けだるい月曜日のマーケット
土日の休日を楽しく過ごしたら、また月曜日が始まって、けだるい表情でお勤めに行く夫を、わたしはさわやかな笑顔で送り出した。
「さて」、と自分に言い聞かせたわたしは、洗濯機を回して、お茶碗を洗い、掃除機をかけて、しばし休憩を取った。
毎日毎日、同じことの繰り返し。なにか楽しいことはないかなあと考えを巡らしても、良いアイデアなど思い浮かばず、このマンションの三階の一室で、一人さびしく、一日の大半を過ごしている。でも、専業主婦だからパートに出て仕事のストレスに悩まされる心配がないし、まだ子供もいないので、赤ちゃんの面倒を見る心配もない。そこそこ給料がいい夫と結婚できたわたしは、わりと恵まれてる方かもしれない。
窓の外を見ると、雨が降っていた。あちゃあと思いながらも、わたしは勢いよくソファーから立ち上がって、洗濯機から洗い終わって濡れた衣類を取り出して、ハンガーに掛け始めた。手に少しひんやりとした冷たさを感じ、耳に響く雨音はその感覚をいっそう強くさせた。
掛け終わって部屋干しにしている室内から、窓の外の雨をもう一回眺めた。窓は少し曇っている。雨のしずくが肉眼でも確認できるほどよく降っている。
「しかたない……行くか」
わたしはそう言ってスーパーに買い出しに行く支度を始めた。ナイロンのパーカーを羽織り、ダークブラウンのレインブーツを履いて、傘を持って外に出た。雨のつぶは大きく、どしゃ降りではないが、傘が無いととてもじゃないけど歩く事は出来ない。
わたしは都内中心に店舗を広げる、やや高級な品が揃っている駅前のスーパーに入った。入り口を抜けるとすぐに果物が並ぶコーナーに出た。柑橘系の黄色やオレンジの果物が無数に積まれている。
店内はがやがやとして、六十代くらいの婦人達がカートを押しながら歩いている。向こうに赤ちゃんを背負った若い女性がカートを押しているのを見た。野菜担当のスーパーの従業員が、台車に載せた段ボール箱の中からジャガイモを取り出して、急いで品出ししている。奥の鮮魚売り場の方に目をやると、白い服と帽子を被った黒ぶちメガネの男性従業員が見えた。
わたしはこの日常があまり好きではなかった。あくせくと、特長なく進んでいく日常が、時間はたっぷりあるわたしを孤独にさせ、とり残されたような感覚に陥れてくるのだ。(暇疲れ)とか(孤独死)とかは、子供がいない専業主婦の若妻のキーワードだ。いつか自分もそんなキーワードどおりの顛末を迎えてしまうのだろうか。
しかし、わたしは生活を楽しくさせるための、ある術を心得ていた。カートを押しながら柑橘系果物が無数に積まれたラックに近づいたわたしは、一玉のルビーグレープフルーツを手に取った。その黄色くて可愛いまん丸を見つめながら、口元を笑わせて呟いた。
「うふっ、グレープフルーツですわ」
わたしはルビーグレープフルーツを二玉、買い物カゴに入れた。
わたしは気分が浮かないとき、語尾を(ですわ調)にして、テンションを上げる。たったそれだけのことで、見ている世界が虹色に輝くのだ。
店内はきらびやかな照明に包まれ、鈴生りをもいできたであろうバナナの房や、シャインマスカット、チープなレッドグローブにキウイなど、色とりどりの果実が並ぶ。
――今日は何にしようかしら。
カートを押しながらふと目をやると、紫がかったレッドキャベツが大事そうに陳列されていた。
わたしは閃いた。そうだ、今日はレッドキャベツを使ったコールスローを作ろう。一緒にミニキャロットも必要だわ。彩りが欲しいもの。わたしはレッドキャベツを買い物カゴに入れてミニキャロットを探した。ちょっと高級なスーパーは変わり種の野菜も豊富に取り揃えられていて、たいしてきょろきょろしないうちに、わたしはミニキャロットを見つける事が出来た。
――今日はインターネットのレシピを見ながらコールスローですわ。セレブの料理人ですわ。
お目当ての品が見つかってうきうきしたわたしは、お肉や鮮魚のコーナーを通り過ぎてデリカコーナーへ行った。適当にアジフライを一パック選んだ後、他のコーナーで必要な雑貨類を選んで回り、レジ前に並んで行った。
待ちながらわたしは悟った。ちょっと語尾を変えるだけでセレブな気持ちにわたしはなれる。今日は買う物が少なかったですわ。まあいいか、どうせ暇だし。
そう言い聞かせたわたしは、早く家に帰ってお昼寝したいなあと思った。レジで会計をしている時、窓の外を見ると大粒の雨が降っていた。
――はい。三千円ですわ。はい。確かにお釣りを受け取りましたわ。どうも、ありがとうございましたわ。
わたしは心の中でそう言いながら、買った商品が入った買い物カゴを持って、レジを去った。
雨は萎えますわァ、ほんとに。なんとかならないの?
