水も滴るいい女?
窓の外を、規則的な街の風景が流れていく。少し開いた窓からは爽やかな風が流れ込んできて、俺はその心地好さに軽く目を細めた。
今回の仕事先は、県内にあるとある山奥。そこにある小さな沼を埋め立てて別荘を建てる予定だったのだが、不審なトラブルが相次ぎ現在工事は中断中。
念の為お祓いもしてみたが、効果はなく。そこでやむを得ず、という感じにこっちに依頼が回ってきたらしい。
年々退魔師の数が減少してきている昨今、こういった出張も別に珍しい事ではない。それが休日ならいいが今回のように平日に行く事になるのも少なくなく、だからなるべく行ける時には学校に行って出席日数を稼いでおきたいのだが……。
「はい、ナッキーも食べる?」
……そんな俺の物思いは、向かいの席でポッキーを差し出すミサによって中断させられた。赤地に白い水玉のキャミソールに薄桃色の薄手の上着、裾がレースになった黒のレギンスという出で立ちのミサは、まるっきり遊びに行くようにしか見えない。
「……いらん。何でお前がいるんだよ」
「だってあたしがいなきゃナッキー元に戻れないじゃない」
「学校は」
「つまんないからたまにはお休みー。雲肖さんにはちゃんと許可貰ったもーん」
「あの人はお前に甘過ぎんだよ!」
思わず溜息が漏れる。俺達の直属の上司、卜部雲肖さんはこの業界には珍しく出来た性格の持ち主だが下の者、特にミサのような若い女の子には少し甘い傾向がある。ミサはこれでもちゃんと雲肖さんの事は尊敬しているみたいだが、中には完全に雲肖さんを舐めきっている奴がいるのも俺は知っている。
そんな雲肖さんだが実力は折り紙付きで。一度だけ目にした、強力な妖魔を相手にする姿は普段の柔和さが嘘のように迫力に満ちていた。
また雲肖さんは、妖魔相手であろうとも無闇に命を奪う事を良しとしない。部下には甘い雲肖さんだが、説得の余地のある相手やそもそも人に何も害を為していない相手に対しこちらが一方的に害を為す事象が発生したならその時は必ず厳しい処断を下す。妖魔はあくまでも敵だとする層が今でも根強く存在する中、雲肖さんは云わば共存派の旗頭とも言える存在であるらしい。
「それはほら、ミサちゃんが可愛いから」
「アホな事言ってんじゃねーよ。大体何だその格好」
「折角ナッキーとデートに行くんだもん、オシャレして当たり前でしょー?」
「何がデートだ! これは仕事だ、し・ご・と!」
……ともかく、本気なのか冗談なのか解らない発言をするミサとそれにツッコミを入れる俺を乗せて、電車は軽快に目的地へと走っていくのだった。
「ナッキー、まだ着かないー? もう歩くの飽きちゃったよー」
もう何度目になるか解らない愚痴を零すミサを無言で睨み、歩を進める。ろくに舗装もされていない、獣道より少しましな程度の道はグネグネと入り組んでいて先が殆ど見通せない。
電車を降りておよそ一時間。俺達はずっと、人気のない山道を歩き続けている。
「お菓子も全部食べちゃったしー。周り、木ばっかだしー」
なら帰れよ、と言いかけた言葉を飲み込み、俺はひたすら足を動かす。正直この行程にげんなりしているのは俺も同じで、だからこそ無駄に喋って余計な体力を消耗したくなかった。
「こーんなへんぴなとこに別荘作ろうなんて、お金持ちってホント解んない。ねー、ナッキー?」
それには概ね同意する。しかしミサの奴、よく喋る元気があるもんだ。俺には真似出来ん。
……にしても。もう大分目的地に近くなったと思うのだが、障気を全く感じないのはどういう事だ?
