休日の出会い
目を閉じ、静かな空間で精神を集中する。
微かな空気の流れ一つ一つまで感じ取るように感覚を研ぎ澄ます。まだ六月の、屋内の冷えた空気は殆ど動く事なく服に、肌にまとわりつく。
雑念を捨てる。ただ、この空気と一体化する事だけを考える。
やがて体の内から巻き起こる霊力の昂り。それは全身を駆け巡り……。
「夏祈? あんたまだやっとったの」
……の前に、その声により瞑想は敢えなく中断させられた。俺は渋々目を開けると、声のした方――今いる道場の入口へと目を向ける。
「……お袋。俺今修行中なんだけど」
「そんなんいつでも出来るやろ。ちいとお使い頼まれてくれへん?」
長い黒髪をお団子に結い上げ、家の中だというのに軽装とはいえ和服を着たこの女性。これが俺の母親、かつて女羅刹と謳われたその人、須藤春歌だ。
見た目は一応、俺ぐらいの子供がいるとは思えないくらい若い。おまけに巨乳でスタイルも良く、『須藤は気に食わないけど須藤の母親にはお近づきになりたい』なんて噂をする輩も中学校の頃はいた。当然後で〆ておいたが。
……そういや、女の時の俺の胸がでかいのってもしかしてお袋に似たのか。こんな血の繋がり方は感じたくねえな。
「お使いって」
「コンビニで電気代支払ってきてえや。今日までやったのすっかり忘れてしもうて。うちはこれから夕食の仕込みがあるし」
「またかよ……」
お袋は振る舞いは一見しっかりとしているが、よく見るとどこか抜けていると言うか、いい加減と言うか……要するに、大雑把なのだ。対して親父はマメな性格。よくこんな正反対の二人が、と言うべきか、正反対の二人だからこそ、と言うべきか。男女の仲の事は俺にはよく解らないし、興味もないが。
「とにかく行ってきて。ああ、みりんもそろそろ切れそうやったんやわ。それから……」
どうやら、今回も頼まれ事は一つで済みそうにはないようだ。俺はお袋に気付かれないよう、そっと小さく溜息を吐いた。
結局お使いの内容をメモにして渡され、道着から普段着に着替えて家を出る。子供か、とツッコミたいがそこは我慢した。もしメモにしないで万が一抜けがあったらそれこそ雷が落ちる。と言うか前に落ちた。あの時は関節決められながら一時間くらい説教されたっけか。あれは地獄の時間だった。
何となく我が家を振り返る。住宅街に立つ立派な門構え。俺にとっては無駄に広い古い家だが、周りにとってはそうではないらしい。今思うとこういうとこをやっかまれてたのもあるのかもな。昔いじめられた原因って。
最初の目的地、コンビニまでは歩いて五分ほど。それからこれまた歩いて五分のスーパーへ。寄り道せずに真っ直ぐ帰れば、大体三十分ぐらいで用事は終わるだろう。
早く帰って修行の続きをしたい。このところ妖魔相手に遅れを取る事が続いてるから、次の仕事までにみっちり鍛え直しておかないと。
そんな事を考えてるうちにコンビニに着いた。最近出来たばかりなので外観はまだ真新しい。中に入ると新人らしい店員がやる気のない声で出迎えてくれた。今日初めて見る顔だがそれでいいのか客商売。
ここでするのは支払いだけ。コンビニで買える物もあるがスーパーで買った方が安くつくからだ。というかそれ前提で金は渡されている為、下手に面倒くさがると身銭を切る羽目になる。それは避けたい。
滞りなく支払いを終えたら後はスーパーに向かうだけ。……その、筈だった。
レジに立った所で入店のジングルが鳴り響く。俺は何気なしに、そちらの方を振り向いた。
入ってきたのは、背の高いスラリとした金髪の男だった。歳は俺と同じか少し上といった所か。彫りの深い、整った顔立ちや鳶色の瞳から察するに、外国人かハーフのどちらかであるのは間違いなさそうだった。
男は真っ直ぐにレジ前まで来ると、店員ににこやかに笑いかけた。暑苦しさを感じない、爽やかな笑み。今はこの場には男しかいないが、もし女共がいれば今頃店内は黄色い声に埋め尽くされていたかもしれない。
「突然申し訳ありません。道をお訪ねしたいのですが」
流暢な日本語が男の形のいい唇から流れる。あまりにも自然な日本語に、店員は却って逆に目を白黒させている。おい大丈夫なのか。
「この近辺に松川北高校という学校がある筈ですが、どう行けば宜しいでしょうか。途中までは解ったのですが……」
「あ、あ、あいきゃんとすぴーくいんぐりっしゅ」
続けて日本語で問いかける男と完全にテンパり、棒読みの英語を喋る店員。駄目だ完全に噛み合ってねえ。……って、松川北?