そんな感じで不機嫌になりながらも、わたしは上から目線で心に余裕を作り、けだるく暗い月曜日を、安定した精神ですり抜けていた。
家に戻ると、わたしは昼ごはんを作り始めた。と言っても、昨日の日曜日に出前で取った余りのピザがメインだった。買ってきたアジフライと余りのピザを電子レンジでチンして、あったかいカフェオレを淹れて、食べることにした。テレビをつけて、お昼の気象情報を見た。今日は一日中雨。降りやむことのない雨。とのことだった。
週間天気予報を見たわたしは、少し安心した。淹れたてのカフェオレのあら熱が取れ、ちょうど良い飲みごろの温かさになった。わたしはカフェオレのマグカップを両手で包み込むようにして持ちながら、窓の外を眺めた。
昼ごはんを済ますと、わたしはパソコンを立ち上げて、インターネットを開いた。クックパッドという大きなサイトには、たくさんのレシピが掲載されている。わたしはコールスローのレシピを探した。すぐにお目当ての料理の写真や材料、作り方のページが現れた。
なになに。マヨネーズに塩、酢、ハチミツ……ヨーグルト!? マスタード!? あったかしら。あっ、ヨーグルトはあったね、朝に食べてたもん、残ってるかな……あっ大さじ2しか使わないのね。マスタードは、っと。わたしは立ち上がって冷蔵庫の中にマスタードがあるか確認した。うん、マスタードもあるわね。念のためヨーグルトもあるか調べておこう……あるある、これで問題ないわ。
ヨーグルトとマスタードがあることを確認したわたしは、パソコンでコールスローのレシピが掲載されたページをプリントアウトした。パソコンを閉じて、プリントアウトしたレシピを持ってソファーに寝っころがりながら読んだ。
――調味料の分量は参考程度か……酸っぱすぎるのはイヤだからハチミツを多めにして甘くしてみよう。
ソファー前のテーブルには、さっきの昼ごはんの時から飲んでいる、ぬるくなったカフェオレがあった。わたしはぬるいカフェオレを一口飲んで、レシピをテーブルの上に置いた。室内は掃除が行き届いて綺麗だった。比較的新しいマンションで、室内の壁は真っ白だ。六月で初夏の季節だけど、雨のせいか、そんなに暑くもなく寒くもない体感温度だった。わたしは眠くなってきて、雨音だけが聞こえる薄暗い室内でソファーに寝っころがって目を瞑った。気が付いた頃には起きようとする意識よりも眠りに入る意識の方に気持ちが傾いていた。とても気持ち良かった。
うたた寝を通り越して起きようとする意識が徐々に働いてきた頃、わたしはもっと寝ていようという意志に取り憑かれていた。しかしいくら寝ようとしても寝付けず、頭の意識がはっきりしてきて、ついにはわたしの上体を起こさせた。しばらくぼーっとしていたが、もう夕方だし晩ごはんの準備をしないといけないと思い、わたしは立ち上がった。
レッドキャベツとミニキャロットを取り出して、電気をつけたキッチンに向かった。
「さァて」と言い聞かせて、浅い眠気を押し退けたわたしは、小さなCDコンポでボサノヴァの曲を流した。
こぎみ良いリズムを感じ、わたしは急にやる気になってきて目が冴えてきた。温かい女性の声とフルートの音色が移り変わり、曲のリズムとうまく調和してホームメイドな雰囲気を醸し出している。
わたしはレッドキャベツを千切りにし始めた。
わたしは機嫌が良いときも(ですわ調)になる。そうすることで、お嬢様気分になれるからだ。
ミニキャロットをピーラーで削り、野菜の下ごしらえは完了した。
ボサノヴァの曲が、シンセサイザーのメロディーが流れるキラキラとしたフレーズに入った。下ごしらえをした野菜をボウルに入れて、塩を高い位置からぱらぱらと振りかけ、軽く手でもんだ。スムースに流れるフレーズに乗って、わたしの料理も順調にはかどる。
「調味料を混ぜ合わせますわよ。ボウルにマヨネーズ、多めのハチミツ、……酢、マスタード、そしてヨーグルト、うん、ヨーグルトとマスタードは良いかもしれませんわね。これぞ隠し味ってかんじで。混ぜますわよォ」
調味量を混ぜ終わり、ちょうど十分経ったくらいを見計らって、わたしは塩を振ったレッドキャベツとミニキャロットを水ですすいでよく絞り、味見をして塩加減を確認した。野菜にはちょうど良く塩味が浸み込んでいた。
あとはさっき混ぜ合わせた調味料を野菜に加えて、軽く和えたらあっという間に出来上がった。味見したら完ペキな味付けだった。
「美味しいですわ。甘めのコールスローがこんなに美味しいだなんて……野菜を切ってる時間の方が長かったように感じますわ」
もぐもぐしている口を片手で覆いながら、わたしはぶつぶつ独りごちた。
ボサノヴァのとある曲が流れて、ギターソロのフレーズに入った。うるさくないトリッキーな旋律は、どこかアイロニカルな雰囲気を醸し出し、時々速弾きになったりもする。
こうしちゃいられないと思い、わたしは他の料理もどんどん作ることにした。炊飯器のスイッチを入れ、冷蔵庫の余った野菜で、小松菜、ベーコン、しめじのコンソメスープを作ったり、鳥もも肉を切って焼いたりした。冷蔵庫に余っていたおかずを、レンジでチンして食卓に並べている時に、主人が帰ってきた。
わたしはコンポにかけ寄って、「しばし今日もおわかれですわ」と言って、ボサノヴァを切った。
「ただいま」
「おかえりー」
わたしと主人は各々準備して夕飯の食卓に向かった。