総ては妖魔が関わらない、ただの偶然だったのか。それとも……障気を隠す事の出来るほどの力の持ち主が相手か。
後者だとしたら厄介な事になる。話し合いが決裂した場合、きっと激しい戦いになるだろう。
俺がそれを危惧していると。漸く、道の先に開けた空間が現れた。
「あれが目的の沼かなぁ? ナッキー」
「多分な」
工事の名残だろう、パワーショベルが置きっ放しになっているその中央に、確かに沼は広がっていた。小さい、と聞いていたのだが思いの外大きい。まだ距離がある為、静かである事以外沼の様子はよく解らない。
「よし、じゃああとちょっとだね!」
「……おい、お前はここで待ってた方がいいんじゃねーのか」
「え?」
振り返って告げた言葉に、ミサが俺の顔を見る。……もし力のある相手なら、ミサを守りきれる保証はない。なら、ここで待たせた方が安全じゃないのか。
「……ナッキーは、ミサちゃんを舐めすぎー」
しかしミサは、そう言うと足を速めてずかずかと俺の前に出た。そして振り返るとビシッ、と人差し指を俺の目前に突き出した。
「いつもは裏方してるけど、あたしだって退魔師なんだよ? 自分の身ぐらい自分で守りますっ」
だから思い切り戦ってこい、とない胸を張って宣言するミサをキョトンと見つめる。一瞬の後、俺は思わず吹き出していた。
「何で笑うのー!?」
「いや……悪かった。そうだな。お前だって退魔師だ」
「そうだよっ」
リスみたいに頬を膨らませるミサに、また笑いが漏れる。……お陰で、緊張が解けた。
いつも通りやればいい。それだけの努力はしているのだから、きっと遅れは取らない。そんな事を思った。
「……行くぞ。遅れるなよ」
「はーいっ」
気を引き締め直し、また歩き出す。前方の沼は未だ静まり返ったままだ。
次第に、暗く濁った水面が露になる。水草がプカプカと浮いて、何とも不気味な雰囲気だ。
「!?」
「ナ、ナッキー!?」
更に歩を進め、沼の畔まで来た時。突然体を急激な熱が襲った。
全身に感じる、凝縮された強い障気。耐え切れずに、俺はガクリと片膝を着く。
「気を付けろ……来るぞ!」
サラリと頬を擽る伸びた横髪を感じながら、水面を見つめる。遠くの水面が不意に泡立ったと思うと、泡を中心に大きな波紋が幾つも生まれ、拡がっていった。
そして、あっという間に女に変わった体で立ち上がると同時。水面が盛り上がり、大きな影が姿を現した。
「……ゲロオォォォォォ……」
それは、三メートルは超えていると思われる巨大なガマだった。ガマは悠然とした動作で、俺達二人を真っ直ぐに見据える。
「……強い霊気を感じたから出てきてみれば、おったまげた。娘っこ二人でねえか」
「アンタは?」
「オラぁこの沼の主をやらせてもらってるもんだぁ。おめら、ここに何しに来ただ?」
見かけによらず、訛りこそあるが流暢な人の言葉を操りガマが問い掛ける。とりあえず話し合いの余地はありそうだ。
「俺達は、アンタにどこか別の場所に移って貰うよう説得しに来たんだ」
「……あぁ? おめら、この沼を潰そうとしてる人間の回しもんかぁ?」
「そう……なるな」
話を切り出した途端に鋭くなるガマの視線。それはそうだろう。長年住み慣れた土地から出ていけと、こっちは言ってるんだから。
「勿論新しい住処はこちらで用意する。そこではけして生活を脅かす事は起こさないと協会が約束する」
「……………………」
雲肖さんから言付かった交渉内容を、正確に伝える。ガマはこちらを睨んだまま、何も言葉を発しない。
「沼の主であるアンタに、敬意を表しての内容だ。どうか承知してくれないだろうか」
「……娘っこ」
不意に、ガマが口を開いた。その表情は、こちらの言い分に納得したとは到底言い難い。
「この沼はオラにとって大切な生まれ故郷だぁ。そこがなくなるっちゅうのに、そうですか、解りましたちゅう阿呆がいると思うけ?」
「……………………」
「帰って雇い主に伝える事だぁ。オラはここを動かん。そっちこそここを諦めねぇと、今度こそ死人が出るぞってなぁ」
「……そうか」
手に霊力を集中させる。半ば予感していた答え。勝手な事を言っているのは確かにこちら、だが……。
「なら……これ以上の被害が出る前にアンタをぶちのめす!」
水面に掌打を叩き込み、霊力を放つ。放たれた霊力は水柱となり、真っ直ぐにガマに向かっていった。
そう、こいつはすでに人間に被害を出している。被害に遭った作業員は幸い命は無事だったが、今も入院中の重傷だ。指示した人間ではなく、罪もない下の者が代わりに犠牲になる。それだけは避けなければならない。
「ほっ! まだ娘っ子にしちゃやるでねえか!」
そう言って、ガマが頬を大きく膨らませる。直後、その口から強い水流が放たれ、俺の起こした水柱を相殺した。
上がる大きな水飛沫が、治まるのを待たずに動き出す。両足に霊力を籠めて水面を蹴れば、俺の体は沈む事なく水面を走り抜けた。
「おおおおおっ!」
走りながら、攻撃の態勢を取る。しかし、ガマの反応もまた素早かった。
「ゲロオオオッ!」
ガマの口から長く太い舌が伸び、鞭のように唸る。斜め上から降り下ろされるそれを、俺は咄嗟に身を屈める事でかわした。
「オラァ!」
目の前に迫った、無防備な胸に拳を振り上げ、突きを繰り出す。でかい図体通り動きは鈍いのか、それはかわされる事なくガマの胸元にめり込む……筈だった。
「!?」
拳が皮膚に触れてすぐ、俺は自分の失策に気付く。理由はガマの皮膚を覆う粘液。その粘液に俺の拳は滑り、大した手応えもないまま逆にバランスを崩してしまう。
「しまっ……!」
「ほれぇ!」
そこにガマの張り手が、横から俺に襲い掛かってきた。急いで腕でガードの姿勢を取るものの、その強い衝撃に俺の体は簡単に弾き飛ばされてしまう。
「ナッキー!」
ミサの叫び声を聞きながら、体が沼に落下する。途端に濁った水が目や鼻に入り込んで、刺すような痛みを顔に伝える。
くそ、呪いを受けた時といい水辺での戦いはろくな事がない。俺にとっての鬼門なんだろうか。
とにかく、何より先に呼吸を確保しなければと痛む目を必死に開け、水面を目指し体を動かす。しかしそれより前に、足の方から何かが絡み付き強い力で俺を引っ張り始めた。
「!!」
足に絡み付いたそれは上半身まで這い上がり、俺の全身を締め上げる。振りほどこうにも、息苦しさと表面の滑りで上手くいかない。
やがて、胸の谷間に挟まるように絡まった所でやっと俺はそれが何なのか解った。ガマの舌だ。ガマが舌を使って、俺の体を絡め取っているのだ。
(クソッ……!)
