7、剣と魔法のファンタジー世界
「……とりあえず足元には十分気を付けることね」
そんな有り難いアドバイスまでいただいた頃には、俺はもう肉体的且つ精神的疲労にがっつりとやられていた。
確実に俺よりも重装備であるグリオールの足取りは軽やかなのに、まるでぬかるみを歩いているかのように足が重い。
俯き加減でのろのろと歩く俺に気付いたグリオールは、やれやれと言った顔でため息をついた。いつの間にか俺の前を飛んでいたマグロも心配そうにこちらを見つめている。
「だから後悔しない? って聞いたのよ」
「いや、別にショックを受けてるわけじゃ……」
まぁもちろんショックではあった。
それは、ほんの数時間前まで希望に満ち溢れていた異世界ライフの拠点予定地が不衛生極まりない環境だったというのももちろんだが、それよりも――。
それをきれいにするのが俺のクリーヌリアとしての仕事なのではないかということに気付いてしまったからである。
自分のでさえそんなにまじまじと見たい物ではないのに、何が悲しくて人のブツを処理しなくちゃならねぇんだよ。
「……それでも元々は美しい国だったのよ」
独り言のような声が聞こえて顔を上げると、グリオールは遥か遠くに見える鉛筆の先のようなレド城の見張り塔をじっと見つめている。懐かしんでいるのだろうか。
「200年前は、それはそれは美しい国だったの。城下町にはそこここに花が咲いていて、虹のかかる噴水もあったし、道は色とりどりの石だたみで可愛らしい模様が描かれてて――」
そう話すグリオールの顔はとても穏やかである。
レドの子ども達はそんな昔話を聞かされて育つのだろうか。彼女はまるで見てきたかのようにすらすらと町の美しさを語る。
「けど――」
「けど? そんな美しい国に何があったんだ?」
「その時の王、グリート11世には男児が産まれなかった。だから、婿をとったの」
「ふんふん。それで?」
「それがダメだったんでしょうね」
「婿をとったことが?」
「そう。姫が女王に即位することも出来たはずなのに、彼女はそれを頑なに拒んだの。表舞台に出るのは嫌だと」
「へぇ」
「その後も王室に男児が産まれることはなかったわ。だからあの国はもう何年も外の国から婿をとってる。そいつらがまぁそろいもそろって無能なのよ」
俺はもう適当な相槌を打つことは出来なかった。
もう何年も婿をとっている国。
婿を。
つまり、俺に白羽の矢が立ったのだ。
待て待て。
俺が有能だとは限らない。
いや、どちらかといえば無能の部類に入るだろう。
でも、あのキスが与えてくれた使命なのだ。きっと俺がその国を救えるってことに違いない。
クリーヌリアは500年振りだってマローは言ってた。
ということは、クリーヌリアの婿ってのは俺が初ってことだろ。
そうだよ、そうだよ。こういうのは大体がうまくいくようになってるんだよ。
……はぁ。もういいや、ちょっと話題を変えよう。
「そ、そうだ、グリオール。そういえばこの世界には魔物の類は出ないのか?」
魔物。
そう、ここが異世界だというのならば、もうそれは例外なく剣と魔法のファンタジーな世界であるはずなのだ。
ということは、その剣と魔法の力によって討伐する対象がいて然るべきだろう。
俺は、その力があるのかどうかもわからないくせにほんの少し心を弾ませてグリオールに尋ねた。やっぱいいじゃん、そういうのってさ。
俺は待った。
「実は最近、この森を荒らす魔物がいて――」
とかいう、やけに思い詰めた様子で語られるイベント発生の『合図』とも言うべきその台詞を。
「お願い。どうか力を貸してほしい」
そして、それはこの言葉で締め括られ、晴れて『討伐イベント発生』となるのだ。
俺は待った。
木々を揺らす強い風が、彼女の夕焼け色の三つ編みをそよがせる。顔にかかってしまったその三つ編みを手で押さえ、グリオールは少し驚いたような顔をして――。
そして、心底うんざりした顔をした。
「もう何なの、アンタ達」
「え? えぇ?」
予想していなかったリアクションに、俺は情けない声を上げた。
「何なのよ、マジで。アンタ達、そればっか! 何? ここは魔物が跋扈するような物騒な世界じゃないといけないわけ?」
「えっ、いや、そういうわけでは……」
「じゃ、どういうわけなのよ! アンタ達、二言目にはいつもそれ。『魔物は?』『敵はいつ現れるの?』って。何よ、暴れたいなら勝手にしなさいよね!」
「えっ? えっ? ちょっ、グリオール?」
「で? 次は『君、魔法は使えるの?』でしょ? ばぁっかじゃないの? 魔法? ハッ、使えないわよ、そんなの。皆が皆使えるもんじゃないわよ! 何よ、あたしのこと見下したような目で見て!」