「これ、おいしいね」
レッドキャベツのコールスローを食べた主人が、そう言って褒めてくれた。それを聞いたわたしは、
「ありがと」
と笑顔で言った。
「今日はずっと雨だねェ」
「うん。明日以降は晴れだって天気予報で言ってたよ」
「ほんとにやめばいいけどねェ」
と言って主人はもりもりとご飯を食べている。わたしは初挑戦のコールスローを褒められてうれしかった。またなにか新しい料理に挑戦してみようと思った。
夜、ダブルベッドに入って主人に寄り添った。主人はもうぐっすり寝ていた。わたしは傍らで小さく縮こまって主人のぬくもりを感じた。ちょっと暑くなってきたので縮こまるのはやめて、両手を布団から出して天井を見た。明日から晴れか。わたしは少し笑みを浮かべた。晴れた日は気分が良いから(ですわ調)にならなくても楽しく過ごせるけど、主人に褒められたことだし、お嬢様気分でまた頑張ろうか。わたしは得意のボサノヴァと(ですわ調)で料理しようと決めた。雨音が少し弱まった気がした。
水曜日になった。今日も晴れていた。月曜日の雨がウソみたいに感じるくらい、今日は昨日に引き続いてよく晴れている。梅雨は明けたようだ。
わたしは機嫌が良い。さて、今日は何を作ろうかしら。夫を送り出したわたしは、料理のレシピ本を読みあさったり、パソコンを立ち上げてクックパッドを見たりした。
「やっぱり洋風がいいですわね……初夏にふさわしいあっさりした感じの……そうだわ、ピラフなんていいかも。それに白身魚のフライとか生野菜サラダを添えて……よし、決まり」
わたしはちょっと凝ったピラフを作るため、材料をメモしてスーパーに行く準備をした。今日はローカットのモカシンシューズを履いて、黒い英字プリントが施されたオフホワイトのトートバックを片手に外に出た。青空が広がり、気温がまだ低い午前中の空気はとても爽やかだった。
わたしはいつものスーパーに行った。野菜コーナーで赤や黄色のパプリカ、ミニトマトのアイコ、紫玉ねぎのアーリーレッドにアイスプラント、マッシュルームにかいわれ大根、などなど、気に入ったものも含めてどんどん買い物カゴに入れていった。それから鮮魚のコーナーでパック入りの海老を選んだ。そして輸入品や国産の缶詰が並ぶ棚の前では、コーンの缶詰を探した。わたしはわりと小ぶりの、そこそこお値が高い日本製のコーンの缶詰を選んだ。さらに、〈LIQUOR〉と大きく書かれたお酒売り場に行き、料理用でも飲用でもいけそうな安ワインを求め、そこでビストロワインの白というものを選び出し、買い物カゴに一本入れることにした。
――これでよし、っと。
「これで全部揃いましたわ」と買い物カゴの中を確認しながら言ったわたしは、メモに書いた白身魚のフライが無いことに気付いた。いけないいけないと言ってデリカコーナーに急いで、それを探した。お目当ての品は運良く陳列されていた。
材料たちを揃えたわたしは、レジに並びながら、ぼーっと店内を眺めた。
――みんな、本当に楽しくなさそうね、てゆうか、お金にも時間にも余裕が無さそう。子連れの主婦なんて特に大変そうですわ。ご年配の婦人様は若い頃の美貌は失っちゃってるし――おっほっほ! 言いすぎましたわ。まあせいぜい頑張りなさいな、レジの皆さんも。
レジの若い女性店員が、わたしの買い物カゴの中の商品をスキャンし始めた。
「――321円が1点、429円が1点、パプリカ入ります、213円が2点――」
わたしはふとスキャンしている女性店員の顔を見た。ご年配のレジが多い中、この店員はわたしと同じくらい若く、顔も珍しく可愛かった。忙しそうに働く彼女を見て、わたしは大変そうですわと思った。でも、仕事だから仕方ないですわよねと思った。
――きっと、働かないといけない理由があるんだわ。ほら、結婚指輪をしてる。ご主人様の稼ぎが悪いのかしら。いろいろプライベートが気になりますわ。
「――13点で合計2,982円のお買い上げになります」
はいはい。三千と、二円。若い女性店員はお札や硬貨を機械に入れて、出てきたお釣りをわたしに渡してきた。はいはい、どうも、ありがとうございましたわ。
セレブになる術もだいぶ板に付いてきた。よォし、調子が上がってきた、これから家に帰って軽くお昼寝して、午後からピラフを作るのだわ。トートバックに買った物をささッと入れて、スマートな身のこなしでマーケットを出ますわよ。さあさあ、来ました、はじめましょ。午後のひととき。誰もがうらやむ魔法の時間。わたしだけの時間。うふっ、楽しみだわ。
道を歩いて開いたドア、扉が開いてそれに乗り、扉が開いて廊下です、ドアを開いてマイルウム。
わたくしは歩きながらノリノリだったので、部屋に着くまでの時間がとても短かったように思いますわ。では、遅めのブランチといきますか。
可愛いマグカップにアールグレイのティーバッグを入れて、お湯を注ぐ。昨日のクロワッサンをレンジで十秒チンしている間に、冷蔵庫からマーガリンを取り出す。食卓にランチョンマットを敷いて、それらを並べて……そうそう、アールグレイを忘れてましたわ。
わたしはティーバッグの持ち手をつまみながら揺り動かして、茶葉の成分を抽出させましたわ。ん? これは……。ああ! ああ! ベルガモットの爽やかな香りが漂って、なんとも言えない優雅な雰囲気を醸し出してますわあ! あああなんて素晴らしいの! この気品漂う高貴なふるまい!
