第2話_異世界彼女と僕の日常
「――っ!?」
闇の中、1人の少女が目覚めた。
その顔は青ざめているけれど、整っている顔立ちは気品にあふれている。
ここは人間が治めるカリブラ国の王宮。目覚めたのは今年15歳になる第3王女のカリブラ・コア・サヤだった。
戸惑うように周囲に視線を向けるサヤ。でも、彼女はすぐに落ち着きを取り戻す。
「また、昔の夢を見た……」
ベッドに転がっている猫のぬいぐるみを手に取りながら、サヤが言葉を口にした。
病弱であまり部屋から出られない――悪く言えば、長生きしないと周囲から見放され、つい先日、隣国の王子に婚約破棄されたばかりの彼女。
でもそれは、仮初めの姿だった。
前世の記憶を、いや、正確に言うのなら3代前までの前世の記憶をサヤは持っていた。異世界の勇者→異世界の聖魔女→平和な世界の保健医→そして、今は異世界の王女だ。
「あっくん……会いたいよ。私の魔王様」
小さな呟きが、闇の中に溶けていく。すすり泣くような声と嗚咽が部屋に響いていたけれど、それも次第に弱くなっていく。
15歳のサヤの頭の中には、過去の記憶と知識が詰まっている。
体格が華奢なのは偽装魔法でそう見せているだけ。
顔色が悪いのも、偽装魔法でそう見せているだけ。
心臓の鼓動が弱いのも、貧血があることも、子どもを産むことどころか“そういう行為をする体力すら無い”と医師に診断されたことも、偽装魔法でそう見せているだけ。
サヤには過去のレベルもMPもHPも継承されている。それだけでなく、数年前からサヤは城に精霊の身代わりを残して、こっそり冒険者として情報収集と鍛錬を積んでいる。
今はまだ動く時では無いと知っているから、サヤは大人しくしているだけ。その正体は、今か今かとその時を待つ、地に伏している龍。
サヤは知っている。自分と想い人の間に、交差する運命があることを。サヤだけが覚えていて、想い人は忘れている“やり直しの恋”が待っていることを。
1番目の人生では勇者サヤと魔王アキラは敵同士だった。そして恋に落ちた。
短い幸せの後に、二人で世界を壊した。
2番目の人生では聖魔女サヤと勇者アキラは仲間同士だった。そして恋に落ちた。
駆け落ちの途中で、二人で5つの国を道連れに消滅した。
3番目の人生では、早弥と明は従姉弟だった。嘘みたいに平和な世界だった。
だけど日常の中で、早弥だけ次元の挟間に飲み込まれた。
4番目の人生では、王女“サヤ”として生まれた。おそらく、人生のどこかで“アキラ”という名前の人物と運命が交差する日がやってくるのだろう。
でも――それは、まだ少しだけ先のお話である。
再会の日を待ちわびながら、今日もまた、サヤはまどろみの世界に堕ちていく。
◇◆◇◆◇◆
仕事帰りの夜道。
僕は、本屋に向かって歩いていた。
さや姉がいなくなって9年。
26歳になった僕は、小さなゲーム開発会社でプログラマーをしている。
社会の歯車として、人間の世界で“ヒトに擬態して”生きている。
そう、「自分が生きている意味って何だろう?」という漠然とした不安を抱えながらも、毎日笑顔で頑張っている。たまに思い出したように、棺桶に片足を突っ込んだ“生きる屍状態”になるけれど……まぁ、それは仕方のないことかなと思って上手く付き合うようにしている。
しばしば単調で退屈だけれど、それなりに楽しい毎日。
天然系のドジっ娘だけれど、気になる女の子も9年ぶりにできた。(さや姉に似ているのは、多分、気のせいじゃない)
大人になるっていうことは、“色々な物事を諦めること”なのだろうなと、最近は少しずつ受け止められるようになってきた。
◇
自分がおかしいことに気付いたのは、さや姉がいなくなって半年が過ぎた時だった。
当時高校生だった僕は、気が付けば、物理的に笑えなくなっていた。
顔が引き攣って、笑顔を作ることが出来なくなったのだ。
母親に連れられて急いで病院に行ったら、外科でも内科でも問題が見つからないで――最後に回された精神科で「うつ病」と診断され、1ヵ月の休養が必要と言われた。目の前が真っ白になった気がしたのを、今でも覚えている。
でも、それと同時に、人生最大級のチャンスが手元に飛び込んできたことを、僕は後で知ることになる。よく「棚からぼたもち」ということわざを使うけれど、僕の掴んだ幸運は、例えるなら「棚から心理療法」だった。
認知行動療法、森田療法、WRAP(元気回復行動プラン)、マインド・フルネス、ストレス対処法etc……心理療法とそれを教えてくれた優しい先生に出会わなければ、多分、今の僕はいない。
