第四話 品格の問われるとき
『言葉遣いに気をつけるのはもちろん、
にこやかで親しみやすい笑顔も添えると
相手に好感を持たせることにも繋がります。』
「B、いい加減次の本……。カルナはもう限界! こんな教養本読んだって全然面白くない!」
今にも本を投げつけてきそうなカルナに向けて、男性は溜め息をつきながら説得を試みる。
「そう言われましてもねぇ。分かっていますかねぇ、カルナさん? 貴女もレディなんですから、教養を学ぶというのはとても大切なことなんですよ?」
当然、カルナはそんな説明で納得するはずもなかった。
「全っ然、大切じゃない! カルナにとって大切なのは、退屈じゃないこと! 早く、B! じゃないとカルナは退屈で死んじゃうわ」
「はいはい、もう少し待っていて下さいねぇ」
たまにはこういったジャンルも……と思って選んだ男性が、いつも通りカルナの御眼鏡に叶わず撃沈しているそのときに、来客はやってきた。
「ベルトナ、開けてくれないか?」
唐突に声のかけられた玄関からは、湯気のように薄い一筋の煙がカルナに向かって伸びている。その煙が彼女の手に触れると、そこから何を感じ取ったのか、嬉しそうに顔をほころばせた。
「ナルク! いつ帰って来たの?」
「ついさっきさ。入ってもいいだろう?」
外から声をかけたのは、呪術を知る者の中では世界一の術師と賞賛され、旅から旅への生活を送る高名な呪術師、ナルクだった。
男性を人ならぬ物と知ったうえでBではなくベルトナと彼独自の愛称で呼び、カルナが面会を許されている数少ない人物でもある。
「好きに入っていいですよ? 貴方なら私が開けなくても大丈夫ですしねぇ」
「まぁ一応、礼儀作法くらいは僕も守るからね。礼儀がなければ泥棒扱いされても文句は言えないさ」
そうそう、と相手に合わせてもっともらしく頷いていた男性は、ナルクが忽然と部屋の中へと現れるなり、タイプライターをひっくり返さんばかりの勢いで立ち上がった。
事実、成人男性一人が踏ん張った程度では浮き上がりもしないタイプライターが、どういうわけか、軽くだが浮き上がって机に凹みを作った。
「ど、どうしたの、B?」
「そこまで情熱的な歓迎は予想してなかったな」
目を丸くする二人を余所に、男性は先程までカルナが読んでいた本を睨み、次いでカルナも睨んだ。
姿こそ見えてはいないが、決して好意的な視線を向けられてはいないと感じた彼女は、どことなく剣呑な雰囲気に怯んで黙り込んだ。
ナルクはというと、訪ねてきた途端に起きた理解不能な光景に、ただ呆気に取られている。
「私が甘やかしすぎたんでしょうねぇ。そうでしょうねぇ。やっぱり礼節くらいは身に付けさせるべきでしたねぇ。カルナさんが泥棒扱いされたりしたら嫌ですからねぇ」
ぶつぶつと一人呟く男性はどこからどう見ても怖い。怪しい炎が燃えているのが見えそうだ。
「ナルク!」
カルナと共に恐る恐る男性の様子を窺っていたナルクは、突然男性が自分へと向き直ったので、「ひぇっ!?」と悲鳴すら上げた。完全に猛獣扱いである。
「何ですかねぇ、そんな声上げなくたっていいんじゃないですかねぇ。ナルク、貴方にはカルナさんを教育してもらいますよ」
「教育……かい? 今更? カルナはもう大人じゃないか。僕がどうこうする必要はないと思うんだけど。何より、ベルトナの言っていることがいまいち見えないね。いきなりどうしたっていうんだい?」
困惑するナルクに返ってきた答えは、独り言とも嘆きともつかない男性の心配事の数々だった。ナルクにしてみれば、あまり答えになっていない返答だ。
「いえ、いけませんよ。カルナさんは確かに大人なんですけど、何分淑女たる良識を持っていないんですねぇ。
本はすぐに投げる、寝るときはこのソファ、たまにリベリアの家へ遊びに行ったかと思うと、まず初めにすることは拳銃を一発扉の向こうへ打ち込むときていますからねぇ」
「あの家は危険なものが多いのよ! 置いてあるのが何なのかも、それがある場所とかも絶対言わないし!」
「とにかくですよ!? このままじゃカルナさんの将来が心配ですよ! だからナルクに教育してもらいますからねぇ」
声を荒げたせいかやや苦しげに呼吸する男性を見やって、カルナは何年振りかと頭を抱えた。
この兄にして父にしてお目付け役は、カルナのこととなると他の何よりも意地になって言い分を通してしまうのだ。
やれやれと一人肩をすくめたナルクは、迷惑そうに顔をしかめるカルナの肩を叩いた。
「諦めたほうがよさそうだね。ベルトナ、教養関連の書籍はどれ? そう、じゃあ見せてもらうよ。
僕は紳士であって、淑女の作法にはあまり通じていないからね。とりあえず一時間くらい待っていてくれ」
*******
お土産に、とナルクが持ってきた大量の書籍を本棚に納める男性の横で、カルナはその重そうな様子をじっと感じ取っていた。
「今回は何冊? 随分多いね」
「ざっと七十~八十冊でしょうかねぇ。
私が触れたことのない本も、まだまだこの世界には沢山生まれているようですねぇ。昔は触れたことのないものを見つけるほうが大変だったんですよ」
昔を懐かしむような調子の男性に、カルナは目を輝かせ、興味津々で尋ねる。
「書く人が少なかったの?」
「現代みたいに書きたくても書けなかった……と言いましょうかねぇ。
国同士が争いを続けていた時代でしたし、文字も紙もペンも、権力者しか持てないものだったんですねぇ。どれかひとつでも民衆に与えてしまうと、知られたくない情報が漏えいしたときにそれが記録されてしまうと言っていましたよ?