わたしは我を忘れて香りにくぎ付けになりながら食卓に向かいましたわ。
テレビをつけてワイドショーの番組をミュートにしながら、ボサノヴァを流しましたわ。ドラムの音出しが合図で転調し、女性ボーカルの温かい音色と一緒に、こぎみ良いリズムがわたしの心を一気に包み込みましたわ。もうわたしは止められませんわ。
明るく真っ白な部屋で、ミュートにした賑やかなテレビ画面とこぎみ良いリズム、耳に響くサンバ調のジャズの旋律、そして、目の前のブランチ、アールグレイ。あああんもう、たまらないわ。早く食べてピラフ作りに移行するのよ。ピラフを作って、いたずら気分でワインを飲むんだから。
バックグラウンドボーカルとメインの女性ボーカルのハーモニーを楽しみながらブランチを済ませて、わたしはバターライスを作り始めましたわ。お水は少なめにして、炊飯器の中のお米にコンソメとバターをのせて、スイッチオン。
「さァて、ここからが本番ですわよ」
そう言ってわたしは気合いを入れてキッチンに向かいましたわ。
赤パプリカ、黄パプリカ、ベーコン、マッシュルーム、人参、普通の玉ねぎ、全てを五ミリ程度のみじん切りにし始めましたわ。
「みじん切りは得意中の得意ですわよ」
……それにしても、(ですわ調)がかなり強くなってきましたわね。まあ、そんなことは気にしないわ。ノリに乗ってる証しですもの。わたくしはボサノヴァを聴きながら鼻歌を歌って、みじん切りの野菜を一つ一つ完成させていきましたわ。
赤、黄色、ピンク、白……綺麗なみじん切りたちですわ。
そして、海老に包丁で切り込みを入れて、背わたを取り除きましたわ。これで下ごしらえはばっちり。
フライパンにバターをしいて、海老と野菜たちを全部炒めて、缶詰のコーンを投入して、塩こしょう少々。そして白ワインを回し入れて――
〔ピーンポーン〕
と、突然呼び出し音が鳴った。
――わたしの白ワインを入れようとしてる手が止まりましたわ。
もう、なんなのよいったい。せっかくいいところだったのに。わたしは仕方なくIHクッキングヒーターの電源を落として、モニターホンにかけ寄った。通話ボタンを押した。
「はい」
「宅急便でーす」
「はい」
わたしはそう言ってオートロック解除のボタンを押した。
届いた荷物は先日ネットショッピングで買った大きなテーブルクロスだった。配達ドライバーの男性がいやにうるさい笑顔を振りまいていて、わたしは機嫌を損ねた。いいところだったのに……ボサノヴァは微笑みかけるように流れている。
じゃまが入ったわ。まったく。わたしの時間をじゃましないでよ。わたしはそう思って再度キッチンに向かって、フライパンの取っ手を持った。せっかくフライパンに白ワインを回し入れて、フランベみたいなことをしようと思ったのに。ワインじゃ炎は上がらないけどさ。お酒を回し入れてジュワアっとかバチバチっとか、雰囲気を味わいたいでしょ。一番盛り上がるところなのに。……しかも、電源を落とすまでは良かったけどさ、IHコンロの上に置きっぱだったから、余熱が通りすぎて、野菜がしんなりどころかベタベタしてきてるじゃない。少しはシャキっとしてほしいわ。
バターライスが炊き上がった。わたしは再度IHクッキングヒーターの電源を入れて、フライパンの中へ諦めがちに白ワインを回し入れた。そしてしばらく全体に熱が通るまで、フライパンの具をグツグツ炒めることにした。
水分が多い。とりあえず、熱が通ってワインが海老と野菜に浸み込んだ態にして、わたしは一人前のピラフを仕上げることにした。ピラフは炊き込み料理だが、今してきたように米と具を別々に作り、最後に炒め合わせるのだ。そうすることで風味が増す。本格的なレシピによると、別に作ったバターライスが炒めた具と絡み合い、香ばしいにおいが加わって、あなたの食卓に花を咲かせるとのことだった。また、炒める事で少しは水分が飛んでくれるかもしれないと思った。
わたしは炊き上がったバターライスと具を一人分用意し、それをフライパンに入れて、混ぜ合わせながら炒めた。……水分が少しは蒸発してくれればいいんだけど……。しかし、フライパンの中は相変わらずベタベタしていた。
「…………」
しかたない。
「――はい、これで一応出来上がりっと」
