上げた。そのまま男はフィーナをベッドまで運び、布団をかけるともう一度バスルームに戻り、服と拳銃を取って、ベッドのすぐわきに置いた。


 翌朝、目を覚ましたフィーナは頭痛を覚えた。

 枕から離そうとした頭部が妙に重く感じ、見上げた天井も窓の外の景色も薄っすらと霧がかかったように遠く見える。

 いつもの様にベッドの上で髪にブラシを入れようと起き上がると、自分の身体は下着も何も着ていなかった。

 フィーナはガンガンと鳴り響く頭で状況を理解しようとするが、そうするほどに頭は重くなっていった。

 良く見れば昨晩まで着ていた服が足下に置いてある。護身の為にいつも手の届く位置に置くはずの拳銃も服の上だった。

 クラクラと揺り動かされる脳は何も考える事が出来ず、とりあえずフィーナは再びベッドに横になる。右手に拳銃を握っているので布団の中は全裸でも安心だった。

 ゆっくりと昨日の事を思い出してみると、ぼんやりと見えてくる。


 待ち合わせていた相手に何度電話をしても人の間をタライ回しにされるばかりで、結局その相手に電話はつながらなかった。

 バカみたいにへらへらした男が、それもイイ年のおじさんが何人かナンパしてきた。

 当然、躊躇もなく断った。

 寒くなって、どこか泊まる所がないかと思って探したけれど見つからなかった。

 日も暮れていい加減寒くなったから、仕方なくここに来た。

 シャワーを浴びて、それから…

 シャワーを浴びてから…

 それから…

 急に疲れて、意識がなくなったのか。


 そこまで思い出すと、朦朧とする頭でも、自分をこの部屋に運んだのが誰かわかった。

 フィーナは左手で寝癖のついた髪を更にくしゃくしゃと乱す。

 フィーナの胸に言いようのない嫌な感覚が溢れていた。それは裸を見られたからという単純な言い方の出来る理由ではなく、譬えフィーナが倒れた時に下着を着けていたとしても同じ事だっただろうし、更に長袖のシャツ以外の全てを身につけていても同じだったはずだ。

 髪を掻き乱した手を少し上にずらして、掻き揚げる。窓から射し込む日の光が眩し過ぎて頭に響いた。

 その時、部屋の扉からノックの音がした。

「何?」

 額に乗せていた左手をサッと布団の中に戻してフィーナは答える。

 扉を開けて入ってきた男が部屋の壁とベッドの僅かな隙間を通ってフィーナの横に来る。それから何を思ったのか急にフィーナの顔に自分の顔を近づけた。

「何をする気?」

 フィーナは咄嗟に男の顎下に銃口を添える。

「熱は?」

 男がそう言うのでフィーナは銃を降ろす。すると男はすぅっと顔を近づけてフィオナの髪を掻き揚げると自分の前髪も掻き揚げて額を合わせる。

「まだ少し熱があるかな? 今日一日は大人しくしているといい」

「そんなことしなくても、手袋を外せば良いじゃない」

 まるで子供がされるようなスキンシップにフィーナは若干の苛立ちを覚えた。

 自分は裸を見られたというのに、この男は手袋一つも外さない。その差が癪に思えた。

 だから、男がそのまま部屋を出ていこうとするのをフィーナは止めた。

「見たんでしょ?感想は?」

 振り返った男は顎の下に手を当ててフィーナに微笑を返す。

「僕を撃つかい?」

「貴方がどんなつもりで私を拾ったのか今更聞くつもりはないけれど、もう冷めたでしょ?」

「冷める? 何が?」

「そんな何も知らないみたいな顔をされるのが一番ムカつくのよ。これを見れば百年の恋だって凍りつくほど冷めるわ」

 フィーナは自分の左腕をぐいと上に挙げる。

「百年の恋も何も、冷めるものなんて初めからあったとは思えないな」

 フィーナの顔をじっと見ながら男は優しく囁く。

 フィーナのその左腕は白く細く美しい腕だったが、ただ一部分だけが惨たらしい傷痕に爛れていた。肘から手首側に数センチの場所に腕を一周するように傷が走っている。傷痕は僅かに腫れ、どうすればそのような傷が出来るのか想像させない。

「手術痕か何かだな。別に珍しくもないよ。ちょっと出来は良くないみたいだけど」

「手術は大成功よ。奇跡が起きたんですって」

「それは良かった」

 そして男はくるりと後ろを向いて部屋を出ていこうとする。フィーナは男のその態度が気に入らなかった。やはりそれはこの男に自分が相手にされていない、軽く扱われているという自尊心の傷つきからだったのかもしれない。

「だから、その態度がムカつくって言ってるのよ。どうして、珍しくもない、なんて適当な言葉で誤魔化そうとするの? 気持ち悪いなら気持ち悪いってはっきり言いなさいよ。変に気を使われる方が嫌だわ。貴方と私は別に気を使わないといけないような絆も何もないんだから」

「君はその傷が嫌いなんだろうな。そして傷を持っている自分も嫌いなんだろう。自分が自分を嫌いになったら、何を好きになっていいのかわからなくなる」

「だから何よ?」

「だから誰かに嫌われたいんだろう? 誰かが自分を嫌いになればなるほど、そんな自分を慰めたくなるかもしれない、自分を好きになれるかもしれない、と思っているんだ。そうでなければ、自分を好きといってくれる誰かを探しているんだろう」

「貴方ねぇ……。私がそんな乙女チックな人間だと思うの? 私が何歳か知らないから適当な事も言えるのよ」

「二十代後半、七か六ぐらいかな?」

「もう三十一よ」

「年齢と人の若さは必ずしも一致しないさ」

「嫌いだわ、そういう言い方」

「自分を好きになる事だ。自分を嫌いな人間なんて周りにいるだけで気が滅入る。その傷も含めて自分だという事に、君が気付ければいいんだけど」

「無理よ。私は貴方みたいに何が起きても笑っていられるほど単純じゃないもの」

 やはり男は何を言われても、その表情を変えない。優しく微笑み続けるその顔が一瞬だけ、まるで何かを隠す面のようにも見えた。

 そして男は部屋を出ていく。

 フィーナはしばらく苛々したあと、仕方がないのでまた横になった。

 昼夜の寒暖差に体力を削られ、風邪でも引いたのか頭が重い。どこか苛立ってもやもやとした気持ちだったが、よほど疲れていたのだろう、眠るまでに時間はかからなかった。


 それから十時間以上がたった頃、ようやくフィーナはベッドから這い出した。数時間ごとに目を覚ましてはいたが、疲労感と頭の重い感じが取れなかったので何度も眠り直した。しかし気がつくと窓の外も暗くなっていて、ひどかった頭痛もずいぶん楽になっていたので、フィーナは髪にブラシを当ててから部屋を出た。

 居間には誰の姿もなく、ただ古いヒーターがスカーっという音を立てながら動き続けている。ヒーターの熱で部屋は全く寒くないのだが、誰もいない部屋をフィーナは初めて見て、その狭くない広さと静けさに身震いをした。

 キッチン、バスルームと声をかけてみるが男の返事はなく、どこかへ行っているようだった。

 寒さを防げるものは皮のジャンパー以外全て盗まれたカバンの中に入れていた。だからフィーナは夜を迎えた街に降りていく事が出来ない。

 まるで獄の中に閉じ込められたような気分だ。

 特にすることもない。なんと言っても押しかけてきたのはフィーナの方だったから棚のワインや食べ物に手を出すわけにもいかない。

 まさに今のフィーナは男の帰りを待つ以外に何も出来なかった。

 男の帰りを待っている自分を想像するだけで、言いようのない屈辱感にも似た何かがフィーナの胸に湧き起こる。その胸の痛みがフィーナにとってこの部屋を獄にしていた。

 仕方なく、フィーナはソファに座り、手を伸ばせば届く位置にラジオがあったのでスイッチを捻った。

 ラジオからはスロウなリズムの甘ったるい音楽が流れてくる。古臭い形のラジオから流れてくる音楽がそれもまた古い。電波が弱いのか、時々ザザザっという雑音が音楽を邪魔するくせにそれがどこか哀愁にも似た味わいを加えようとしていた。

 フィーナもそのような雰囲気の曲が嫌いではなかった。むしろ若かった頃、その頃はそんな曲で良い気分になったものだった。

 けれど今は違う。

 フィーナはすぐにラジオの歌を止めた。

「今更…。一人でこんな曲を聞いても、今更聞いても良い気分になんてなれないわ」

 まるで思い出したくもない何かを思い出させられたように、哀しげな顔でフィーナは立ちあがるとキッチンに行って戸棚を開けた。

 棚の中には煙草が置いてあり、小さな灰皿もキッチンに置いてあった。煙草の一本ぐらいなら拝借しても構わないだろうと思ったから、それほど躊躇わずにそれを口に咥えた。赤いライターで火をつけると普段吸っている物とは違う匂いが肺に広がる。しかしそれもさほど気にならなかった。偶然にも似たフレーバーの煙草を男も吸っていたのだろう。

 ふと棚の隅に目をやると使い古された手袋が置いてあった。薄い布製のもので防寒用にしては薄過ぎる。薄手の手袋は手の感覚を奪わないという利点もあるのだが、ただ薄いだけでは手袋本来の価値をまっとうできない。

 手で摘み上げると、その手袋は指先に穴が開いていた。男のように昼夜構わず四六時中、手につけたままにしていれば、当然穴も開く。

 けれどフィーナの関心はその穴などではなくて、その手袋が男性用にしてはやや小さかった事だ。思い出してみると男の身長はそれほど高くなかった。恐らくフィーナよりも頭一つ分も大きくないはずだ。