「ちょっと、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょうが! 毎回毎回毎回毎回おんっっなじ質問しやがって! アンタらこの世界に何を求めて来てんのよぉっ!!」
喋るほど怒りが加速していったグリオールは、たたみ掛けるように話し終えたあとゼイゼイと肩で息をし、まだ血走った目で俺をギッとにらむ。
そして、一度人差し指を天高くぴんと立ててからそれをまっすぐ俺に向かって下ろした。
「魔物なんかいないわ。でも言っとくけど、こっちに危害を加えてくるのは、アンタ達の仲間だからね!」
きっぱりとそう言って、グリオールはふん、と鼻を鳴らした。
俺はその衝撃的な内容と指をさされたショックでしばしの間呆然としていた。
「俺達の……仲間……?」
やっとそれだけ言う。
俺の隣では不安げな表情のマグロが、時折、ゆっくりと下降し、そして慌てて上昇するという動きを繰り返している。俺を心配するあまり、羽ばたくのを忘れてしまうようだ。生まれたばかりの赤ちゃん竜にはよくあることなのだろうか。
「キドは元々その姿だったの?」
グリオールはちょうどいい切り株の上に腰掛け、腰に括りつけたポーチの中から小さな瓶を取り出した。ポン、という音を立ててコルクの栓を抜き、中に入っていた丸い玉を口の中へ放り込む。そして近くにあったもう一つの切り株を指差した。
「……そうだけど」
座れ、ということだろう。そう解釈して大人しく腰掛ける。
「良かったわね」
「うん、まぁ……そうなんだけど……」
「ここも結構出るのよね」
そう言いながら、再び小瓶から丸い玉を取り出し、それを俺に向かって投げた。俺はそれを慌ててキャッチする。それはビー玉のように透き通っており、木の実のような柔らかさがあった。
「ビーリィの実。食べなよ。元気が出るから」
一体何が『出る』のか。
それを問いたかったが、確かに少々――いや、かなり心は乱れまくっていて、気分を落ち着かせたかった俺は、その実を口に放り込み、何のためらいも無く奥歯で噛んだ。
薄い皮はぷちゅりとはじけ、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。熟した苺のような甘さもあり、それでいて林檎のような爽やかな酸っぱさもあった。
「ありがとう。元気出たよ」
その言葉を聞いて、グリオールは少しホッとしたような顔をした。それ以上にホッとしていたのはいつの間にか俺の膝の上に降りていたマグロである。うっかりグリオールをここへ連れて来てしまってからというもの、すっかり彼女に萎縮してしまったようで、かなり大人しい。
「……ウールス、パンシャーラ、キャニス」
「何それ。呪文?」
「違うわよ。さっき出るって言ったでしょ」
「あぁ……。で? そのナンニャラカンニャラって何?
「アンタ達の言う『魔物』よ。カニヴォラの獣」
「かにぼら……? マグロ、通訳頼む」
ごつごつとした背中を優しく撫でながら尋ねると、マグロは頼られたことが嬉しかったのか、ニコニコしながら俺の顔まで近づき、その可愛らしい声で伝えてくれたのだ。御丁寧に、俺が呪文かと勘違いしたその3つの単語まで。
羆、獅子、狼。
そしてこれらはすべて肉食の獣である、と。
「肉……食……」
自分の口から出た言葉で背中に冷たいものが流れた。
高揚していた気分はすっかり冷めている。
何故だ。
魔物がいるかと尋ねたのは自分の方であるというのに。
何か?
それとも何か?
魔物なら何とかなる気がしていたのか?
だってRPGでも始まりの地域は雑魚敵しか出ないじゃん!
「何よ、急に怖気づいたの?」
「べっ、別に……」
強がってはみたものの、完全に図星である。
野犬すら倒せる気がしないというのに。
羆に獅子に狼だって?
「あたしがついてるから大丈夫よ」
「そんな、女の子に守ってもらうとか……」
――情けなさ過ぎる。
「それに、そいつらはリフェラフレではずれを引いたキドの仲間だからね。やりづらいでしょ。同じ世界にいた人達を殺るのって」
「はずれを……? あぁ!」
現状維持が当たりっていうのはそういうことか!
確かに派手さはないかもしれないが、人の姿である以上は『狩られる側』ではないのだ。そして『捕食目的で襲う側』でもない。
100ではないが、マイナスでもないといったところか。
「まぁとにかく、あたしに任せてよ。何とかするから」
――マグロの身体に傷一つつけられなかったくせに。
そう言おうとして、止めた。
いまのところはこの子に頼るしかないのだ。
「頼りにしてます」
頭を下げつつそう言って、俺は立ち上がった。
これ以上休むと、もう歩けなくなりそうだったのだ。
「――行こう。連れてってくれ、レドへ」
『本当に、後悔しないでね』
急に吹いて来た風にかき消されてしまったのは、そんな言葉ではなかっただろうか。