わたしはそう言って平らな白いお皿に、出来上がったピラフを軽くついだ。そしてワイングラスにビストロの白ワインをたっぷり注いだ。わたしは開き直って、「まったく嫌になっちゃう、……宅急便が来てなければ完璧だったのに、タイミングが悪すぎなんだよゥ」とぶつぶつ言いながら、ワインを飲んで食卓テーブルの椅子に座った。
ボサノヴァの曲が優雅に流れているが、わたしの(ですわ調)は完全に消えた。ワインをごくごく飲んでピラフを食べた。味は普通だった。
ちょっと酔ったのでソファーに横になった。温かい女性ボーカルの早口が聴こえる。天井を見ながら「ヴォンヴォンヴォン、ヴンヴンヴン」とボッサ〔bossa nova〕の真似をして呟いた。それから溜め息をついて、寝返りをうってソファーの背もたれの方に体を向けた。縮こまって自分の腕に顔をうずめて目を瞑り、「気持ちくないですわあ」と呟いた。
寝れなかったので立ち上がり、ボサノヴァは消して、テレビを見た。つまらなかったので消した。その後ぼーっと日中を過ごした。
夕方に晩ごはんの支度を始めた。かいわれ大根、アイスプラントを切ったり、紫玉ねぎをスライスしたりして、適当にサラダを作った。彩りを豊かにするため、半分に切ったアイコトマトを添えた。ボサノヴァは聴かなかった。
夫が帰ってきたらすぐに出来立てのピラフを提供できるようにするため、準備を整えた。バターライスと具をコンロの脇に置いて、すぐに炒め合わせる事が出来るようにした。
夜になって主人が帰宅した。軽く挨拶を交わしたわたしたちは、各々準備して夕飯の食卓に向かった。
「いただきます」
「うん」
「…………」
「…………」
「うん、このピラフ、おいしいね。敦子が作ったの?」
と主人が訊いてきた。
「うん、ピラフは手作り。白身フライはスーパーのお惣菜」
「いやァ、敦子は料理が上手だなあ」
そう言って主人はシーザードレッシングを手に取り、サラダにかけながらこう訊いてきた。
「いつも日中はなにしてるの?」
わたしはボサノヴァばかり聴いている事を隠したかったため、家事を一通りやって夕飯の計画をあれこれ立てている内に、あっという間に時間が過ぎていく旨を伝えた。
「ふうん、そっか。まあ気楽にやってよ。下手でもなんでも遅くても、俺は敦子の作った料理ならなんでも嬉しいよ」
「なんか不満でもあるの?」
「うーん、敦子にはすごい言いにくいんだけど、ピラフ、もう少し“水分”少なくていいかも。あっ、おいしくないって言ってるわけじゃないよ。もともと炊き込み料理だから、ほとんど気にするまでもないレベルなんだけどね。敢えて言うならってこと」
「やっぱり……」と、わたしはごく小さな声で呟いた。主人は気にせずよく食べている。
――わたしの時間が……わたしの時間が……。
完璧なわたしの生活を楽しむ術が崩れた。宅急便のせいで。
――主人は気にせず、おいしいと言ってよく食べてくれた。
夜、主人が寝ているダブルベッドに入って、一日を振り返った。やっぱりピラフの失敗は痛かったなあ。じゃまが入るのはもう勘弁。わたしのお嬢様セレブタイムが台無しになるわ。もう料理はいいや。頑張らない。そうだ、今度主人に内緒でパエリアのデリバリーを取ろう。これでピラフの恨みが晴れるわ。わたしの洗練されたセンスで、パエリアを多国籍料理な雰囲気の世界へ導いてみせますわ、フッフッフ。わたしは寝た。
金曜日になった。今日もよく晴れていた。明日は土日の休日ということで、夫の行ってきますの一声が、どこかウキウキしているように感じた。玄関前で送り出し、茶碗洗いと床掃除を済ませたわたしは、洗濯物を干し始めた。ベランダに出て、夫の白い半袖の肌着や、フェイスタオルなどをどんどん干していった。降り注ぐ太陽の日射しが気持ちいい。わたしは、今日デリバリーのパエリアを取って、(太陽の感謝祭)を行う事にした。
干し終わって家事を一通り済ませたわたしは、パソコンを立ち上げてインターネットを開き、出前をやってる店を探した。今日はスーパーには行かないで、一日中家にいようと決めている。大好きなボサノヴァを聴きながら、窓から晴れを覗いて、インドアで楽しむのよ。
――うふふ、スマートに過ごせるわ。
パート無し、育児無し、年かさ無しの、泥臭さとは正反対の位置にいる専業主婦のわたしは時間がたっぷりある。今日は楽しむのよ。料理などしていられない。出前はその料理する時間を省いてくれて更なる時間を提供してくれるのだ。
――うふふ、わたしの生活を楽しむ術は、なにもスーパーだけじゃないのよ。