 手を入れてみなければハッキリと断言できないが、その手袋はフィーナの手の大きさとさして違わないように見えた。

 フィーナはその手袋をそっと棚に戻し、煙草も灰皿の中に磨り潰した。

 居間に戻り、ソファに腰を下ろす。だがやはりする事がなく、フィーナは呟く。

「遅い……。一体何をしているって言うのよ? あの男は……」

 フィーナは頬杖をつきながらそう言った後にふと気付いた。フィーナはその男の名さえも知らなかった。二晩も泊めてもらい、更には病の世話までされたというのに、名を知らない。フィーナがもっと若かった頃なら何か少女的な高揚感を抱き、不思議な気分になっただろう。

 だが、今は名乗りもしない男の家にいる事が妙に不安になった。だからと言ってどこに行くことも出来ず、ただひたすらに不安ばかりが積もっていった。

 しかしその不安も、じっとソファに座って一時間が過ぎようとした頃には馬鹿馬鹿しくなっていた。その男がどんな人間だろうと、フィーナがここに泊まった事実は完全に偶然の出来事なのだから、明日にも出ていくであろうフィーナがその事に気を揺らす必要は少しもないのだった。


 待ちくたびれて、ソファの上でフィーナがうとうとしかけているとドアの鍵が回される音がした。

 ようやく何か食べ物にありつけるとフィーナは内心で喜んでいたが、それを表情に出さないようにした。男が帰ってきたから喜んでいるなどと勘違いされては困るから。

「調子はどうだい?」

「それより、何か食べたいんだけど」

 フィーナの口調がようやく元に戻ったのを見てだろうか、男はクスと笑った。手袋をつけた手を顎の下に引き寄せて笑う、あの笑い方だ。女性的ともとれる仕草なのにどこか不思議な色気を感じる。そこがフィーナは気に入らなかった。

「僕は料理が得意じゃない。僕の部屋で食べ物と言えば、トーストとハムエッグに決まってるけど、それでも良いかい?」

「誰も貴方の手料理を食べようなんて思ってないわ。食料を勝手に使っちゃ悪いと思って聞いただけよ」

「僕に気を使って食べなかったのか。意外に礼儀屋だな」

「そういう風に言うって事は、勝手に食べても構わなかったのね。じゃあ、適当に作らせてもらうわよ。貴方が私をどんな女だと思っていたかは、敢えて聞かないでおくわ」

 フィーナは小さな息を吐きながら微笑むと、男の横をするりと抜けてキッチンに向かった。

 男がコート掛けにコートとマフラーを掛けようとするとフィーナがキッチンから呼びかけた。

「ねぇ、貴方どうして名乗らないの?」

「まだ言ってなかったかな?」

「えぇ、聞いてないわ」

「それは君が聞かなかったからだろうね。別に隠すつもりはなかったし」

「それで、誰なの?」

「知りたい?」

「えぇ、一応は世話になっているわけだし、名前も知らない男に泊めてもらっているなんて、安心して眠れないわ」

「でも君は明日にも出ていくんだろ? 僕の名前なんて知っても仕方ないと思うが?」

「それは、そうだけど……」

「それとも君はあの類の人達かい? また会えた日の為に名前を聞いておきたい、って思う人達」

「冗談じゃないわ。嫌いなのよ、私、そういう考え方」

「僕は別に嫌いじゃないけどね。そういう考え方は人を優しくさせる」

「そういう考え方も嫌いなの。……ちょっと、本当にハムエッグしか出来ないじゃない。どうして冷蔵庫の中までこんなにスカスカなのよ」

「だから言ったじゃないか、僕の部屋ではトーストとハムエッグしか出せないって」

「あんなバカみたいな冷蔵庫を見たのは初めてよ」

「代わろうか?」

「お願いするわ。食べる気も失せる前に頼むわよ」

 男はソファから立ち上がるとキッチンから出てきたフィーナと入れ替わりで入っていく。フィーナも居間にいては他に居場所もないのでソファに座った。

「それで、貴方の名前は教えてもらえないのかしら?」

「ヨシュア」

 それから数分間、二人は互いに言葉を発さなかった。それはただ単に特に話す必要を二人とも感じていなかったからだ。

 ヨシュアは一枚の皿にトーストもハムエッグも全て乗せて持ってきた。メニューはまるで朝食であり、まさか腹を空かした夜更けにそんなものを食べようとは予想だにせず、フィーナはその皿を見ているとなんだか無性に可笑しくなって笑った。

「一応は私も客なのよ。もう少しマシなものを出せるように、とか考えなかったの?」

 フィーナがソファを独占しているのでヨシュアはどこに座る事も出来ず、仕方なく壁に寄りかかって立つ。

「君がいつまでも寝ているからさ。僕が仕事に行く前に起きてくれれば、どこか食事にでも連れて行っただろうね」

「そう思ったのなら、起こしに来なさいよ」

「病人は普通、安静に寝かせておくものだろう?」

「ただの風邪よ。病気じゃないわ」

「風邪も病気だよ」

「そう言えば、貴方の仕事って何? とても真面目に働いているとは思えない暮らし振りだけど?」

「サックス吹きだよ、酒場の。ルーシーってバーで働いている」

「飽きない?」

「どうして?」

「毎日毎日、同じような面の客ばかり相手にして、飽きない?」

「君から見れば誰も同じに見えるだろうね。でも皆それぞれの行き方をしてきているから、ちょっとずつ顔も違うのさ。特にこの街ではね」

「貴方って、そういう歯の浮くような言い回しが好きみたいね。まるで、夢ばかり見ているみたいよ」

「僕だけじゃないよ。皆、夢の中さ。街中が夢を見ているのさ」

「バカみたい。こんな住み難いシケた街のどこが夢を見ているって言うの? それとも、貴方の見ている街はもっと違うのかしら? ……ご馳走様。シャワー、借りるわよ」

 フィーナは皿をテーブルの上に置いたまま立ち上がり、バスルームの方に向かう。それと同時にヨシュアも動き出し、テーブルの上の皿を取るとキッチンの方に向かった。

「この街は、最後の砦なんだよ。ここに住む人間は誰も外で生きていく事なんて出来ないんだ」

「嫌いよ、そういう抽象的な言い方。私は別にこの街がどんな街なのかなんて知りたくもないわ。でもそういう言い方をされると、貴方が何を言いたいのか気になるじゃない」

「この街には子供がいない。将来のある希望とエネルギーに満ち溢れた若者もいない。むしろ僕や君ぐらいの年齢はこの街で子供みたいなものさ」

「だから何が言いたいのよ?」

「皆、家族がいないんだよ」

「それなりに大きな街だもの、家族のいない人だっているでしょうよ。それにこんな環境の悪い街で子育てをしようと思う人も、きっといないわ」

「合理的な考え方だ。でも、本当にこの街には一人として家族を持つ人はいないんだよ。この街は、家庭を持てなかった人達が、それでも何かが欲しくて集まってくる場所なんだ」

「貴方の口振りからすると、この街はとても善良な街のようね。私にはただの逢引街に聞こえたけれど」

「間違っていないよ、その考え方は。君もそのために来たと思っていたけれど、違うのかい?」

「私がこの街に来たのは、ある人にあのスーツケースを渡すためよ。勘違いしないで、その人と逢引するために電話をかけたかったわけじゃないのよ」

「あぁ、その勘違いは、たった今解消された。けれど、君の瞳は鋭過ぎる。その目で街の人を傷つけないでくれないか? 皆、傷つけられて生きてきたんだ。この街以外に彼らの安息はないから」

「私だって、傷つける気なんてないわ。街の人が貴方みたいな台詞を真顔で言わない限り」

「この街は、帰る場所を持たない人達の、帰ってくる場所なんだから」

「だから、嫌なのよ、そういう考えかた、言い方、表情、目つき、仕草。怖くて現実も見ない連中なんて最低よ」

「あぁ、自分でもわかっているさ、自分が弱い人間だって」

 そう言った瞬間のヨシュアの顔は微笑んでいたが、いつものような微笑でなく、どこか寂しそうで、ひどく哀しそうだった。

 フィーナはその部屋に居続ける事が堪らなくなってバスルームのドアを勢いよく開けると中に入った。

 そのドアを閉めてからも、シャワーから出る熱い湯を浴びている時も、ヨシュアの哀しげな声が耳について消えなかった。その声が頭の中で繰り返されるたびに胸の奥が締まり、気分が悪くなりそうだった。

 けれど、フィーナはその痛みを以前にも感じたことがあった。少し様子は違うが、ひどく似ている。

 昔の恋人のことを考えるといつも感じていた胸の痛み。それと同じだった。

 フィーナはヨシュアが誰に似ていたのかはっきりと気付いた。なかなか思い出せなかったはずだ、その男とヨシュアとは何が似ているわけでもない。顔つきも、体格も、外見はまるで違う。ただその口調や言い回し、考え方がそっくりだった、

 昔の恋人に。


 シャワーを浴びてバスルームを出ると、気分は妙に覚めていた。先ほどまで自分が妙に甘ったるい空間に居たことを知り、不思議な気持ちになる。

「そうそう、君の荷物、見つかったんだ。玄関に置いてある。盗む気はなかったそうだよ、トランクに入れた事をすっかり忘れていたらしい」

「貴方が捜してくれたの?」

「いや、偶然だよ。客の荷物を降ろし忘れたって困っているドライバーがいるらしい話を聞いてね、もしかしてと思って」

「そう。まぁ、いいわ。とにかく貴方にお礼は言っておくわね」

 フィーナが玄関に行くと、確かに数日前に盗まれたバッグが置いてあった。衣服以外に大した物は入れていなかったが、それでも戻ってきて嬉しかった。

 フィーナはすぐにその荷物を持って寝室に駆け込み、数日間着続けている服を脱いだ。特に動き回っていないので服自体に汚れはないのだが、数日間も着つづけると流石に気持ちは良くない。

