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8、見張りの塔のアデレナ

「あぁ王子様。どうかこの国を救ってくださいまし――」


 見張りの塔と呼ばれている、その高い高い塔の最上階に、レド王国の姫アデレナはいた。

 彼女は数日に一度、ちらりと顔を見せては民衆に向かって手を振る。しかし、あまりにも高い塔であるが故、また、彼女が顔を出すのが全くの気まぐれであるが故に、彼女に気付くものはほとんどいなかった。

 それでも彼女は務めを果たしたとばかりに機嫌良く、再び定位置であるふかふかのベッドの上に戻る。そしていつか現れる『王子様』を想像しながら、頬を赤らめるのであった。


 彼女はベッドの脇にある精緻な細工の施された引き出し付のテーブルの上から香水の瓶を取り、蓋を開けた。そしてそれを胸の上で軽く振る。


 ぽたり、と香水が一滴、硝子製のスパチュラを伝って彼女の白い胸の上に落ちた。


 ――ここに付けたところで、それを嗅ぎに来る者など久しくいないというのに。

 

 いや、でももしかしたら、今日が『その時』かもしれない。


 給餌係すら入らないこの部屋に、『救国の王子様』がやって来る、その『時』が――。


 彼女はまだ見ぬ『夫』に胸を熱くした。

 そして彼女の体温で温められた香がふわりと立ち上ぼり、その芳しさに目を細める。


___


「…………!!」


 前方30mほど先に、黒く巨大な塊が見える。

 思わず声を上げそうになったが、にゅ、と顔の前に現れたグリオールの手で我に返った。

 きつく言われていたのだ。獣に遭遇しても決して声を上げるな、と。


「あれが羆」


 そっとグリオールが俺に耳打ちする。彼女の吐息がどうにもくすぐったい。俺のいままでの人生にはこんな甘酸っぱいイベントはなかったのだ。

 最も、甘酸っぱいのはこの一部分だけで、全体像を見れば、とてもそんなのん気なことを言ってられるような状況ではない。

 幸い、羆の方はこちらに気付いていないようである。やはり元が人間だからか、野生動物と比べてやや愚鈍らしい。愚鈍というその言葉にほんの少し安堵した。

 だが――。


「……でかすぎねぇ?」


 ヤツとは30mほど離れている。

 だとしても、だとしても、だ。

 動物園で見た羆よりも確実にでかいと断言出来るほどの大きさである。

 何ていうか………その……7、8mはありそうなんですけど。


「そうかしら?」


 グリオールは事も無げにそう返す。

 マグロもさしてビビっている様子はない。さすがは竜の子である。


 ということは、つまり、ビビっているのは俺だけなのであった。


「本当に大丈夫なのか?」

「当たり前でしょ」

「だってさっきはマグロに全然歯が立たなかったじゃんか」

「……うっさい。それはそれ、これはこれよ。――見てなさい」


 彼女は一度忌々しそうな顔で俺を睨み、軽く舌打ちをしてから視線を羆に戻した。そして、標的をじっと見つめたままポーチを探る。取り出したのは4つの小さなリングが付いた紐である。


「……何それ。めっちゃ弱そうなんだけど」

「イチイチうるさい。黙って見てなさい」


 もうそこに笑いの入る余地は無く、真剣なグリオールの横顔だけがあった。彼女は慣れた手付きで輪を左手の親指を除く4本の指の第一関節にはめた。その輪と輪を繋いでいる紐を右手でぐいぐいと引っ張って馴染ませる。随分と弾力のある紐である。紐というか、ゴムなのかもしれない。


 ――ということは?


 もしかして、それって……、と思いながら見守っていると、彼女は再びポーチの中に手を入れた。一体どれだけの物が入っているんだ、そのポーチ。

 

 ごそごそと数秒まさぐった後に彼女は小さなラグビーボールのような形のものを3つ取り出した。そして左手を大きく広げた状態でまっすぐに伸ばし、4つの輪に繋がれた3本の紐にそのラグビーボールをセットする。


 あぁやはりこれはパチンコだ。

 俺が見たことあるのはアルファベットのYの形をしたやつだったけど、まぁ同じことだろう。


 しかし、そんなパチンコごときであのでっけぇ羆を倒せるのかよ。

 だぁーいじょうぶよ、3つなんだから。威力は3倍! ってか? 冗談じゃない。

 まだ気付かれてないんだから、いっそ、このままそぅっと逃げればいいじゃないか。

 そうだよ、そうしようぜ。


「なぁ、グリオール、無理に……」


 ――無理にケンカ吹っかけなくてもいいじゃないか。 


 そう言おうとしたその時。

 彼女の肩にポンと手を乗せたのがスイッチでもあったかのように、それは発射された。

 まっすぐに。

 よくよく考えたら届くわけねぇじゃんなどと甘く見ていた俺をあざ笑うかのような勢いで。

 まっすぐに。


「――ゥガァゥッ!?」


 それは何の音も無く、派手さも無く、着弾したというよりは付着したという表現がふさわしいと思えるほど実に静かに命中した。

 いや、正直なところ命中したのかどうかも怪しいのだが、彼女が放ったタイミングであちらさんが何やら叫んでこちらを向きましたんでね。まぁ、当たったんだろうと、そう思ったわけです。


「グルルルルルル……!」


 あんなのでも痛みはあるのだろうか。当てられた羆の方は遠目でもはっきりとわかるほど興奮し、いきり立っていた。四つん這いの状態から立ち上がり、前足を大きく振るわせている。


「おっ、おい! 全然効いてねぇじゃん! どうすんだよ、これ!」


 俺の異世界譚、これにて終了っ!