都内の二十三区だから、宅配ピザ店のパエリアもあったし、パエリアをメインに扱った専門店というのもあった。わたしは、パエリア屋さんなんてあるのねと思いながら、ここに頼むことにして、電話で注文した。
「……はい。アサリのボンゴレパエリア。……と、アボガドサラダ。……あとオリーブ――」
淡々と注文商品を伝えて、お昼過ぎに到着するように手配を取ったわたしは、(太陽の感謝祭)の前段階にあたる、(午前の真昼)に移行した。
それは、そう。ちょっとしたひととき。
アールグレイを淹れてわたしだけの時間がはじまる。オレンジマフィンでブランチを取ることにした。
わたしは小さなコンポでいつものボサノヴァをかけた。太陽に感謝を捧げるようなイントロから始まり、すぐにいつもの温かい女性ボーカルの声が流れた。オレンジマフィンの甘い柑橘系風味とベルガモットの爽やかな香りを感じ、わたしは窓の外を見やった。青空から降り注ぐ太陽の光はベランダを照らし、室内までは届かない。インテリアは白い壁によく映え、整然としている。やや薄暗い午前中の室内は、空気が澄んで静謐だ。
ボサノヴァだけが心に響く。調子が上がってきましたわ。
曲が、シンセサイザーのメロディーが流れる、キラキラとしたフレーズに入った。シンセサイザーのソロだ。わたしは例によってお嬢様気分になった。今年に入ってから、わたしはボサノヴァを相当聴き込んでいた。一見ボサノヴァの日向ぼっこしているような音は、お嬢様と関係が無いように思えるが、ソロのシンセサイザーのパートだけを聴いていると、メルヘンチックなメロディーが流れているのがわかる。わたしはその時だけお嬢様気分になるのだ。じっくりと耳を傾け、ソロに集中する。このお嬢様タイムはとっても貴重な時間。だって、長々と続くお伽話なんて嫌なんですもの。
(午前の真昼)に酔いしれたわたしは、軽く仮眠を取ることにした。(太陽の感謝祭)は長い。パエリアが届いてからの一人パーティーまでに、体力を温存しておかなければならない。わたしはソファーにしばらく臥すことにした。
――突然、呼び出し音が鳴ってわたしは目を覚ました。
パエリアが届いたのであった。わたしはモニターホンのオートロック解除ボタンを押し、配達員にお金を払って、パエリアを受け取った。何もしないでご飯が食べれるとは幸せだ。時計を見ると昼の十二時半。たいした事をしてないのにわたしのお腹は空いている。食卓にパエリア、アボガドサラダ、オリーブを並べて、ワイングラスに赤ワインを注いだ。ボサノヴァが流れている中、テレビをつけてミュートにした。そしてわたしはひとり、昼食を取ることにした。
――うーん! パエリアの香ばしいかおり。殻付きのアサリの濃厚な味わい。おっと前菜のアボガドサラダを忘れてましたわ。みずみずしいレタス、そしてわたしの大好きなモッツァレラチーズ。ドレッシングと絡まった奥ゆきあるチーズの風味はなんとも言えませんわ。ワインを飲んでオリーブをつまむ。全ての豊作に感謝しなければなりません。メインのパエリアはパラっと仕上がるも、全体的にふっくらした出来で、とても美味ですわ。これで先日のピラフの恨みが晴れましたわ。テレビを見ると、ちょうど気象情報をやってましたわ。週間天気の表が出てきましたわ。明日から雨――(雨の土日)ということですのね。ちょっと残念ですが、この(太陽の感謝祭)を目一杯楽しんで、良い週末を迎えますわね。アナウンサーさん、お仕事お疲れ様です――。
こぎみ良いリズムに合わせて、わたしは(ですわ調)と、(普通)の丁寧な感情表現を繰り返した。(普通)を(ですわ調)に織り交ぜることで、疲れないし、不意打ちの宅急便が来た時も即座に対応出来る事に気付いたからだ。
美味しくて、わたしはワインが進んだ。いい気分に酔った後、わたしは締めのデザートを食べることにして、冷凍庫からラムレーズンのカップアイスを取り出した。これは、高級な部類に入る乳脂肪分が高い(アイスクリーム)という物だ。
カップのフタには〈ラムレーズン 秋冬限定〉と書かれている。夏は売っていない。なぜなら、揮発性の高いアルコールを使ったラムレーズンにより、アイス部分が溶け易くなるからだ。そのため、温度が高くなる夏場では品質管理が難しく、販売されない。