 どの服に着替えようかとバッグの中を色々かき回してみる。中には半袖のシャツも入っていて、この部屋の暖かさを考えるとそのシャツで充分だっただろう。けれどフィーナは薄いブルーの長袖を選んだ。ヨシュアには一度、腕の傷を見られている。今更隠したところで何も意味などないのだが、出来る事なら傷を外界にさらしたくなかった。

 フィーナが着替えて寝室を出ると、居間にヨシュアの姿はなく、バスルームから水音がしていた。

 フィーナはソファに座ってヨシュアがバスルームから出てくるのを待った。ヨシュアなど待たず、さっさと寝てしまっても良かったのだが、どうしても言っておかねば気分が悪かった。

 テーブルの上にヨシュアの飲みかけていた無名のワインが少しだけ残っていて、フィーナはグラスを取ってくるとそれに残りのワインを注いだ。きっと三口か四口で飲み終えてしまう量だ。

 聞いた事もない銘柄で、原産地も特に記入がない。しかし味は悪くなかった。フィーナがそれをゆっくりと飲み終えた頃、バスルームからシャワーの音が消えた。

「眠れないのかい?」

 バスルームから出てきたヨシュアの開口第一声はそれだった。ソファに座るフィーナを見ながら微笑むその表情は優しく、安らぎに満ちているようにさえ見えた。

「いいえ、もう寝るわ。出てくるのを待っていたの、貴方に謝りたかったから」

「何を? 君に何か酷い事をされた記憶はないけれど」

「さっき、少し言い過ぎた気がしたのよ。それを謝りたかったの」

 そう言ってフィーナは立ち上がり、寝室に向かおうとする。入れ替わりにソファに座ったヨシュアが顎元に手の甲を当ててクスクスと笑っていた。

「君は正直だな。自分が今どんな気持ちなのか、ちゃんとわかっている。強さも、弱さも、正直に受け止めている。素晴らしい事だと思うよ、それは」

「貴方ってやっぱりアレね。ロマニー。それが貴方を表すのに一番ふさわしいと思うわ」

「ロマニー? ジプシーの事を言ってるのかい?」

「いいえ、夢ばかり見ている人達のことを私はそう呼んでるのよ。綺麗な物を見ては感動して、哀しい事実を知れば泣いてばかりいる人達」

「ロマンチストの事を言ってる?」

「ロマンチストに、貴方ってロマンチストね、なんて言ったらのぼせ上がるだけだから。私はロマニーって言ってやるのよ、愛着と侮蔑をごちゃ混ぜにして」

「侮蔑か……。綺麗な物を綺麗と言う事がそれほどいけない事とは思えないけど」

「えぇ、そうね、悪い事ではないわね。ただ、綺麗な物も何かの犠牲の上に成り立っているかもしれないし、哀しい事も裏では小さな幸せを掴んだ人だっているかもしれない。ロマンチストでいて許されるのは子供の間だけよ。大人になってまでロマニーを気取っていたら、全体が見えなくて自分も他人も傷つけるだけよ」

「……僕は、そのロマニーなんだね?」

 ヨシュアは不意に視線を落とし、何故か小さくクスクスっと笑った。

 そこでまたフィーナは自分が言い過ぎた事を知り、自己嫌悪と罪悪感を胸に抱く。謝るつもりだったのに、また言い過ぎてしまった。なぜかヨシュアを相手にしていると言いたい事をどこまで口にして良いのかわからなくなる。それはヨシュアが以前の恋人に似ているからなのか、それとも彼がいつも微笑んでいて何もかも受け止めてくれそうな雰囲気を持っているからなのか、フィーナ自身も理由はわからなかった。

「ごめんなさい。貴方や、この街の人が間違っているとか、そんな事を言うつもりはないの。ただ、私とは合わないってだけ。貴方が誰かを傷つけるだとか、……そう思っているわけじゃないわ」

 フィーナはそれ以上ヨシュアの側にいる事が耐え難くなり、寝室に逃げ込もうとした。しかし、あと一歩でベッドに飛び込める位置に右足を置ける、その瞬間にヨシュアが不思議なほど明るく落ちついた口調で言葉を発した。

「君は間違っていないよ。僕達は怯えているんだろう、きっと。本当の事を知る事や、自分が傷つく事に怯えている。怖くて怖くて、仕方がないんだ、きっとね。僕は君の強さを羨ましいとさえ思うよ」

「やめてよ、嫌いなの。……合わないのよ、本当に。貴方のそういう考え方が」

「僕は好きだな、君の考え方」

「……やめてよ」

 フィーナは寝室に飛び込むと勢い良くドアを閉めた。その衝撃で部屋の窓ガラスが僅かにガタリと揺れる。

 ヨシュアは空になったワインボトルと二つのグラスを持ってキッチンに向かう。心の芯に刺さる言葉を散々吐かれていたにもかかわらず、何故かヨシュアの心は高揚と安息に包まれていた。

 きっとヨシュアがこの街に住み始めてから数年間、久しぶりに傷つけられたからだ。フィーナの言う通り、この街では誰も他人を傷つけようとしない。優しさばかりに溢れた街だった。ヨシュアの心は生温いだけの優しさに麻痺していたに違いない。

 つまり、退屈していたという事だ。

 フィーナが、ただ静かなだけだった湖の水面に石を投げ、幾つもの波紋を作った。きっとこの矛盾する高揚と安息は、そういう事なのだろう。


 ベッドに入ってからも、フィーナはまた胸の奥を締めつけるような感覚に苦しんでいた。それは完全にヨシュアへの罪悪感からくるものだったが、その罪悪感が呼び覚ますように連れて来る、恋人の幻もその痛みに含まれていた。

「貴方は、私が貴方を弱いと言ったから、それを認めただけよ。認める勇気があるんだ、と自分に言い聞かせたいだけ。私を強いと言って、それに憧れると言って、自分に自分も強くなる意思はあるんだって思い込ませたいだけ。貴方は、自分ではない何かになりたいのよ」

 フィーナは呟き続ける。ヨシュアの前で噛み殺した言葉は殺しきれていなかった。

「何かになりたいだなんて、子供にしか許されないのよ。貴方や、私がそんな事を言えば、それはロマンチストなんかじゃなくて、…現実逃避。そう、現実逃避でしかないわ」

 けれどフィーナにも子供と子供ではない人間の境を決める事は出来なかった。

「夢を見る事が悪いなんて思わないけれど、子供でないなら叶えたい夢は叶うように動かないと。子供みたいに誰かが叶えてくれるのをずっと待っているなんて、バカみたい。…それに、…絶対に叶わない夢を見る奴もバカよ」

 この締めつける痛みがフィーナの心に子供が残っている事の証明のような気がした。

 人は成長するにしたがって心も成長させていく。けれど子供だった部分が全て捨て去られ、失われてしまうわけではない。ただそのどちらに従って人は生きるべきなのか、その基準や正解を人は誰も知らない。

 ただフィーナは今、その子供でないほうに身体を支配させ、子供の支配する人々をロマニーと呼び、嫌っている。

 だがやはりフィーナの中にも子供はまだ生きていて、ヨシュアがクスクスっと不思議に笑う時や、その仕草や言い回しに恋人を思い出すたび、叫ぶのである。

 私を殺さないで、と。


 翌朝、フィーナは何故かずいぶん早く起きた。昨晩は遅くまで何か呟いていて、睡眠時間は短いような気もするのに、不思議と眠気はなかった。

 髪にブラシを当てながら鏡を見ると、ひどい顔だった。きっと夢の中でまで悪態をつき続けていたに違いない。清々しく目が覚めているというのに、鏡に映った顔は眉間に僅かな皺を寄せている。

 ベッドの上に座ったまま、寝室の外に聞き耳を立てるが、特に何も聞こえない。ヨシュアはきっとまだ起きていないのだろう。荷物をまとめて出ていってもヨシュアは何も思わないだろうが、せめて礼ぐらいは言っていこうとフィーナは思った。昨晩、暴言を吐かれた女に早朝から礼など言われたいのかどうかが不安であったけれど、フィーナ自身はその暴言を反省していたから、黙って出ていくとその暴言が自分の本心と思われそうで気分が良くなかった。もちろんその言葉は嘘など全く含まないフィーナの本心だったのだが、後悔はしている。

 寝室を出て、居間に行くとやはり、ヨシュアはソファに座り、テーブルに足を上げて、両手を組んで眠っている。両手には相変わらず手袋をつけていた。

 全てを受け入れるような目をしていながらも、隠していたい何かがあるのだろう。フィーナはその手袋にどこか安堵させられた。

 フィーナは小さな黒いスーツケースを握ると部屋を出た。正午まで時間はまだ三時間ほどあるのに外は暑くなり始めていた。

 さっさとそのケースを渡せば、フィーナがこの街にいる理由は消える。あとは、自分の家に帰るだけだ。

 けれど自分に帰る場所などあるのだろうか? 自分が帰ろうと思っている場所が、本当に自分の居場所で、帰る場所なのだろうか?

