隣室の侵入者
八月初旬は猛暑となった。外は真昼の太陽光でぎらぎらと照りつけられ、ハトやカラスといった普段目にする生き物の姿はどこにも見当たらない。
そんな中、郁人は今まさに、ある生き物による隣人トラブルに見舞われていた。
東京の外れにそびえる、寂れた十階建てマンションの802号室。郁人はこの家で十四年の人生を歩んできたが、今日ほど「騒がしい」と思ったことはない。
すべての元凶は、隣の803号室に住む青柳家の老夫婦が溺愛しているチワワ、クッキーだ。
二年前に青柳家が迎えたその小型犬は、とにかく吠える落ち着きのない犬で、散歩をすれば行き交う通行人にウーウーと唸り、宅配業者が呼び鈴を鳴らせばギャンギャンと威嚇し、郁人と鉢合わせればすかさず噛みついてくる、いわゆる典型的なバカ犬だった。
この犬を巡って、かつて903号室の住人が文句を言ったこともあったが、毛ほどの改善も見られないまま今日に至る。郁人は隣人の常識を疑ったが、そもそもこのマンションはペット不可だ。タブーを平気で犯す人間にマナーを説いても無駄なのである。
とはいえ、現在進行形で騒音被害に悩まされている身としては、看過できない問題でもあった。
今日は両親が共に用事で外出しており、郁人は夕方まで留守番をすることになっている。暑がりの母までも家を空けるのは珍しかったため、郁人はソファに座ってぼんやりとテレビを眺めつつ、アイスキャンディーでも舐めながら惰性のままに解放感を味わうつもりでいた。
そんな貴重な夏休みの一日を、バカ犬ごときに狂わされている現状に、郁人は強い不快感を覚えていた。
クッキーの耳障りな鳴き声が、開け放たれたベランダから風に乗って届いてくる。角部屋で風通しが良いためか、803号室も窓は開けているらしい。
他人の迷惑を考えろ、風が止んだら犬が熱中症になるだろ、と心中で青柳夫婦に文句を連ねたが、どうせ面と向かって物申したところで、夏でも犬に服を着せる人間には暖簾に腕押しだ。こんな日に限ってクーラーの調子が悪いことに、郁人は己の運の悪さを噛みしめるのだった。
「……くっそー、うるせーよバカ犬ー」
せっかく涼しげな風が吹いてきたというのに、キンキンと脳に響くやかましさが郁人の苛々を募らせる。
肝心の青柳夫婦は外出中のようだ。風の通り道として開けている玄関ドアから、少し前にエレベーターへ乗り込む夫婦の姿がちらりと見えたが、派手な服を着ていたことからしばらくは戻って来ないだろう。
飼い主が不在で寂しいのか、なおもクッキーはワンワンキャンキャンと、飽きもせず吠え続ける。どこか切迫感が漂うその声は、聞いているだけで体温が二、三度は上がりそうだ。
たまらなくなった郁人が、テレビの音量を上げようとリモコンに手を伸ばした時だった。
ゴウン、ゴウン、ゴウン――
幽かに、玄関の方からエレベーターの稼働音が聞こえてきた。リビングからエレベーターの扉までは約七メートルと近いため、玄関ドアの隙間から独特の重低音が響いてくる。
――青柳さん、戻って来ないかなあ。
淡い期待を抱きつつ、郁人はアイスキャンディーを食べ終えた。「はずれ」と印字された棒をくずかごに入れようと、気だるげに重い腰を上げる。
ふと、郁人は違和感に気づいた。
――クッキーが鳴いてないな。
エレベーターの稼働音も止まっている。犬は聴覚に優れた動物だから、八階で止まった稼働音を聞きつけ、主人を出迎えにいそいそと玄関へ走っているのかもしれない。
奇しくも忌々しい畜生と望みを共有していることに、郁人は苦笑いを浮かべた。
そんな郁人の想像を肯定するように、重厚な扉の開く音が室内の空気を震わせた。いよいよ青柳さんの可能性が高まった、と期待を込めて玄関に視線を送る。