 始まったばかりだけど終了っ!

 もしかしたら始まってすらいないのかもしれないけど、とにかく終~了~っ!


 うう……やっぱり噛まれたら痛いのかなぁ。出来ればもう一撃で仕留めてほしいなぁ……。


 すっかり腰が抜けてしまった俺は、少しでも距離を取ろうとするが両腕に上手く力が入らない。

 

「マグロ、お前だけでも逃げろ」


 思わずつるりと口から出た言葉に、まさかこの状況でこんな恰好良い台詞を吐けるなんてと感動する。当のマグロは不思議そうな顔でふるふると首を横に振った。なんて忠誠心のあるやつなんだ。


 そうこうしている間にも羆はかなりのスピードで接近してくる。どこが愚鈍だよ。もう一瞬じゃねぇか。

 グァッ、ゴァゥッ、という声の混じる呼吸音が聞こえてくるほどの距離にまで近づいて来たところで、グリオールは立ち上がり、軽い助走の後、地面を蹴って跳躍した。


 陸上連盟からスカウトが来そうな大ジャンプだった。

 これなら世界が狙える。のん気にそう思っちまうほどの華麗なジャンプだった。

 動きやすさを重視しているのだろうか、胸部に比べて比較的軽そうな腰当ての隙間から見えるスカートが風に煽られてはためいている。これならもしかしてその下も拝めるんじゃないだろうか。


 ――そんな風に思っていた時期が僕にもありました。


 そりゃそうだよね。

 上にタイツみたいなやつ着てんだからさ。

 そりゃ下にも履いてるよね。

 全く、色気も何もねぇなぁ! おい!


 俺は(結局入学手続きしてねぇけど)高校生らしく、健全に不健全なことを考えていた。


「――お前の急所はここだぁっ!」


 しかし、そんな俺の邪な思考なんて一切無視して物語は進んでいく。

 勇ましい彼女の声で正気に戻ると、そこにいたのは、自身の何倍もある羆の鼻先にしがみつき、マグロには全く刺さらなかった短刀を眉間に深々と突き刺しているグリオールの姿があった。


 眉間に短刀を撃ち込まれた羆はそれでもしばらくの間は直立していた。いまにも後方へ倒れそうにぐらついていたのだが、鼻先にグリオールがしがみついていたからだろう。彼女が短刀を引き抜き、ぴょんと飛び降りると、糸がぷつんと切れたマリオネットのように、その場に崩れ落ちた。


「すげぇ……」

「急所さえ押さえておけば楽勝なのよ、こんなの」


 楽勝。

 楽勝って言いました、いま?


 地べたに転がっているのは体長やはり7、8mかつ、その厚みは俺の腰辺りまであるっていう巨大羆である。……っていうか、こんな大きさのなんて北海道にだっていねぇよ。

 楽勝なんだろうか、本当に。

 こういうのに慣れる日が来るんだろうか。

 いや、でも俺はこれから一国の王になるわけだし、こういうのに遭遇する機会なんてそんなに無いだろう。


「ちょっと、ぼけーっとしてないでよ。キドにもやってもらうことだってあるんだからね」


 ぴくりとも動かない羆をじっと見ていた俺に、グリオールは呆れたような視線を向けながら、腰に差していた2本目の短刀を抜いて手渡して来た。


「え? 何するの、俺」

「何って……。ああ、そうか、初めてだったわね、そういえば」


 そう言うと、グリオールは俺に差し出していた短刀を再び腰に差し、自らが仕留めた羆の頭の辺りにしゃがみ込んだ。そして俺に手招きをする。

 

「キドはこの世界のお金を持ってないでしょ?」

「まぁね。何、もしかしてやっぱり敵を倒したらもらえるっつーシステムなのか?」

「どいつもこいつもまたそれね。『敵を倒したらもらえるシステム』。何度も言うけど、敵じゃないわよ。むしろアンタ達の仲間。くじ運が悪かったってだけの」

「……いや、まぁそうなんだけどさ」

「『もらう』って表現はどうかと思うけど、まぁ、間違いじゃないわ。ただ、全額もらえるかどうかは、キド次第よ」

「俺次第? どういうこと?」

「中に埋まってるから」

「は?」

「中に埋まってるの。だから上手に取り出さないとね」


 グリオールは小悪魔的な笑みを浮かべて、羆の眉間に墓標のように突き立てられたままの短刀を指差した。



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