 ふと首をもたげる下らない考えに苦笑しながら、フィーナはシガレットケースをあけた。ヨシュアから三本だけ煙草を拝借していたから、口に一本咥えて残りは二本になる。きっと今日中に全て吸い終えてしまうだろう。むしろ日没までも続かない。きっとこれを全て吸い終えれば、これまでと同じ煙草を買って、シガレットケースに綺麗に並べているのだろう。

 そして二度とこの少しだけ匂いの違う煙草を吸う事もないのだろう。

 赤いライターで火をつけて、フィーナは大きく煙を吐いた。その煙の中に僅かばかりの溜息が混ざっていた事はフィーナ自身も意外だった。


 日も暮れかかろうとしていた頃、ヨシュアはようやく立ち上がった。玄関のドアが開閉される音に一度は目を覚ましていたが、何も言わずに出ていこうとしている女を見送るために起き上がるのも間が悪い気がして再び目を閉じた。

 空腹感が眠りを妨げ、仕方なくヨシュアは立ち上がり、キッチンに向かう。換気扇を回し、煙草を吸いながら部屋を見渡すが、見慣れた狭さと静けさに包まれている。

 出ていった女は言い表すなら暴風か嵐のような女だったとヨシュアは思った。部屋の中がその風で掻き回されたような気にもなる。今、こうして静かで誰もいない部屋を見ていると、どこかその騒がしさに喪失感すら抱いている。自分でもなぜそんな気分になっているのか不思議で笑いが漏れた。

 きっと二度とこの部屋に嵐は訪れないだろう。ヨシュアはそんな気がしていた。

 部屋に風が吹き荒れていたのは僅かに半日前、目を覚ましている間の時間ならほんの数時間前だというのに、遠い過去のような郷愁を感じる。

 一瞬にして現実を色褪せさせ、過去に変えてしまう事。それは現実から逃げているという事になるのだろうか?

 ヨシュアの心にはまだ小さなつむじ風が渦巻いているようだった。

 しかしその問いに答えを出せる人間などいるはずもなく、ヨシュアはまるで風を締め出すように煙草を灰皿に磨り潰すと、サックスを持って部屋を出た。


 フィーナはようやく待ち合わせていた人物と接触し、スーツケースを渡す事が出来た。相手の男もいい加減に謝りながらへらへら笑うばかりなので、この数日間の愚痴をありったけ聞かせてやった。しかしそれでもフィーナの気は済まず、その男がフィーナの仕事に必要不可欠な人間でなければ絞め殺しているはずだった。

 それから街で食事をとり、食べ終えると日が暮れようとしていた。

 だから今からヨシュアの部屋に戻って荷物を取って、礼を言って街を離れる。そうはっきりと決めていた。

 この街には確かに不思議な魅力がある。完全な安定があり、ごく自然に見えるのに、誰も互いの距離を侵そうとはしない。居心地の良さが徐々にわかり始めていた。

 けれどフィーナは逆にこの街が退屈に溢れているのではないかという思いも抱き始めていた。

 退屈と安定。その折り合いを見つける事に人は一生を費やすのだろう。安易な心地良さに身を任す事をフィーナは良しとしなかった。

 けれどその街の魅力はまるで麻薬のようでもあり、長く滞在すれば酔ってしまうだろう。

 その原因の一部にはヨシュアもいた。ヨシュアの考え方はフィーナにとって、とても納得出来るものではなかった。けれどもそのフィーナの呼ぶロマニーの思考が、これまで生き抜くためにフィーナの切り捨てたものだという事にも気付いている。

 フィーナの胸の中に出来た穴が、奪われたロマニー思考を取り戻そうとしている。

 そして今までフィーナにその思考が流れ込むのを抑えていた鍵を取り払ってしまったのが、恋人と同じ仕草で微笑むヨシュアだ。

 さっさと荷物を取って、礼を言って、絶対に振り返らず街を出ようと決めた。

 ただ通りすがっただけの街を出るのに決心が要るなんて思いもしなかった。フィーナはヨシュアの部屋への階段を上りながら苦笑いを浮かべる。

 ドアノブを握って扉を引く。

 しかしガツンという金属音がしてドアは開かなかった。扉の隙間を良く見るとロックの止め金がしっかりと刺さっていた。

 フィーナは自分の計画がこんなにも早く、そして容易に崩れ去った事を知り、身体中の力が抜けるのを感じた。

 扉に手をついて、この計画は完全に崩れたのかどうかを検討する。

 フィーナはその結論が出るとすぐに階段を降りて、タクシーを呼んだ。

 計画はまだ立て直せる。ヨシュアを見つけて部屋の鍵を借りれば良い。

「ねぇ、ルーシーってバーは知ってる?」

 そのタクシードライバーは親切だったのか、それとも面倒臭かったのか、そのバーなら歩いても十分程度で行けるほど近いからと言って道順を教えてくれた。

 街の大通りを真っ直ぐ北に歩くと、確かに程なくそれらしいバーが現れた。

 まだ開店していないようだが店の前には何組かのカップルが集まっていた。ヨシュアの言ったように、店の側で誰かを待っているふうな女性も娼婦には見えない。きっと誰かが誘ってくれるのを静かに待っているのだろう。言葉では表し難いが、その街はまるで不健全な臭いなどしないように感じた。

 誰もが温もりを求めているのさ。ヨシュアならそう言うだろう。

 しかしフィーナの目に映る街の景色は、その温もりを得られなかった人々が逃げ延びてきた街であり、敗者が傷を舐め合っているようにしか思えなかった。

 馬鹿馬鹿しい。

 仕方のないことなのかもしれない。

 そのどちらもフィーナの正直な感想だ。

 店の入り口にはまだ「closed」の板が下がっている。しかしフィーナは客として来たわけではない、と理由をつけてそのドアを開けた。

 店の中はもうすっかり準備が出来ているようで、店員も主人も入ってきたフィーナに何も言わない。ちょっと早く仕事を始めるか、という程度の反応だった。

 フィーナはカウンターの奥に立つ主人に、ヨシュアはいるのかと聞く。主人は愛想の良さそうな顔でニカっと笑うとすぐに、驚くほど大きな声を出して彼を呼んだ。

「こんな所にまで来て、どうかしたのかい?」

 ヨシュアはいつもと変わらぬ長袖に黒い手袋という出で立ちで、胸元で腕を組み、相変わらず微笑んでいる。

「仕事を済ませたから、もう帰るのよ。部屋に荷物が閉じ込められているんだけど」

「鍵?」

「そう、鍵を貸して欲しいの。それと、泊めてもらったお礼は言うべきだと思って」

 ヨシュアはズボンのポケットを探ってみるが鍵は見つからないようだった。そしてスイっと奥に引っ込んでいった。きっと上着のポケットを確かめに行ったのだろう。

「お嬢さんだね、ヨシュアの部屋に転がりこんだ美女ってのは」

 不意にカウンターから主人が話しかける。大きな声が客のいない店内に響いた。

「やめてよ。仕方なく泊めてもらっただけよ」

「それを転がり込むって言うのさ、お嬢さん」

 更に大きな声で主人がガハガハと笑いたてる。数人の店員達も自分の方を見ているようでフィーナは気恥ずかしさを感じていた。

「マスター、言い方はどうでも構わないから、お嬢さんって呼ぶのだけはやめてくれないかしら?」

「いくつだ?二十五・六ってところか?」

「残念。三十一なのよ。若作りなの」

「どっちにしても俺より年下じゃないか。俺にとっては六十以下はお嬢さんだ」

「単純ね」

「その方が客ウケも良い」

 また店内に笑い声が響き渡る。

 客は皆、ロマニーだものね。

 フィーナは誰にも聞こえないように呟いた。

 店の奥からヨシュアが鍵を持ってやってくる。

「君の帰っていく街は、ここから遠いのかい?」

「国境を越えてすぐの場所に」

「そうか…」

「えぇ…」

 黒い手袋からキーが転がり、フィーナの手の平に落ちる。

 別れというもの自体がヨシュアには久しぶりのような気がしていた。だが出会ったからには別れも来る。それは当然の事であり、避けられない事だ。ただこの街では皆、別れを恐れていたから、それそのものが回避される方向に日常が動いていた。

 その街の不自然さはヨシュアも気付いていた。しかしヨシュア自身もその不自然の一部であった。

「急いだ方が良いな。国境越えの列車は最終が早いから」

「鍵は?」

「どうせ盗まれて困るものなんて無いんだ。適当にドアの近くにでも」

 それだけ言ってヨシュアはまた奥へと引っ込んでいった。

 フィーナもくるりと踵を返し、店の出入口に向かう。その時、ちょうど開店時間となり客達がゆっくりと入って来る。その流れに逆らっているフィーナを何人かの客は不思議に思っただろうが、フィーナは振り返らなかった。

 急いだ方が良いと言われ、フィーナは歩調を高める。けれどもなぜかつま先が上手く前に出ない。時折、乾いた砂が舞い上がり、フィーナの視界を奪う。その度に歩みは止まった。

 なぜかヨシュアの家までが遠く感じた。水の底を歩いているような感じで、急いでいるのに先に進めない、不思議な重さがフィーナの足に絡みついている。

 部屋に戻り、荷物を取り、言われた通りに鍵を適当に置く。その置き方が今一つ気に入らなかったが、フィーナは急がねばならなかった。

 大通りでタクシーを呼び、乗り込んだ。

 太陽はもう半分が沈み、街の空は既に青く暗い。

 しかしなぜかその日に限って、皆どこに行きたいのだろう、と考えたくなるほど道に車が溢れていた。タクシーはいつのまにか側を歩く人達と同じ速度になっていた。

 まるで街がフィーナを帰したくないとでも言っているような、そんな気になる。

 フィーナはタクシーを降り、大きな荷物を抱えて駅まで走った。

 逃げられないような気がしたのだ。街がフィーナを取り込もうとしているようだ。

 あるいは、フィーナの方が街に染まろうとしていたのか?