が、すぅっと玄関ドアの前を通り過ぎたのは青柳家の夫婦ではなく、
底なしに黒い物体だった。
ぶちゃっ ぶちゃっ ぶちゃっ――
その黒々とした何者かが一歩進むたびに、泥の塊をたたき落としたような不快音が郁人の鼓膜を揺さぶる。
――なんか、気味悪いな。
今さらドアを開け放っている現状に恐ろしさを感じた郁人は、そろりそろりと廊下を進み、ストッパーを静かに外してドアを閉めた。
ちょうどその時、803号室の呼び鈴が鳴らされた。
――あ、まずいぞ。
呼び鈴を鳴らせばクッキーが弾丸のごとく迫り、ドアの向こうからでも猛々しく敵意をぶちまけてくる。
郁人は803号室の訪問者に心から同情したのだが、
――ん? 吠えないな。
外の廊下は森閑としたままで、クッキーの気配がまるで感じられない。暑さでばててしまったのだろうか。
再び呼び鈴が鳴らされる。しかし結果は同じく、クッキーはうんともすんとも言わない。
郁人が狐につままれた心地でいると、訪問者が口を開いた。
「誰もいませんかぁ」
瞬間、郁人の肌がぞわっと一斉に粟立った。
その声は、まともな人間が出すことのできる音ではなかった。
まるでボイスチェンジャーを使って加工したかのように野太く、低く、不気味で、郁人の脳裏に「地獄」を連想させた。
――あ、あいつ、やばい奴なんじゃないか?
地獄、というワードから今度は幽霊、妖怪、化物の単語が続々と湧き上がってくる。先日心霊番組を観たばかりなだけあって、郁人の心は過敏になっていた。
アイスの棒を放り投げた郁人は急いで上下の鍵を閉め、リビングに引き返した。深呼吸をしつつソファに座り直し、昼のワイドショーに意識を集中させる。が、ばくばくと心臓が跳ね上がり、貧乏ゆすりが一向に止まらない。
心拍数があっという間に二桁を越えた時、
803号室からクッキーの金切り声がこだました。
「うおっ!」
突然の出来事にリモコンの操作を誤り、テレビを消してしまう。
それでも802号室が静まることはない。勢いを増したクッキーの鳴き声が、壁を突き抜けて空気を振動させてくる。
――な、なんだよ、生きてたのか。
しかし元気ならば、なぜ呼び鈴には反応しなかったのだろう。郁人は疑問に思った。
その理由は、ほどなくして郁人の耳に届くこととなる。
ぶちゃっ ぶちゃっ ぶちゃっ――
外の廊下で聞いた正体不明の足音が、どういう訳か803号室から聞こえてきた。
――え、な、なんで?
クッキーの鳴き声はもはや悲鳴といった様子で、普段の強気な態度は影も形もない。ここで郁人はようやくクッキーの心境を悟った。
クッキーは、あの黒い訪問者に怯えていたのだ。
呼び鈴に吠えなかったのもそれが理由に違いない。今にして思えば、クッキーが留守番をするのは今日が初めてではなかったはずだ。なのに、今回に限ってこれほどまで騒がしかったのは、動物の本能で危険を察知したが故の行動だったのかもしれない。
ぶちゃっ ぶちゃっ ぶちゃっ――
どす黒い脅威が、廊下の辺りから近づいてくる。対してリビングでは、悲鳴と共にフローリングと爪がぶつかる痛々しい音が途切れることなく続く。どうやらクッキーはパニックに陥っているようだ。
ぶちゃっ ぶちゃっ ぶちゃっ――
泥の落下音がリビングに到達した。
壁越しに、今まで聞いたためしのない、悲痛で弱々しい鳴き声がした。
だが、小犬は希望を掴むためにベランダへ向かったようで、ガリガリと網戸を引っ掻く音を立てた。
その間も常闇の汚泥が迫りくる。
気配がリビングの中央付近まで辿り着いた時、網戸の開く音が確かに聞こえた。
外に出たクッキーはベランダをせわしく走り回り、救援を求めて切実な叫びを上げはじめた。
――た、助けてやらなきゃ!