このままでは、完全に溺れてしまう。しかし印を結ぼうにも酸欠で鈍っている頭では集中も出来ない。
こうなれば霧衣を抜くしか……そう俺が思った時だ。
「ゲロォッ!?」
ビクリ、体を取り巻く舌が震えた。締め付ける力が弱まり、僅かに体が自由を取り戻す。
(今だ!)
俺は残された力を振り絞り舌を振りほどくと、急いで水面から顔を出した。急激に体に入り込む酸素に、思わずむせそうになる。
「ナッキー、大丈夫!?」
その声に振り返ると、ミサが心配そうに俺を見つめていた。……そうか。ミサが何かしたのか。
ガマに向き直る。ガマはどこから現れたのか、体にまとわりつく小さな蛇の集団を振りほどこうと暴れていた。水面には大きな波が立ち、俺もそれに流されそうになる。
成る程、口寄せで蛇を呼んだらしい。蛇は蛙の天敵、小さいと言えどあいつには十分脅威になるだろう。反撃に移るなら今しかない!
俺は両手にありったけの霊力を籠め、ガマに向かって泳ぎ出す。本当はさっきみたいに走れればいいんだが、あれをやるには一度岸に上がり直さなければならない。正直、今そんな余裕はない。
ガマの表皮が間近に迫る。蛇はもうその殆どが振り落とされていた。俺は両手を振りかざすと、溜まった霊力を電気に変換した。
「ゲロロッ!?」
蛇を振りほどくのに夢中になっていたガマが、やっとこちらに気付く。だがもう遅い。俺は掌底の形で両手を突き出し、その体に電気を流し込んだ。
「ゲロロロロロロロッ!!」
ガマが白目を向いて悲鳴を上げる。電気といっても本物ではないので、俺や沼の水にまで漏電する事はない。
そして掌に溜め込んだ霊力が全消費される頃。ガマはぐらりと倒れ、大きな水飛沫を水面に上げたのだった。
静まり返った水面を、岸に戻って暫く見つめる。たっぷりと水を含んだ服は重く、肌にべったりとまとわりついて鬱陶しかったが自分が招いた事と気にしない事にした。
やがて、またこぽこぽと水面が泡立つ。そしてガマの巨体が、再び姿を現した。
「……ゲロ……」
「気が付いたようだな」
ガマはまだ意識がはっきりしていないようで、緩慢にこちらに視線を向ける。その視線を受け止めながら、俺は話を続けた。
「まだやるのか? やるなら……俺は今度こそアンタを仕止めないとならない」
「……………………」
「なるべくアンタの意思で、別の土地に移って貰いたい。これ以上の手荒な真似は俺もしたくないんだ」
「……娘っ子」
ガマが俺を見ながら、真剣な表情になる。……やるしかないのか。俺がそう覚悟した時だ。
「オラの嫁さなってくれ!」
「……は?」
思考、停止。何? 今こいつ何つった?
「オラも長く生きたが初めてだぁ。オラをぶっ倒すほど強ぇ娘っ子に出会ったのは。惚れた! 言う事聞いてやるからオラんとこに嫁に来てくれ!」
横でミサが笑いを堪えるようにプルプル肩を震わせている。ガマの目は真剣そのものだ。そんな二人に囲まれ、俺は。
「……俺は男だあああああっ!」
そう叫んで霧衣を抜き放ち、霊力を電気に変えた塊をガマにぶっ放したのだった。