 それから数分間走り、走り疲れ、気がつくと太陽も完全に沈んでしまっていて、ようやくフィーナは立ち止まった。駅は見えているが、まだ遠い。

 フィーナは砂の舞う道に荷物を下ろし、その上に腰掛けてシガレットケースを開く。傍を人々が歩いていくが、誰もが安心しきった顔をしているように見えた。誰もどこかに急いで行かなければなどとは考えていない。この街こそが彼らにとって居場所なのだという言葉が思い出された。

 赤いライターの石を擦る。ジジジっと音ばかりして火が一向に点かない。何度擦っても火花が散るだけだった。少し苛々し始め、フィーナはそのライターを投げ捨てようと構えたが、その右手を戻してライターを耳に近づける。スーっと聞こえるはずのガス音がしなかった。そのライターには寿命が来たのだ。雑貨屋で売っているような安物のライターはオイルを注ぎ足すような構造になっていない。その赤いライターもその類のもので、ガスが出なくなれば、ただの赤いプラスチックの塊だった。

 フィーナはその赤いライターをポケットに押し込み、それから立ち上がって荷物を持った。火の点いていない煙草を咥えたまま道を横切り、向かい側にあった雑貨屋で青い安物のライターを買って、ようやく煙を吐いた。

 それから駅とは反対の方向に向かって歩き始める。もう駅に行ってもフィーナを連れ去ってくれる列車はいないから。

 道端に停まっているタクシーの窓ガラスを叩くと、ドライバーがニカっと笑ってドアを開けてくれた。煙草を吸いながら乗り込んでも何も言わない。それどころか灰皿さえ渡してくれる。フィーナには信じられないほど気分の良い待遇だった。

 さっきまでまるで動かなかった渋滞が今はどこに行ってしまったのか、影も形もない。先ほどはずいぶん長く感じた道程も、実際は十分足らずだった。

 何故だろう?

 フィーナはまたヨシュアの部屋に戻ってきた。他に行く当てもないから、と理由をつけても自分で納得できない。

 入り口の前には投げ置いた時と同じ位置に鈍い銀に光る鍵が落ちていた。それでドアを開けて中に入る。荷物をどさりと置き放し、ソファに座り込む。

 ヨシュアはまさかフィーナが部屋にいるとも知らずにサックスを吹いているのだろう。そう思うとどこか可笑しかった。

 けれど自分がこのままヨシュアの帰りを待ち続けている姿は嫌いだったので荷物の中から厚手の上着を引っ張り出すとそれを着て外に出る。

 この街に来て最初の夜は凍え死ぬかと思ったが、今は全く寒くない。時折首筋を撫でていく乾いた風に冷やりと感じるものの、それも心地良い涼しさだった。

 どうせ街にいなければならないなら、思い切り街の色に染まってやろう。まるで焼け鉢な考えだったが、フィーナはどこかそれを楽しんでいた。


 店に戻ると、店内は客達で溢れていた。低いステージにはヨシュアや他の演奏者の姿が見える。その演奏に合わせて踊る客もいれば、カウンターに座る客のように食事をしながら話す者もいる。だが皆は本当に心から楽しそうだった。

 フィーナがカウンターに腰掛けると、あのマスターがフィーナに向かってニカっと笑う。フィーナも仕方なく愛想笑いを返してやると、何を勘違いしたのか、まだずいぶん遠い場所からフィーナに話しかけながら寄ってくる。

「お嬢さん、乗り遅れたか。そりゃあ残念だったな」

 カウンター席に座っている客が全員、演奏を聞いていない理由がわかった。この主人が話している限り演奏は聞こえないからだ。

「マスターが私の歳の事で長話するからよ」

 そう言ってやると主人は少しも悪びれる様子も無く、いっそう大きな声でガハガハと笑い、棚の奥から一本のワインを取り出す。

「何も俺だけの責にする事もないだろう?まぁ、これでも飲んで苛々は忘れろ」

「無銘ね」

「この街ではここでしか出してない。ヨシュアがどうしても取り寄せてくれなんて言うもんだから、取り寄せてみたが、味はなかなか悪くない」

「何かこだわりでもあるのかしら?」

「さぁ、聞かねぇなぁ。だがきっと奴の故郷ででも流行ってたんだろう。若い頃に飲んだ酒ってのは、譬えそれが不味くても忘れられないものさ」

「そんなものかしらね?」

「懐かしい酒ってのは、その味だけじゃなく、過去も味わえるからな」

「さすがね。ヨシュアを雇っているだけあって、言う事もそっくり」

 フィーナの言葉を褒め言葉とでも思ったのだろうか、主人は大きな笑い声を上げた。フィーナは別に褒めるつもりで言ったわけでもない、けなすつもりでもない。ただ似ていると思ったからそう言っただけだ。

「それで、お嬢さんは何の用でここに来たんだ? 帰るって事は、他の連中と違って、何かの目的の途中で立ち寄っただけなんだろ?」

「なかなか鋭いわね」

「この商売も長いからな。街の人間かどうかは目つきでわかる」

「仕事よ。こう見えても考古学者なのよ、私」

「ほう、お嬢さんが偉い先生か? 人は見かけに寄らないものだな」

「いいえ、案外見かけに寄るものよ。だって正確に言えば私は考古学者ではなくて、調査班の人間だもの。私は調べるだけ」

「いやいや、それでも立派なものだ。学問の一端に触れているんだ。無学な俺にしてみれば羨ましいくらいだな」

「それで、本当なら四日前にそのエライ先生に資料を渡すはずだったのよ。それをあのバカ教授は三日も遅れて来たのよ。で、顔を見るなり、遅れて済まなかったね、何か良い事はあったか? なんて言ったのよ。きっと、教授にしてみれば私達みたいな調査班はお金さえ出せば幾らでも代わりがいるんでしょうね」

「お嬢さん、恋人はいないだろう? それもこの何年間かいないんじゃないか?」

「急に何よ? 大当たりだけど、放っておいてくれない。男運が悪いのは昔からなの」

「きっとその先生はアレだな。お嬢さんにこの街で出会って欲しかったのさ」

「は? 誰に?」

「誰かに、さ。ヨシュアに言われて気付いたが、この街は家族のいない者の集まりだ。まぁ、別の言い方をすれば、そこら中に家族の切れ端が歩いているって事だな」

「何? 私にその切れ端を捕まえろって事?」

「その先生ともずいぶん付き合いは長いんだろ?お嬢さんを可愛がっているのさ。不器用にもこんな街に放り出すような方法しか思いつかなかったみたいだけどな」

「ちょっと、笑い事じゃないわよ。私はそのおかげでこの四日間、凍えそうになったり、変な手袋男に頭低くして泊めてもらったり、大変だったんだから」

「お嬢さんには幸せになって欲しかったんだろうな、その先生」

「最低。余計なお世話だわ。そんな道端で小銭拾うように見つかる幸せなんて、誰が欲しがるって言うのよ」

「お嬢さん、それを見つけたからヨシュアの家に泊まったんじゃないのか? 本当にただ転がり込んだだけか?」

「冗談はやめてよ。本当に、ただ転がりこんだのよ」

「俺も勘が鈍ったな。お嬢さんが戻ってきた時に、もしやと思ったんだが」

「乗り遅れたのは渋滞のせいよ。誰にも後ろ髪なんて引かれていないわ」

「そうか…。だったらやっぱりお嬢さんは街を出るのか。ようやくヨシュアが笑ったのは、お嬢さんのお陰だと思っていたんだが、…残念だよ」

「ヨシュアなら、マスターと同じで、いつもニヤニヤ笑っているじゃない」

「顔は四六時中笑っているが、ありゃ死人の顔だ。笑いっぱなしの顔なんざ、無表情と同じさ」

「で、それが私にどう関係するって言うの?」

「あの野郎、お嬢さんが最初に泊まった次の日、ここに来るなり言ったんだ、昨日の晩に妙な女を拾った、ってな。ヨシュアの奴、困ったような気恥ずかしいような顔してやがった。当然だな、あいつはこの街に来てから、自分の部屋に女を入れた事がなかったんだから。自分でも不思議がってたよ、どうしてあんな事をする気になったんだろう?って」

「困った顔をしたから、死んでいた笑いが生き返ったって?」

「まぁ、そういう事だ」

「それも良い迷惑だわ。最初の晩は、ヨシュアが突然誘ってきて、私も寒くて死にそうだったから、仕方なく泊めてもらっただけ。それで私がヨシュアを生き返らせたなんて言われたら、本当に困るのは私の方よ」

「お嬢さんの言い分もわからんではない。だが、この街で俺はヨシュアの親父代わりみたいなものだと自分で決めている。お嬢さんの先生がお嬢さんに幸せになって欲しいように、俺も奴には生きた生き方をして欲しいのさ」

「気持ちはわかるわよ。気持ちは、ね」

「この店にヨシュアが初めて来たとき、奴は小さな荷物だけ持ってな、このワインをくれって言ったんだ。もちろんその時にはまだこのワインを仕入れていなかったから、俺は奴に、無いって答えた。他の酒なら出せるとも言ったが、ヨシュアはそのままフラフラっと出て行っちまった」

「私にヨシュアの昔話なんて聞かせて、どういうつもりなの?」

「なぁに、俺が話したいだけさ。聞きたくなけりゃ耳を塞いでいても構わねぇよ」

「聞くわよ。なんだか面白そうだし」


 それからしばらくするとまたヨシュアは戻ってきた。

「マスター、この街は誰でも受け入れてくれるって本当かい? 僕みたいな人間でも大丈夫かい?」

 なんて聞きやがるから、俺も言ってやった。

「街は人を選ばねぇ。人が街を選んで住むのさ」

「それなら、僕はこの街を選びたいな。マスターもこの街を選んだから、ここに店を出しているんだろう?きっと同じ街を選んだ者同士、僕とマスターは似ているかもしれないな」

 その時は妙な小僧と知り合っちまったと思ったよ。七年前か。その時は気付かなかったが、あいつの言ったことは間違っちゃいない。この街を選んで住んでいる人間は皆、似たようなものさ。

 店の客、それに俺も、ヨシュアも、全く別の人生を生きているし、趣味も価値観も違うだろう。だがな、奴の言うように、確かにこの街は居場所の無い人間の集まりだった。帰る場所のない奴らが集まって、一緒に帰る場所を作ろうとしているのが、この街だったのさ。