いつもは憎い畜生だと思っていても、こうも恐怖の感情がひしひしと伝わってきてしまうと見過ごせなかった。
必死の鳴き声で我に返った郁人はすぐさまソファから立ち上がり、ベランダへと飛び出した。
隣人の気配を察したクッキーが、隔て板の下から前足を突き出す。
ゴン、ゴン、ゴンと何度も頭部をぶつけながら、こちら側へ這い出ようとする。だが、隙間はわずか十センチ程度しかないため、細い首を傾けても顔半分しか見えてこない。
自分を散々苦しめてきた仇敵が晒す醜態に、郁人は哀れみの感情を覚え、同時に途方もない絶望を感じた。
――あの部屋には、一体なにがいるんだ……?
キャインキャインとクッキーが吠えた。小さな前足をぱたぱた振り、引っ張ってくれと要求している。
郁人はしゃがみ込んでそれを引っ張ってみるが、どうしても頭がつっかえてしまい助け出せない。
汗ばんだ手をいったん離し、他に策がないかと思考を巡らせる。
「そうだ、こいつを突き破れば……」
クッキーの上に設置された隔て板に目を向けた。隔て板は火災などが起きた際の緊急避難用として、簡単に破壊できる造りとなっている。
「もう少しだけ待ってろよ」
隔て板を蹴破るために郁人が片足を一歩下げた時、クッキーの脇からなにがが飛び出してきた。
「おわっ!」
突如現れたのは、光沢を持った真っ黒なゴキブリ。それに驚く暇もなく、もう一匹が隔て板の下から顔を覗かせ、二匹のゴキブリがクッキーをあざ笑うかのごとく802号室と803号室を行き来する。
気づけば、ベランダの周りには大小様々なハエも飛び交っていた。
死臭を嗅ぎつけ、死肉をむさぼりにやってきたのかと思わされる光景に、郁人はただひたすらに戦慄した。
その恐れが思考と体の硬直を引き起こし、一匹の小犬の運命を決定づけてしまうことになる。
ぶちゃっ
聞こえた。ベランダのすぐ手前で。
錯乱状態となったクッキーは、隔て板から離れると気が狂ったようにベランダを駆け走り、こちらの心臓が握り潰されるほど痛ましい絶叫を放った。
そして、次に聞こえた金属音が、郁人の肝を芯まで冷やした。
「ま、待てクッキー!」
なにもかもが遅かった。
ベランダの鉄柵を潜り抜けたクッキーは、そのまま二十五メートル下の駐輪場へと身を投げたのだ。
数秒後、眼下で生じた衝突音は、泥が弾けたような響きだった。
それからどうしたのか、郁人の記憶は定かではない。一つ分かるのは、今の自分が炎天下の中、ハエのたかった小さな亡骸のそばに立っていることだけだった。
少し前まで生き物だった肉塊は、派手に鮮血を飛び散らせ、青と白のボーダー服を真っ赤に染め上げていた。顎を伝った汗が、その中に混ざり合う。
あの小さくも大き過ぎた頭部は、もはや原形をとどめていなかった。にもかかわらず、安堵の表情でその最期を迎えたのだと、亡骸を見下ろす郁人にはそう思えてならなかった。
クッキーが自死よりも恐れた存在とは、果たして何者だったのか。
郁人は眩しさに目を細めながら、八階のベランダを見上げた。
そこに、答えはいた。
件の存在は、いくつもの目を見開き、数多の口を歪ませて、802号室のベランダにへばりついていた。