まぁ、人間は強いですから、そんなものはなくても本は作れるんですけどねぇ」
男性の話は、いつだってどんな話よりもカルナの興味を強く惹きつける。知識にならない知識は、空想よりも指で辿る物語よりもずっと面白い。
「どうやって?」
「人間たちの感情ですよ。強烈な感情は『道』を生み出して、あらゆるものを過去や未来へと送ることができる……。
『道』が発生した時点でそれはもう、物語でしょうねぇ。
私が覚えてさえいれば、それはひとつの本に等しいですからねぇ」
「じゃあ、Bが忘れちゃったら駄目じゃない」
「大丈夫、忘れませんよ。
そうそう、カルナさんの『道』もすでに発生していますからねぇ。どれだけ私の時間が永いものだとしても、この先ずっとずっと覚えていますから、綺麗で長い『道』を作ってくださいねぇ」
「………………うん」
男性が想っていてくれることの嬉しさと、自分が望んでいることの悲しさが交互に浮かんで、心に影が落ちるのを感じながらもカルナは笑顔で頷いた。
このままだと、男性が後に語り継ぐカルナの物語は、血の海から始まって、血の海に終わる物語になるだろう。
何も生み出さない物語。残される者にとって、悲しいだけのエンディング。
男性を悲しませたいわけじゃない。なのに、自分の望みを叶えればそれは避けられない。
それでも諦められない。自身の血が赤々としているうちは、『あの日』の記憶を忘れることはない。
男性と出会ったことも、ナイトメア能力に泣きながらも一緒に暮らした深い優しさを、最後まで忘れることはないはずのに。
自分が結局一番大切なのだ、という真実は、まるで自分を試しているかのようだとカルナは思った。
踏みにじるものをはっきりと認識して、醜さすら受け入れて、ようやく前に進める真っ黒な望み。光の中に引き入れようとしてくれている、善意の手を邪険に振り払って。
ごめんね、B。
心だけで謝った時、男性の手が止まった。
何を感じ取ったのだろう、それを知ることはなかった。
ちょうど最後の本を片付けたところだったようで、ナルクがそばへやってきたからだ。
「さて、麗しのレディ、準備はいいかな?」
おそらくはあともう少しの、短い、幸せな思い出に。
カルナはいっぱいの笑顔で頷いた。
「もちろん!」
*******
『特に食事においては、マナーを守る必要があります。
食事相手、シェフやウェイターにも不快に感じられるうえ、
本能的な部分が表れる時間のため、品位をより貶めやすいのです。』
「だから、何でそれが駄目なの? 別に誰が困るわけでも嫌がるわけでもないんだからいいじゃない!」
「あのねぇ、その考え方がまず子供っぽいんだよ。レディになるってことは、大人になるってことでもあるんだ」
賑やかにやりあう二人を微笑ましく見守りながら、男性はカルナの頑固さに改めて感心していた。
教えている側のナルクにしてみればたまったものではないだろうが、少なくともカルナは生活態度全般に関してはどうしてか、鉄壁の自信があるらしい。
さっきから淑女はこうあるべきだ、といった心構えを何遍も説かれているのに、聞き入れようとしないばかりか、徹底的に反論している。
しばらく見ていたところ、ナルクが先の一時間で習得した付け焼刃程度の知識では、カルナの頑強な意見に太刀打ちできないようだ。
「ベルトナ、もういいだろ?」
散々やりあったあと、遂にナルクが泣きついてきた。ここらが潮時かと、男性は首を振りつつ諦めを声にした。
「確かにナルクもお疲れのようですし、今日はここまでにしましょうかねぇ」
「やった!」
満面の笑みでソファに引っくり返るカルナを見て、二人は目を合わせて苦笑いした。
この「少女」に、レディになるためのステップはまだ早いのかもしれない。
「二・三日はリベリアの所にいるつもりだから、よかったら遊びにおいで」