 俺はヨシュアがそう言うのを聞いて一発で気に入った。二十四・五才の小僧のくせに随分と深いことを言う奴だって、そう思ったのさ。

 だが実際は少し違った。確かに深い眼は持っていたが、ただそれだけで、別に他の奴らと大して変わらなかった。

 この街は確かに、街中で家族みたいなものだがな、優しいばかりで刺激を避けようと思えば全て避ける事が出来る。いつまでも隠れて生きていける場所なのさ。

 その時のヨシュアはこの街に来る連中の中に時々見かけるその類の、死にたがり、って奴だった。生きる事に疲れた奴さ。だからといって死ぬ事も出来ない。だから死んだように生きていける場所を探してこの街に来るんだな。

 本当ならそんな小僧は放っておけば良かったんだが。ヨシュアの眼は本当に深い、そこに俺はもうその時から惚れていたんだろう。頭の中は死んでいるくせに、ハッとさせられるような事を言いやがる。

 この小僧が本当に生きた眼で何かを見たとしたら、小僧の欲しいものなら何でも手に入れられるような、そんな人間になるだろう。馬鹿馬鹿しいが、本当に俺はそう思った。

 逆に言えば、このまま死んだ頭でこの小僧が生きていけば、ただ摩り減っていくだけで、そのうちボロ布になってしまうだろう、とも思った。

 とにかく俺はヨシュアを生かそうとした。その頃のヨシュアは、どこか過去に囚われたような雰囲気があったから、サックスを教えて店に出して、忙しさで昔の事なんか思い出せないようにした。

 ヨシュアが気に入っているワインを取り寄せたのは、あいつに昔を思い出して欲しかったからじゃなくて、そのワインに新しい意味を持たせたかったからだな。

 まぁ、俺の努力の甲斐もあってか、とりあえず腑抜ではなくなった。

 が、まだ前は向いちゃいない。

 生きてもいない、死んでもいない。今のヨシュアは、ただそこにいる、って感じだな。


「良くある話しね。他の街でも見かけるわ、その類の腑抜さんは」

「お嬢さんの目から見て、ヨシュアはどうなんだ?」

「どう、って? ……そうね、ヨシュアが死んでいるのか、生きているのかなんて、良くわからないし、別にどっちだって構わないわ」

「いや、そういう事を聞いているわけじゃなくてな」

「嫌よ。……誰かの為に束縛されるなんて性に合わないの」

「お嬢さんなら、ヨシュアを元に戻せると思ったんだが」

「やめる事にしたの、依りかかっていないと倒れるような関係は」

「出会うのが遅過ぎたって事かな……?」

「わからないわ。もしもっと前に会っていたらなんて、考えても仕方がないことだもの」

「確かにそうだ。……ヨシュアは、もしかしたらそういう運命の男のなのかも知れねぇなぁ」

「気に入らないわね、そういう考え方は。彼がこれからどう生きるかを、運命なんかに左右する事なんか出来ないと思うわ」

「良い考え方をしているな。奴次第って事か」

「誰だって、きっとそうよ」


 ヨシュアの演奏が終わり、店内からは拍手が起こる。多少は義理の拍手も当然含まれているが、少なくとも不評ではなかった。

「マスターがベラベラ話しているから、ちゃんと聞けなかったわ」

 フィーナは主人をチラと見て笑った。

「それは悪い事をしたな。ヨシュアのサックスが聞ける最後の機会だったのにな」

「最後、か…。そうね、最初で最後の機会だったのよね」

「今ごろ気付くなんて、お嬢さん、ずいぶん酔いが回ってるんじゃないか?」

「それなりにね。悪い気分じゃないわ」

 フィーナは自分の頬に手を当ててみる。いつもより熱い気がした。

 ステージの袖へと降りていったヨシュアが小さなケースを持って店の奥から出てくるのが見えた。主人の言った事が思い出されて、ヨシュアの顔をじっと見てしまうが、やはりその表情は薄っすらと微笑んでいて、生きた顔かどうかなんてわからなかった。

 出てきたヨシュアはすぐに傍のテーブル席に座っていた女性に捕まり、その女性と数分話して、そこを離れるとすぐにまたカウンター席の別の女性に話しかけられていた。

「演奏の割には人気者ね」

「奴はまだ若いし、線も細い。お嬢さんより少し年上の女には良く気に入られているよ。だが奴はそんな事、全くお構いなしだ」

「頭の中が死んでるんでしょ?そういう事に興味が持てないのよ」

「女に囲まれている時ほど、奴は孤独なのさ」

「やっぱり、マスターもロマニーね。聞いているだけで恥ずかしくなるわ」

「ロマ…? 何だって?」

 主人に向かってフィーナが少し微笑むと、主人は一本の新しいグラスをスウっとフィーナの前に置いた。そのグラスの意味がわからず、フィーナがグラスの縁を目で辿っていると、肩越しに手袋をつけた手が伸びてきてグラスを取っていく。

「乗り遅れたのかい?」

「間に合っていたら、こんな所にいないわ」

 ヨシュアはフィーナの隣に座り、いつのまにか三分の一まで減っているワインを自分のグラスに注いだ。

「もう一晩だけ、泊めてもらえるかしら?」

「もし断ったら、行く当てはある?」

「ないけれど、なんとか探すわ」

 それを聞いてヨシュアはクスクスっと笑う。フィーナの口調から、ヨシュアには断ることが出来ないと確信している事が感じ取れたからだ。

「もう今更、断る理由なんて無いさ。断るなら初めの晩からそうしているよ」

「貴方って、バカが付くくらいのお人好しよね」

「僕も最近そのことに気付いたよ」

 ヨシュアはグラスのワインをクイっと口の中に流し込む。

 不意にヨシュアが立ち上がり、どこかに歩いていくのでトイレにでも行くのだろうと、フィーナは彼を目で追っていたが、その進行方向に店の出口があったので、フィーナも急いで席を立ち、後を追った。


 店の外は完全に闇で、酒気を帯びて熱くなった頬が夜風の冷たさを感じていた。

 しばらく二人は無言で歩き、その足音だけが不規則なリズムで響いていたが、次第にそのリズムにも慣れ飽きてきた。

「ヨシュア、その手袋、どうしていつもつけているの?」

 どんな弾みでそんな事を聞いたのかはわからない。明日の朝にはこの街を出るのだから、どんな理由でヨシュアがいつも手袋をしていようとフィーナには関係のないことなのだが、どうせなら聞いてみようと思ったのかもしれない。だからフィーナはヨシュアがその質問に答えなくても構わなかった。

「君も長い袖のシャツしか着ないだろう? 僕も同じような事さ」

「見せたくないから隠しているって事ぐらい、言われなくてもわかるわ」

「もし、僕が君の傷について尋ねたら、君は話せるかい?」

「…そうね、貴方になら話せるかもしれないわ」

「なぜ、僕には、なんだい?」

「もう二度と会うこともないだろうし、貴方が昔の彼に似ているから。別れてから私がどれほど苦労したか愚痴を言いたいのかもしれないわ」

 それからまたしばらく無言だった。

 時折、ヨシュアが歩みを止めてフィーナを振り返る。フィーナはそれを見て、自分の歩調がだんだん遅くなっていた事に気付き、少し歩調を速める。

「僕を彼に見立てて愚痴を? そうまでして愚痴を言いたいなんて、ひどい男だったのかな?」

「ひどい別れ方よ。貴方にそっくりのロマニーだった」

「すると、僕もひどい男か。君のロマニー嫌いは彼のせい?」

「そう、そうね、その時からよ。もうロマニーとは関わりたくないって思ったから」

 そこでまた言葉が途切れ、静かなまま数分間歩くと、二人は部屋についた。

 フィーナは部屋に入るなりすぐにソファに座り込む。やはりヨシュアは仕方なく壁に寄りかかるしかなかった。

 ヨシュアはキッチンに向かい、煙草を一本取り火をつける。彼が煙草を咥えたまま居間に戻ると、フィーナもシガレットケースを開いていた。

「三年前、私はこの街から砂漠を挟んで西にある街にいたわ。その街の近くに古い遺跡があって、…私が考古学の調査班だって話した?」

「いいや、話してない」

「考古学の調査って言っても、それらしい事は何もしていなかったのよ。適当な場所を見つけて、適当に調べて、適当な事を発表して。適当な発表にはすぐに反論が出るから、私達は更にその反論をして。するとまた反論、反論、その繰り返し。長く続けるほど、マスコミやら何やらが持て囃してくれるから、バカな事を言えば言うほどお金は儲かったわ。学会の荒らし屋みたいになって、追放寸前だった」

 煙草の灰が長くなったのでそれを灰皿に落とす。二人の煙草が出す灰は微妙に色が違った。

「そこでその彼が言い出したのよ、そろそろ他人にも自分にも誇れるような調査がしたいって。その時の私はそれに本気で賛成したわ、今考えるとバカみたいだけど。普通の結果が出せなかったから私達は荒らし屋になったのよ。彼はロマニーだから、そんな事も忘れていたのよ。私もね。それで、私達が選んだのがその遺跡だったのよ」

「僕も、一度だけその近くに行った事があるな」

「ここからそんなに遠くないものね。

 それで、その時の私達は本当にやる気だった。それまでみたいに行き当たりばったりで現地を探したりしないで、お金を出してガイドも雇った。長期間、調査できるように装備も設備もそれまでの何倍もお金をかけたわ。本当の事を言うと、私もその時はロマニーだったんだわ。

 でも結局、荒らし屋はそれ以上になれないのね。ガイドの事務所にも私達の噂は聞こえていて、私達にちゃんと使えるようなガイドは用意してくれなかったのよ。そうとも気付かずに私達はガイドの言う事を全然疑いもしないで付いて行ったわ。