仮に、暑い夏場にコンビニ等でラムレーズンのアイスクリームを販売したと考えてみよう。暑い中ラムレーズンのアイスクリームが食べたくなって、コンビニで購入して外に出る。しばらく暑い外を歩いて、少し汗をかいて帰宅した頃には、既に手提げ袋の中身はぐにゃぐにゃのカップがひとつ、つまりはラムレーズンのアイスクリームが完全に溶けてしまっているのだ。そんな懸念があるので、非常に溶け易いラムレーズン味は、春と夏は販売されず、気温の低い環境下である秋から冬の終わりにかけての限定商品として販売されているというわけだ。
わたしはそれを冬に買いだめして、自宅の冷凍庫に保管しておいて初夏を迎えたのだ。六月に冬の限定品が食べられるなんて有り難い。わたしはフタを取ってフィルムをめくり、このカップアイス専用のプラで出来た使い捨てスプーンを用いて、アイスクリームをすくって食べた。
ボサノヴァの音色が天国を流れている。しなッと噛んでしみだすラム酒の味にバニラアイス。午後の外は暑くなってきて日射しが降り注ぎ、都会の喧騒が聞こえる。室内は暑くもなく寒くもない環境で、食後の酔って火照った体を甘く冷ましてくれる。(蜜の午後)だ。わたしは再び酔いしれた。食べ終わってソファーに横になる。
――うーん至福のひととき。パエリア、ボサノヴァ、ラムレーズン、ボサノヴァ。酔ってしまいましたわ。アイス食べたら酔いが醒めると思ったのに、未だに心臓がバクバク言ってますわ。まあなにはともあれ、気持ちいいですわ。このまま寝るしかないですわね……天気もほら、こんなに晴れて、ポカポカ日射しが、あったかい……。
〔ピーンポーン〕
と、突然呼び出し音が鳴った。
――うう、なんですの……。
ふらつくようにモニターホンに向かっていき、やっとの思いで通話ボタンを押したら、また不意打ちの宅急便だった。さすがに寝ている時に来られては、咄嗟に対応する事は出来ない。
――もう! なんなのよ! いいかげんにして! わたしの時間をじゃましないで!
「どもーハンコおねがいしまーす」
「はい――」
「はいありがとございまーす」
――配達員はそう言ってさっさと去って行った。
届いた荷物は実家の母からだった。たまに心配して野菜や食料品を送ってくれるのだった。大きな発泡スチロールの箱は結構重い。伝票の摘要欄には〈なまもの〉と書かれている。クール便か……。きっと魚や肉、生菓子の類が入っているのだろう。
――もう! 母さんも宅急便もタイミング悪すぎなんだって! ちょうど寝ようとしてるとこなのに。(なまもの)を冷蔵庫にしまわないといけないし、こんな大きな発泡スチロール箱処分に困るわよ! ああもう面倒くさい! しらない! ほうっておく!
わたしは冷蔵庫の手前に重たい発泡スチロール箱を置き、それを無視して放っておいて、さっさとソファーで寝入る事にした。ボサノヴァの音量は小さめにして、仰向けにソファーに横になった。窓から入ってくる日射しが、ちょうど自分の素足にあたってぽかぽか暖かく、心地よいリズムを感じてじきに寝入った。
――意識が朦朧としている中、激しい雨音で目が覚めた。
部屋も外も真っ暗だった。わたしは目をこすって背伸びをして、部屋の電気をつけた。目が暗闇に慣れているせいか、蛍光灯の明かりがとても眩しく感じた。
――いま何時……って、もう夜の六時なの? 寝すぎたわ。夫が帰ってきちゃう。晩ごはんの支度しなくちゃ。
わたしは急いでキッチンに向かった。食卓を見ると、パエリアの箱やら食べかけのサラダやワイングラスなどの残がいが、いろいろ散乱していた。
「…………」
しかたないと自分に言い聞かせて、わたしは味噌汁を作るため、鍋を火にかけて豆腐を切り始めた。キッチンで調理していると、大きな雷の音を聞いた。バケツをひっくり返したような雨音が激しく響き続ける。ふいに、洗濯物を取り込んでない事を思い出した。わたしは慌ててベランダに出て洗濯物を取り込んだ。が、間に合わず、肌着の裾やタオルからは水滴がしたたり、既にぐっしょりと濡れていた。雨が降り出した後も、わたしは本降りになるまで気付かずに、ぐっすり眠っていたのだということがわかった。
――寝たのは二時頃で六時に起きたから……四時間も寝ていたのね。ということは夕方くらいに雨が降り始めたのか。天気予報では雨は明日からって言ってたでしょ。今日は晴れじゃなかったの? もう! わたしの時間をじゃましないでって言ってるでしょ!