「あの……そこなら俺が案内出来るけど」
このまま店員に任せても埒が開かなさそうなので、仕方なく声をかけてみる。そう、松川北と言えばまさしく、俺が通っている高校の事だ。
「本当ですか?」
男が振り返り、喜んだ表情を見せる。……めんどくせえがこれも一応人助けだ。俺は無言で頷いた。
「ありがとうございます! 貴方は親切な方だ!」
俺の手を取り礼を言う男。その手がじわりと熱くなるのを感じて俺は慌てて心の中でかぶりを振った。いやいや。確かに女は嫌いだし呪いで女にも変わるが俺にそんな趣味はない。断じてだ!
「ええと……案内の前に支払いだけ済ませたいから、その間だけちょっと待ってて貰えるか?」
「はい。急かしはしませんので慌てずにどうぞ」
俺がそう言うと、男は手を離しにっこりと微笑んだ。俺は手の熱を振り払いたいのを我慢して、改めて支払いの為にレジに向き直ったのだった。
男は酷く社交的で、コンビニを出てからも積極的に俺に話しかけてきた。名前はディーン・グレイス。イギリスから日本の高校に留学する為やってきたそうだ。
て事は同じ学校に通う事になんのか。まさか同じクラスなんて事はないと思うが……。
「私は運が良い。まさか同じ高校の方と偶然巡り会えるなんて」
ディーンは俺の横で、ニコニコと嬉しそうな微笑みを浮かべている。喧嘩を売ってくる奴ら以外にこうして見下ろされるのはなかなかない経験だ。気分は、まぁ正直良くはない。俺だって男だからな、それくらいの見栄はある。
「ナツキは何年生ですか?」
「……一年」
「私と一緒ですね。同じクラスになれたら嬉しいです」
「……ああ」
「それにしてもナツキは無口ですね。日本男児とはそういうものなのですか?」
「……人によるんじゃないか」
ディーンが喋り、俺が相槌を打つ。さっきから大体そんな感じだ。ディーンに限らず、誰かと話をする時はついそうなってしまう。
長話が苦手というのもある。だがそれ以上に、何を話したらいいか解らないのだ。それが初対面の人間なら尚更だ。
子供の頃から蔑まれるかビビられるか喧嘩を売られるかだった俺は人付き合いが上手くない。近くにいるのはミサのような強引な奴くらいだ。そしてどこかで、これでいいと諦めている俺がいる。
家族がいる。気のいい同僚がいる。なら、それで十分だ。一人じゃないなら。
「……ナツキ? どうかしましたか?」
その声にハッと我に返る。どうやら考え込んでしまっていたらしい。
隣には心配そうなディーンの顔。俺は何もなかったように、出来るだけ自然に取り繕う。
「ああ……いや、何でもない」
「本当ですか? どこか体調でも悪いのでは……」
「大丈夫だ。……それよりもうすぐ松川北に着くぜ」
そう答えた俺に、ディーンは納得しかねる様子だったがそれ以上は追及しなかった。正直ありがたい。この男の空気は、どこかミサに似ている気がする。
傷口を見つけたなら、無闇にそれを弄り回したりはしない。ただ側にいて、癒えるのをジッと待つ。そんな雰囲気が、ディーンにはあった。
「よう、久しぶりだなぁ、須藤」
と、不意に俺を呼び止める声。次いで聞こえる下卑た笑い。このパターンはよく知っている。俺はうんざりした顔で、声のした方を振り向いた。