 ガイドを雇うなんて慣れない事はするべきじゃなかったのね。そのガイド、地図の北と南もわからなくて、間違った道に私達を案内したわ。

 その後、どうにかして目的地には行けたけれど、予定の南側ではなくて北側から入ったものだから、テントを張る位置も北側に変更した。そこで予定通りに南側にテントを張らなかったのは、結局適当だった頃の癖が抜けていなかったのね。

 ヨシュア、その辺で十年ぐらい前に何があったか憶えてる?」

「二年ほど内紛が続いていたはずだ」

「私達はその事も知らないわけでもなかった。その時もまだ現地は緊張していたから、いつでも逃げる準備だけはしていたわ。けれどまさか宿営地の下に不発弾が散らばっているなんて思いもしなかった。一晩、そこで過ごして、次の朝だった。

 これは…、その時、飛んできた破片のせいで出来た傷よ。でも驚いた事に腕から先が失くなっているのにほとんど痛みなんて感じなかった。ただ助けを呼ばないといけない、って思うばかりで、本当にパニックになっていたわね。

 だから残された右手で落ちた左手を拾って街まで走ったのよ。異常だと思うでしょ?」

「あぁ、僕なら拾えなかっただろうね、自分の腕なんか。きっと痛みと恐怖で気を失っただろうな」

「貴方なら、きっとそうでしょうね。でも私は、女だから。子を産む痛みに比べれば、腕が一つ無くなる程度、耐えられるのよ」

「子供が?」

「いないわ。私に子供がいなくても同じ事よ。男に比べて女は痛みに強く出来ているのよ」

「そうかもしれないな」

 フィーナは上着のポケットをゴソゴソと探り、一本のライターを取り出すとヨシュアに投げ渡した。

 ヨシュアの手袋の中に落ちたそれは真っ赤なプラスチック製のライターで、光に透かして中を覗いても、もうオイルは残っていなかった。

「これは?」

「落ちた左手が握っていたの。調査班の誰の物か知らないし、どこにでも売っている安物だけど、彼の形見代わり。貴方にあげるわ」

「そんな大切なものを、僕にくれたりして良いのかい?」

「もう私には必要ないから。彼と約束していた仕事も今朝、完全に終わらせたし、昔の男の持ち物をいつまでも持っておくのって、性に合わないのよ」

 ヨシュアは静かに笑いながらそのライターをポケットに入れた。その様子をしっかりと見届けて、フィーナもフッと笑みを漏らす。

「やっと、持ち主に返せたような気がする」

「役に立てて嬉しいよ」

 それからフィーナはふぅと大きな息を吐き、狭いソファに身体を斜めに預けると、やや長い瞬きをした。

 フィーナが自分の事についてこんなにも話したのは当然酔いのせいなのだが、自分の事を語るというのは案外に他の事について話すよりも疲れる。話したい事を全て言い終えて、フィーナは少しだけ眠気を感じていた。

 そんなフィーナを見てヨシュアは彼女の話がそれ以上続かない事を悟り、シャワーでも浴びようとバスルームに向かって動き出す。

「あら。私にだけ話させるなんてズルいわ」

「君が起きていれば話すよ」

 ヨシュアはそう言ってバスルームに入った。

 フィーナはヨシュアの手袋の理由など本当にどうでも良かった。しかし自分だけ話して、相手は話さないという事が、どことなく不公平で、また自分が軽くあしらわれたような気になって気に入らなかった。


 ヨシュアがバスルームから出てきた時、フィーナは眠っていた。昼間に走りまわった疲れと、気分の良い酔いのせいで、本当ならグッスリだっただろう。

 しかしフィーナが扉の開く音で目を覚ます事が出来たのは、そのソファの寝心地があまりに悪かったからかもしれない。

 フィーナは身体を起こし、正面に真っ直ぐと座りなおすと目の前に立つヨシュアを僅かに見上げる。

 ヨシュアは仕方のない、諦めたような微笑みを向けると、自分の右手の袖をグイと引き上げた。

「どうしても聞きたいのかい?」

 手にピッタリと張り付いた手袋を外しながらヨシュアは言う。

 フィーナはその顔を見て、どこか自分が無理に言わせているような気にさせられていた。

「そんなに聞きたいってわけでもないわ。貴方が嫌なら、変に探る気も無い」

「別に嫌じゃあないな。君になら話しても構わないよ」

「私には? 私が傷を持っているから、仲間意識で?」

「さぁね。そうかもしれない。ただ、君には話しても良いかなって思ったんだよ」

 外した手袋をテーブルの上に置き、ヨシュアは上着の袖を更に肩口までたくし上げる。

 現れた腕はどこにも傷なんて無い。しなやかで細く、肌も透けるように白い。傷どころか痣を探すのも難しそうな腕だった。

 ただ、ヨシュアの顔とその腕を交互に見比べると異常なほどの違和感を感じる。

 ヨシュアは更に左手の手袋も外し、右腕と同じく袖をめくる。

 フィーナがその不自然さに首を傾げ、眼を細めているとヨシュアがテーブルを周り込み、フィーナのすぐ側まで来る。そしてそのしなやかな手を、甲を前にしてフィーナの目先に持ってきた。

「貴方…、男よね?」

 なんの脈絡もなしにフィーナがそう問いかけたが、それも無理無い。

 ヨシュアの肩から伸びる両腕はヨシュアの肌の色よりも微妙に白く、指もとても細い。すぐ側に置いたフィーナの手に負けないほどのしなやかさだった。

「僕の手じゃないんだよ」

 ヨシュアはフィーナから一歩離れ、着ていた上着を脱ぐ。細く、贅肉など少しもついていない身体だ。

 けれど、贅肉よりも醜く、ヨシュアの肌とは違う色の肉片が、まるでパズルを組み合わせたようにその身体に張り付いていた。目を凝らすとその境目に消えそうなほどに見事な縫合痕が見えたが、それが尚更に違和感を演出していた。

「君がそんな顔をする必要は無いよ。僕が君の傷の事を知ったからって、そんな理由で見せるほど僕は軽はずみじゃない」

 無理矢理にその傷を見てしまったのではと、罪悪感を顔中に表すフィーナに向かってヨシュアは静かに言った。

 そして上着をもう一度着直すが、手袋はつけない。袖口から見える白い手首が彼のものではない事に、フィーナは頭を混乱させていた。

「人にこの手の事を話すのは初めてかな…」

「いいのよ、話したくないなら話さなくても。どうしても知りたいわけじゃないから」

「僕が、話したいんだ。君が彼のライターを捨てたように、僕も何か切りをつけたいのかもしれない」

「じゃあ、話して。聞くから」

 フィーナはソファの上で身体を少しずらし、片側に狭い隙間を作った。この部屋に戻ってきてからヨシュアはまだ一度も腰を下ろしていない。昔の事を語らせる上に立たせたままなのは少し悪いような気もあり、逆に自分が立つのも面倒で、無理をすればこの小さなソファに二人同時に座れるのではないかと思ったのだ。

 そして、思ったよりもそのソファは広い横幅を持ち、二人はそれほど窮屈なわけでもなく座る事が出来た。

「君が調査をしていた遺跡、あの辺で十年前に内紛があったと言っただろう?僕も、そこにいた」

「貴方が、兵隊だったって言うの? 想像できない…」

「行きたくて行ったわけでもないさ。二年間、弾も届かないような場所で適当に過ごして、それで兵役を終えて故郷に帰るつもりだったよ。

 僕は上手い具合に希望していた戦地に配属された。遺跡の他にはちっぽけな町と砂しか無くて、内紛が終わるまで絶対に安全だって噂だった。僕以外の仲間も皆、これで兵役が済むなんて幸運だって喚いていた。中には故郷から恋人まで呼んでしまった仲間がいてね。気さくな奴で、二人はもうすぐ結婚するからこれが新婚旅行だなんて言っていたよ。その兵士といると僕は戦争なんて馬鹿馬鹿しく思えた。だから、僕は彼と友達になったんだ。僕と彼と彼の恋人と、三人で遺跡見学にも行った。見学していたのは二人だけで、僕は上官が来ないように見張る役回りだったけれど楽しくて、そこが戦地だなんて忘れていたな。

 でも、普通に考えればすぐわかる事だったのさ、戦場には二年間も安全な場所なんか無いって事は。

 気がつくと知らない兵士達が目の前にいて、こっちに銃を構えていた。仲間達はそこが戦場になるなんて予想もしなかったから、自分の靴を見つける前に倒れたよ。

 まるで、地獄だった」

 地獄という言葉にフィーナはテントが吹き飛ばされた景色を思い出してしまった。フィーナは本当の戦場を知らない。だからどんな状態が地獄なのだろうと、記憶を辿り、これまでに見た事のある映画のシーンなどを思い出してもみたが、どれも映像的で地獄には遠い。フィーナの思い出せる最悪のものが、実際に自分の身に降りかかった惨事だった。

「そう言えば、君も良くあそこから生きて戻れたよね」

「貴方の方が不思議よ。相手は貴方を殺そうとしていたのに、見逃してくれたなんて」

 ヨシュアはクスっと笑い、話を続けた。

 今のきっかけで話を中途半端に止めてしまってもフィーナは構わなかった。けれどヨシュアは話を続ける。本当に彼は話してしまいたいのかもしれないと思い、そこからは静かに聞くつもりになった。

「見逃したわけでもないんだ。その時、相手の使っていた銃弾が特殊なものだったから、僕が死ぬのを見届ける必要は無かったんだよ、きっと。それが、身体の中に入ると自動的に弾の中の火薬が発火する、僕はその仕組みもそんな弾があることも知らなかったけれど、後で僕の中に入っていた弾がそれだったと教えられたよ。

 僕は、運が良いのか悪いのか、身体の一部と、両手が燃えただけで、それ以外の弾は上手い具合に不発だったらしい。他にも不発弾の処理を受けた仲間がいたから、きっとその弾は失敗作だったんだよ」