わたしは取り込んだ洗濯物を仕方なく洗濯機に放り込み、窓を閉めた。雨音が幾分和らいだ。そして、母から届いた(なまもの)を冷蔵庫にしまわなければならない事を思い出した。次から次へとやらないといけない事が出てきてイライラした。
わたしはミュートにしているテレビを消した。そして、ボサノヴァを小さな音量で流していたことに気付いた。雨音がうるさすぎて、ボサノヴァを小さな音量で流していたのをすっかり忘れていたのだ。耳を澄ましても、未だにバケツをひっくり返したような激しい雨音しか聞こえない。
その時、一瞬光った。また怒号のような雷が鳴った。そして、わたしの携帯電話が振動とともに大きな着信音を鳴らして、テーブルの上を這いずり回った。今度はなによとわたしは半分頭にきながら、携帯電話を取り上げ電話に出た。夫だった。
「あ、敦子? いま仕事なんだけどさ、きょう金曜だから職場のみんなで飲みに行くことになったわ。でさ、晩ごはんはいらないから。あっ、用意はまだしてないよね? 敦子はマイペースなの知ってるよ。あっはっはっは、そんなに焦らなくていいから。あっ焼き鳥でも買ってきてあげるか?――」
わたしはのうのうと軽い口調で話す夫の機嫌取りを聞きながら小刻みに震えだし、「いらないって言ってるでしょ!」と怒鳴った。
「いやいや、焼き鳥はいるしょ? “晩ごはんはいらない”けど――」
IHクッキングヒーターの上に置かれた、味噌汁のダシを入れた鍋が沸騰しているさなか、(晩ごはんはいらない)という夫の一声を聞いて、わたしはぷっつんした。
「わたしの時間をじゃましないでって言ってるでしょ!!」
「え? だって――」
それにまったく動じず、お気楽な声で話しを続ける夫との電話を切り、わたしはカーテンを閉めた。味噌汁の出汁が噴きこぼれた。わたしは小さいコンポにかけ寄って音量をひねり、アルバム全体でリピート再生中のボサノヴァを部屋に響かせた。わたしは自棄になり、洗濯機を回したり、パエリアとかを片付けたり、(なまもの)を冷蔵庫にしまったりして、最後に噴きこぼれてほぼぬるくなった味噌汁の出汁を片付けた。雨音に負けないくらいボサノヴァは響いた。
夜、ダブルベッドに入ってわたしは一人で寝ていた。主人が夜遅くに帰ってきてベッドに入ってきた。わたしは無視して、背を向けたまま縮こまって、寝たふりをした。
次の朝、わたしは機嫌が悪かったが、主人になだめられて徐々に笑顔を取り戻した。
土曜日、日曜日の休日を徐々に回復していくように過ごしたら、また月曜日が始まって、けだるい表情でお勤めに行く夫を、わたしはさわやかな笑顔で送り出した。
玄関のドアが完全に閉まる音を合図に、わたしの表情は一変した。なにかに取り憑かれたような顔で、わたしは先日買った大きなテーブルクロスを広げて、それを食卓に敷き、早すぎるブランチを始めた。
早く行動すればじゃまが入ることは無い。
この時間差をねらったブランチにふさわしい楽曲を、(雨の土日)で探してきた。もちろんボッサの曲だ。CDのタイトルは〈V.A.ボッサジャム〉。――(V.A.)の意味はわからないけど、(ボッサジャム)というネーミングから、きっと、甘いジャムトーストを頬張りながら聴く、可愛いボサノヴァに違いないわ。わたしの理想郷である(午前の真昼)や(蜜の午後)を想起させる、優雅な楽曲たちが詰まっているに違いありませんわ。そう思ってわたしは買った。力を付けたわたしはこれで雨降りで萎えることはない。もう(ですわ調)も不要だ。わたしは例のCDをコンポに挿入して再生した。外はよく晴れている。土日の雨がウソみたいに感じるくらい、今日の月曜日はよく晴れている。
――あっしまった、わたしのブランチに欠かせない、オレンジマフィンを買い忘れていたわ。急いで買いに行かないと時間がもったいない。
わたしはミュールを突っ掛けて、玄関のドアを開けてオレンジマフィンを買いに走った。ドアは開きっぱなしで、駆け抜けて行く足音が共用部分の廊下に響き渡った。廊下から部屋の内部が見え、妖しい音楽が聴こえだす。ちょうど一曲目のイントロダクションの後半にさしかかり、メインコンポーザーが登場して、軽く音出しをした直後の、妖しげなサウンドだ。
一方、外はぱらぱらと雨が降り出し、天気雨を通り越して曇天が広がったところだった。わたしはいつもの高級スーパーに入ってオレンジマフィンを探した。雨は本降りになり、傘を持ち合わせていない人たちは嘆いている。部屋では不協和音を感じさせるけだるい楽曲が、バンドネオンの妖しい光をちらつかせながら流れている。その不協和音が、心地よい調和に変わった。私は雨も好きになった。あとは自分の時間を作るだけだ。雨はなおも降り続け、わたしは世田谷のどこかに潜み続ける。
土日の休みが終わり、眠くけだるい月曜日の朝を迎えた街。妖しくけだるい楽曲が、今日という月曜日と調和している。
(了)