そこにいたのは見た目からしていかにもな三人の不良。それぞれ敵意の籠った目で、俺にガンを付けてくる。
「くっくっく……会いたかったぜぇ」
「……誰だ?」
「あァ!? しらばっくれてんじゃねぇぞテメェ!」
いや、マジで誰だっけ。態度からして多分過去に〆た誰かなんだとは思うが。そんなんいちいち覚えてるほど暇じゃねえし、特に最近は呪いだ何だでそれどころじゃなかったし。
「あー……悪ぃな、今忙しいんだわ。喧嘩ならまたにしてくれ」
「ざけた事言ってんじゃねえぞコラァ! その金髪の連れごとボコボコにしてやらぁ!」
「……はぁ」
深い溜息。解っちゃいたが、見逃してくれる気はないらしい。かと言ってディーンは巻き込めない。となれば……。
「ディーン、悪いな。案内はここまでだ。後は遠目に建物が見えてるから、そこを目指せばいい。俺があいつらに向かっていったら、その隙に逃げろ」
「しかし……」
「大丈夫だ。絶対にアンタを追わせたりはしないから」
指を鳴らす。組み手と思えば、喧嘩もまぁ悪くないか。妖魔と比べりゃ、こいつらなんて雑魚もいいとこだが。
そして、不良共に向かい一歩を踏み出した……俺の肩を、ディーンが掴んだ。
「ディーン?」
「決めました。見ず知らずの私に迷わず手を差し伸べる優しさ、そして今私をけして巻き込むまいとする高潔さ。私は、今日より貴方を友とします。友が傷付くのは見たくありません」
掴まれた肩が熱い。さっきも感じたその感覚が身に覚えのあるものだと気付いた時には、ディーンは既に俺の前に立っていた。
「お、おい!」
「何があったかは解りませんが、見逃しては頂けませんか。この方は私の友なのです」
「ハァ!? 何言ってやがるテメェ!」
案の定、不良共は肩を怒らせディーンににじり寄る。だがディーンは毅然とした態度を崩さない。
「お願いです。……見逃して頂けませんか」
ディーンの声が少し低くなった、その瞬間不良共の動きが止まった。顔にはダラダラと冷汗を掻いている。ディーンの放つ奇妙な威圧感に圧倒されるその姿は、まさに蛇に睨まれた蛙という言葉が相応しかった。
そのまま束の間の膠着。そして。
「……っ、今日の所は勘弁してやらぁっ!」
不良共は、そう捨て台詞を残し一目散に逃げていった。あいつらつくづく雑魚キャラだな、などと思いながら、俺はディーンに警戒の目を向ける。
触れられる度、何度も感じた体の熱。そしてそれは触れられていない今も、全身をじんわりと支配する。これは相手が男である事を除いても、けして色気のある理由なんかじゃない。そう、この男は……。
「良かったですね、穏便に済んで」
不意にディーンが振り返る。俺は咄嗟に表向きの警戒のみ解き、ディーンに礼を言う。
「……そうだな、助かった」
「ふふ、友の為なら当然の事です」
嬉しそうに笑うディーン。その顔には邪気は全く感じられない。素なのか、演技なのかは解らないが。
「それじゃあ、行くか」
「はい」
再び歩き出す俺達。しかし俺の胸には、ある確信が宿っていた。
この男――ディーン・グレイスはあの鬼に匹敵するレベルの妖魔だと。