「また研究見てあげるの?」
リベリアが反魂の術を研究していることは、親しい友人ならば皆が知っていることだ。
その中でも、世界に名立たる呪術師のナルクと知り合いであるカルナと男性は、万が一その研究が成功した場合にリベリアがどうなるかも知っていた。
ナルクは魔法使いと呼ばれた一族の生粋の末裔であり、生まれながらの希少な呪術師だから、反魂の術について事細かに知っているし、行使することはできずとも理論は理解している。
ただし、反魂の術とは――
「ああ。完成させられたら困るからね。実際、リベリアは優秀すぎるんだ。
僕のように血に秀でているわけでもないのに、僕の知っている術の三分の一くらいは使えるし、オリジナルも作っているし」
「けれど、あの術に辿り着かせるわけにはいきませんねぇ」
「あれは禁忌だ。あんなものを叶えるために、リベリアの命を代償になんてさせないさ」
「人間は死んだら蘇らないもんね……」
最後のカルナの言葉がこの三人の心象を一番よく表していた。
人間の魂を遠く隔てられた異界から呼び戻すなど、不可能なのだ。それが例え、反魂の術であろうと。
*******
『挨拶には正式と略式があります。
正式は冠婚葬祭には欠かせません。
略式は仕事上のパートナーなど、少し硬い間柄で使われます。』
「そうそう、最後に。カルナ」
去り際にナルクは何でもないような気軽さで、色鮮やかな美しい花束を手渡した。
花束がカルナの手に渡ると、彼女の「目」にその色がはっきりと見えた。
息を呑む様子で男性にもそれとわかり、柔らかく微笑みを浮かべる。色形に花の美しさを求める人が多いためか、全盲の彼女に花束を贈れるような人は、彼女を知り、呪術の腕を持つナルクをおいて他にいない。
「あ……ありがとう……。ありがとう、ナルク」
花束は全てバラで、白や黄、青でまとめられていた。中でもナルクが贈りたかったのは、青いバラ。
「不可能はきっと可能になる。そのために呪術がある。僕はその手助けとしてあらゆる人のために呪術を行使する。
カルナもね、きっといつか不可能を可能に変える時が来るから。大丈夫だよ。その時まで待っておいで」
唇を引き結んだまま大きく肯定するカルナを見て、ナルクは淡く悲しげな表情を浮かべた。
彼女の望む変化とナルクの望む変化はたぶん違うと知っていて、それでもナルクは言葉を贈る。どうかカルナが自由になりますように。
自由になった暁には……とそこまで思いを巡らせて、もうひとつ言葉を残す。
「カルナのために不可能を実現してくれる人もいるからね。リベリアとかさ」
「リベリアが?」
恋する気持ちは人を変える。良くも悪くも変えてしまうが、あれほど静かに見守っているリベリアならば、悪い方向性にはならないだろう。当惑してまるで分かっていないカルナがとても愛おしい。
リベリアには気の毒だが、不可能を現実に回帰させることができなければ、カルナが純粋に人を求める気持ちを理解することは一生ないだろう。
「じゃあ、行くよ。ベルトナ、カルナをよろしく」
「言われるまでもありませんねぇ。ナルクも無茶はしないでくださいよ?」
「それこそ言われるまでもない。僕の命は神の存在よりも貴いからね。何しろ、彼らは奇跡を起こさない」
また、と声を交わしてナルクは去った。来訪と同じく、扉を開けることなしに。
数々の不可思議に彩られ、あまりにも綺麗な花束をカルナは抱き締めた。
醜悪な人間界という映像は決して見たくないけれど、美しい花ならば、彼女のために捧げられた残り僅かな命ならば、優しく包んで眺めていたいと思っていた。
ねむねむ……奈々月です。
最近のびのびの更新、奈々月です……。
冬場が忙しい職種のため、しばらくのびのびですが見捨てないでもらえると嬉しいです……!
うぅ、インフルエンザが怖い~(涙)
ちょっと早いですが……おやすみなさいませ。