「貴方の手、もしかして、その彼女の…?」

「そこは地獄だったのに、救護班がついた時に、僕はまだ死んでいなかったそうだ。でも身体中の火傷と、吹き飛ばされた両手のせいで、絶対に助からないはずだったんだ。

 でも、そこは地獄だった。僕の手当てをした医者がとても普通ではなかった事と、僕に覆い被さるようにして友達の恋人がほとんど無傷の死体になっていた事。それと、隊員の一人が婚約者を連れこんでいるって事が半ば公認になっていた事。

 勘違いした医者が、お節介にも僕の肩に彼女の手をつないだよ。火傷も全部、天才的な技術で彼女の皮膚を移植してくれた。彼にしてみれば、良い事をしたつもりだったんだろうね。

 でも僕にはそれが地獄だ」

「そんな…、他人の手をつなぐなんて。そんな事出来るはずがないわ」

「僕も、そのうちにこの手が落ちて、僕も死ねる日が来ると思っていたよ。

 でも、落ちないんだ。僕も奇跡を受けたんだろう。ただ、地獄で受けた奇跡なんてロクなものじゃない。

 僕はその時、気絶していたから知らなかったんだ。僕の友達もどうにか生き延びていたんだよ。

 お互い良く生き延びたものだと思って、自分の身に起きた不幸を呪っていたけれど、喜んでいた。その友達に会って、助かった事を笑い合おうと思っていたんだ。だから僕は彼に会いに行った。会った瞬間は彼もすごく喜んでくれたよ。それから、彼と良く一緒に飲んでいたワインで生還を祝うつもりだった。

 でもまさか、彼が自分の恋人が死んだ事を知らなかっただなんて、思いもしなかった。まぁ、当然だよ、誰も彼に本当の事なんて言えるはずがない」

「惨いわね。助かってもそんな状況だなんて、とても助かったなんて言えないわ」

「結果的に、彼は助からなかったよ。

 彼は恋人の事を本当に愛していたんだ。目隠しをして、三千人の女性が彼に握手をしても彼女を見つけ出せるくらい、きっとそのくらい彼は彼女を愛していたんだ」

「気付かない方が幸せだったのかしら?」

「彼にとっては、その方が幸せだったのかもしれない。でも彼女は気づいて欲しかったかもしれないな」

「惨い…」

 眉間に皺を寄せるフィーナを見てヨシュアがクスクスっと笑う。白い手の甲を顎に引きつけて笑う仕草は普段と変わりない。

「昔話さ」

 確かにそうだろう。フィーナが先ほど話した事も鮮明に覚えてはいるが、その悲しみはもう遠のいている。今は話していたヨシュアよりもフィーナの方が強い刺激を感じているとフィーナもわかっていた。

「僕も女だったら、あの場で気絶せずに、彼女の腕が移植されるのを拒絶できたかな?」

 そう言ってまたヨシュアはクスっと笑う。

「それは、手を拾うほど簡単に出来ないと思うわ」

「手を拾うほど簡単に? それも難しいと思うよ。僕には出来ないな」

 自分ばかり動揺しているようで、いつまでも笑ってばかりいるヨシュアにフィーナは少し腹を立てていた。ヨシュアの傷に比べれば自分のものなんてほんの切り傷ぐらいに思えてしまう。その切り傷に大声をあげて泣いていたようで僅かに気恥ずかしさもある。

「そのせいで、生きる気を失くしたのね?」

「死んでも良いかなって思っていただけさ」

「それで、女にも興味無しなのかしら?」

「女の手で女性に触れるなんて、可笑しいと思わないかい?」

「笑い事じゃないわよ」

 クククっとヨシュアは薄く開いた唇から笑い声を漏らす。ヨシュアにしてみれば、もう何だってどうでも良いのだろう。少なくとも彼の友人が死んだその時はそう思っていたはずだ。

 フィーナは少しも面白くなかった。ヨシュアが小さな微笑みを続ける隣で、彼の顔を見ながら、少しも笑えなかった。作り笑いも出来ない。ただ眉を眉間に寄せてヨシュアの横顔を見ていた。

 いつまでもフィーナが黙っていたからだろうか、ヨシュアはスゥっと彼女の方を向く。

 すると何故かフィーナの両手もピクリと震え、気付くとヨシュアの頬にその手を添えていた。

 その瞬間から急に時間がゆっくりと止まり始めた。

 ヨシュアの頬に添えた手は少しも力など入れていないのに彼を引き寄せる。

 そして気がつくとフィーナは引き寄せたヨシュアの唇に自分の唇を重ねていた。

 それはほんの数秒だったのかもしれない。その行為自体にどんな意味も無く、そして互いにどんな意味も持たせたくないのがわかる。

 ただ、触れているだけ。しかし永遠に近い感覚があった。

 そしてその長い数秒の後、フィーナは滑らかにその両手をヨシュアから離す。指先に微かに残る名残のような体温がどこか苦しかった。

 フィーナは立ちあがり、ソファにヨシュアを残したまま少し離れる。振り返るとヨシュアは少しも微笑まず、ただじっとフィーナを見上げていた。

「気にしないで、ほんの弾みなのよ。貴方があんまり可哀想だから」

「僕が、可哀想?」

 ヨシュアはククっと笑いを漏らす。しかしどこか不自然に見えた。

「それに、私が酔っ払っているから」

「普段の君なら、絶対にしないだろうね」

 フィーナはそのままバスルームに向かって歩いた。そして、扉の前で少し立ち止まる。

「それと、私が馬鹿だからよ」

 そう言って彼女は居間から出ていった。

 その時もまだヨシュアは縛りつけられたようにソファに座っていた。ふと気づいたようにテーブルの上に置いた手袋に手を伸ばし、それに手を入れた。

「可哀想な人間と、馬鹿な人間。どちらが良いんだろうね?」

 結局それは同じ、不器用な人間の事なのかもしれない。ヨシュアは思った。


「フィーナ、明日の朝には出て行くのかい?」

 フィーナがバスルームから戻ってくると、ソファにヨシュアの姿は無く、キッチンから彼の声がした。

「そうね。そのつもりよ」

 ヨシュアはキッチンの入り口に寄りかかりながら煙を三度吐いてから尋ねた。

「フィーナ、君は帰る場所があるのかい?」

「…わからないわ。帰っても良い場所なら知っているけれど、そこが私の帰る場所かどうかなんて…。きっと誰にもわからないわ、そんな事」

「ライターも捨ててしまって、君は今自由だと思うよ」

「えぇ、そうね。帰る場所に帰るのも、帰らないのも自由ね。帰らない理由も、帰る理由も、全然無いわ」

 ヨシュアは煙草を灰皿に潰し、またいつものように小さく微笑む。

「居場所が無いなら、この街が迎えてくれるよ」

 フィーナの横をスイっと通り過ぎてヨシュアは居間に戻り、ソファに腰掛けると両足をテーブルの上に挙げた。

「居場所が無ければ、それも良いかもしれないわね」

 フィーナも少し笑って寝室に入っていった。

 その晩は不思議なほど静かな晩で、目を開けると耳鳴りがするほどだった。


 翌朝、先に起きたのはやはりフィーナの方だった。

 ベッドに座り、耳を澄ましても寝室の外からは音がしない。さっさと髪にブラシを入れ、部屋の隅に脱ぎ捨てていた服をカバンに詰め込むと、それを持って部屋を出た。

 ソファでは胸の前で両手を組んでヨシュアが寝ている。まるでデジャヴュを見ているような景色にフィーナは少し笑う。

 そのまま出て行っても良いと思った。

 別れなど言わずにヨシュアの前から消えても、彼は何も思わないだろう。最初の朝はそう思っていた。

 けれど、今はその逆だ。何も言わない方が、フィーナ自身が楽に街を離れられそうな気になっていた。

「ちょっと、起きなさい。私を拾ったつもりなら、最後のけじめぐらいつけなさいよ」

 しかしフィーナはテーブルの上に乗せられた足を荷物で叩く。

 ゆっくりと目を開けたヨシュアは何も言わずに微笑む。小さな窓から射し込む朝日の中で彼が笑うのを見て、フィーナも微笑む。

「出て行くのかい?」

「ロマニーなら朝は早く起きるものよ。綺麗な朝日を見ないで、どうするの?」

 眠っていた姿勢のまま、ヨシュアは目だけを開けてフィーナを見る。

「行くわ。この時間なら列車にも絶対に間に合う。だからもう絶対に戻ってこないわ」

「行く場所が見つかったのかい?」

「行くんじゃないわ。帰るのよ。私を可愛がってくれる教授もいるし、お金儲けの仲間もいる。私の居場所はきっと、そこなのよ」

「僕は好きだな、そういう考え方」

 フィーナはヨシュアのその言葉を聞いてクスクスと笑った。そしてそのまま笑いながらヨシュアに言った。

「貴方にだって出来ると思うわ。考え方なんて簡単なきっかけで変わるものよ」

「気が向けば、試してみるよ」

「ヨシュア、貴方の居場所は本当にここなの?」

 その答えを待たずフィーナは荷物を持ち直し、部屋を出て行く。フィーナが出て行ったドアを見ながらヨシュアは笑いながら顎に手を添えた。

「別れの挨拶にしては、難しい質問だ」


 その日はいつもの様に吹き荒れていた風も無く、舞いあがる砂に眼を細める事も無かった。タクシーもスムーズに駅までフィーナを送り、トランクに荷物を入れていることを忘れて行ってしまったりする事も無かった。

 ただ妙に日差しが眩しく、フィーナはそれに眼を細め、今日は暑くなるな、と思った。

 けれどそれはもう、自分に全く関係のない心配事になっていた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 雰囲気が最高に好き
2018/10/19 14:22 退会済み
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