おそらく、ストレスに押しつぶされて、今日まで生きていられなかったと思う。
◇
僕の中には、自分で決めた“マイルール”が1つある。
それは「毎日、小さなことでも良いから、簡単なことで良いから、昨日とは違うことにチャレンジする」というルールだ。
これは心理療法の1つなのだけれど、気難しく考えるつもりはない。
ただ、単純に、さや姉がいない日々が、無為に流れていくのが怖かっただけだ。流れていく日々の中に、意味を見出せないことが恐ろしかったとも言う。
このマイルールは、心理療法的には、いわゆる恐怖に対する対処行動と言われるもの。
恐怖に対して、人間は「逃げる」「受け入れる」「抵抗する」といった反応を取るのだけれど、今回の僕が取っている行動は「受け流す」という方法だ。
受け流すという言葉通り、僕が取る行動は、根本的な恐怖を消すことにはならない。その場しのぎとも言うのだけれど、「自分にとってプラスになる行動なら、人生にとって良いことなら、その場しのぎをいくらやっても問題無いと思わない?」と、当時の病院の先生にはお墨付きをもらっている。
余談だけれど、コーピングのコツは「安く」「早く」「美味しく」だと僕は思っている。某牛丼屋さんのキャッチコピーみたいだけれど、あながち間違ってはいない。
手頃なコーピングの例をあげるなら、深呼吸をする、アロマオイルの香りを嗅ぐ、好きな音楽を聴く、コーヒーや紅茶といった好きな飲み物を飲む、といったことがあげられる。
変わったモノだと、宝くじに当たった妄想をするとか、羊を数えるという現実逃避も恐怖を和らげるには有効な方法だとされている。
――ということで、今日の僕は“本屋さんで経済雑誌を買う”という新しい行動を起こした。
その理由は、今日の昼間に話をする機会があった取引先の営業の人が、「内部の仕事が担当だとしても、経済情報誌くらいは読んでいた方がいいぞ?」と遠回しに教えてくれたから。
その人の言葉や表情から察するに、多分僕に対して「勉強不足だよね(笑)」という強い皮肉を言ったのかもしれない。いつも上から目線で扱いにくい人だから。
事実、うちの会社に仕事をくれる取引先だから、立場はあっちが上なのだけれど、まぁ今は置いておく。
とはいえ、雑誌で情報を知ることは一理あるなと僕自身も素直に思えたから、僕は自分に取り入れることにした。
多分、ストレス対処法や認知行動療法を知らない僕だったら、上から目線という行為に反発するだけだったと思う。そう、自分に対してメリットになる情報があったとしても、素直に取り入れることは出来なかったと思う。
心理療法は、プラス思考が良いとかマイナス思考が悪いという単純な考え方じゃない。
自分をマインドコントロールするような、無理な方法でもない。
よく、「コップに半分水が入っている写真」を見せて、“半分も水が入っている”とか“半分しか水が入っていない”という心理テストがあるけれど、アレの正解は見る人が置かれている状況で変わってくる。
単純にプラス思考で“半分も水が入っている”と考えて、無計画に水を飲んでいたら――砂漠のど真ん中だと大変なことになる。死ぬ危険性すらあるだろう。
むしろ、砂漠という状況では、“半分しか水が入っていない”と考えて、慎重に水を飲むことが生き残るには大切だ。
今あげたのは極端な例かもしれないけれど、プラス思考は時に危険ですらある。
大学受験まであと1か月もあるから遊んでいても大丈夫とか、宝くじが当たれば人生逆転できるから大丈夫だとか、○○さんはいつも笑顔で話してくれるから僕に惚れているに違いないとか――そんな「自分に都合が良いプラス思考」は、現実が正確に見えていないだけの場合がある。
結果、受験に失敗したり、借金を重ねたり、突飛な行動でストーカーまがいになってしまったり……。現実が見えないことほど、怖いことは無いと僕は思う。
ということで、自分が今置かれた「現実がどんな状況か把握」して、その中でベストまではいかなくても「ベターな思考や行動を選択できるようにする手段」が心理療法だと僕は考えている。
これは僕なりの解釈なのだけれど、心理療法は自分にとってメリットになる「モノの考え方」と「行動するための方法」を探すための手段だ。
同時に、心理療法は生きづらい世の中と戦うための手札を作れる、便利な武器製造機だと僕は実感している。
なんて中二病的なことを考えていたけれど、きりの良いところで思考を切り替えよう。
だって目的地に着いたのだから。
「さて、どんな本が置いてあるかな? 新刊コーナーはチェックしなきゃだよね♪」
たしか、僕が追いかけているラノベの新刊が出ていたはず。