第三話 歴史は戦火を呼び覚ます
『本当に魔女であったなら、どんなにかよかったか……
恨みも憎しみも、炎が迫るにつれて次第に焼かれていく。
風が回って、炎が足裏を一挙に舐めあげた。』
「魔女狩り、か……」
ふと、呟くカルナ。点字を追っていた指が止まる。
その指が傍らへそろそろと伸びていって、ひとつの試験管を摘みあげた。赤ワインによく似た色合いの水が入っているが、カルナには見えない。
代わりに、試験管の形を確かめるように撫で、軽く振って中身の怪しさを確認する。例によってリベリアの作った呪術的影響を受けた不気味な水、つまり呪水だ。
「不思議を作れる、というのも魔女かしら? だったらリベリアは魔女ね。
あ、女じゃないから魔法使いか」
普段なら他愛無い会話にでも乗ってくるはずの男性は、ちょうど場を外していた。月に一度の、定期報告の日……と聞かされている。
何の? とはさすがに訊かなかった。いかに心が幼くとも、知性が未熟なわけではない。カルナも理解している。
カルナが庇護、あるいは隔離されている理由。男性を介してそうしている誰かがいることを。
「呪術師……魔女の末裔。リベリアは……諦めたりしない。
でも、できあがったとしても報われないと思うんだけど……そういうことじゃないか……」
つらつらと流れる思考がそのまま口に出る。周りに誰もいないと、彼女は独り言が多い。誰かしらいると静かなものだが。
発した言葉にどういった思いが含まれているのか、そんな心理分析と干渉をされるのが、カルナは大嫌いだった。
そのため会話という形以外では、普段は心に思うことを口にすることはない。
そのくせ、彼女はとても寂しがりだった。とても一人ではいられなかった。
「Bも……ある意味魔法使いよね。それとも、作られた存在だから従者に当たるのかな……。
ナルクは……生粋の末裔か。公言してないだけだもんね」
飛び飛びの思考の中で、考えるのは他人のことばかり。
指が再びページの上に落ち、読みかけの位置を探し始めたが、すぐに物憂くなって止めた。
定期報告の日、終日男性は帰ってこない。一日で終わるとも限らない。
しかも、男性の目が届かないということで、カルナはこの部屋から出ることも、誰かの訪問を受けることもできない。
周囲には本ばかりが沈黙して居座るだけで、カルナは一人ぼっちだ。
「B、早く帰ってきてよ……。つまんない……」
カルナの耳に、まだまだ足音は聞こえてこない。
*******
『熱い、と思ったのは僅かな間だった。
熱さはすぐに通り過ぎ、激烈な痛みが火勢よりも強く
私を炭にせんとして、轟々と身体を覆い尽くしていく……』
椅子の上で丸くなっているうちに、どうやらカルナは眠ってしまっていたらしいと気付く。
部屋の中に自分以外の気配はない。まだ男性は帰ってきていないようだ。
無意味に何度も椅子の上で寝返りを打つうちに、どこか低い所から水音が聞こえてきていると気付いた。おそらく床に何かが零れている。異臭はない。
「何だろ……?」
人間と違って呼吸や動作がないので、どういう状態になっているのか掴めない。男性の机の引き出しから手袋を出し、嵌めてから床を探る。
床に触れてすぐ、指先がじわりと濡れた。しかし、特にべたついたりはしない。
水でも零したのかもしれない、とカルナは思う。そういえば、寝る前に本を読みながら飲んでいたような……。
ということは、気を付けなければならないのは、コップが割れている可能性だ。男性がいない憂鬱で落ち着かない日に、コップの割れる音にも気付かないほど熟睡していたとは思えないが、注意するに越したことはない。
さっきよりも慎重に床の上を探る。ほどなくして、何か硬いものに手が触れた。
コップよりも直線が長く、あっさり手の中で握り締められるほど細く、指が入るほどの口径しかない……筒のようなもの。
「試験管……栓が取れてる……」
寝相で床に落としてしまったのだろうか。カルナが占有しているシックなソファのそばにある、サイドテーブルから水は零れていた。
経緯は分からないが、リベリアの作った用途不明の呪水が足元に撒き散らされてしまっているのだ。カルナは青くなった。
「どうしよう……」
呪水の用途は極端に分類すると主に二つある。
傷病の治癒と。
致死性の劇薬。
治癒剤だったら放っておいても何の問題もないが、もしも劇薬だったら……成分によっては、試験管一本全てが気化してしまうと死に至る可能性がある。
リベリアは医者なので、普通に考えれば治癒剤だ。
しかし、この部屋は男性の管理下にある。実際のところ本以外に何が置いてあるのか、カルナには分からないのだ。
度々リベリアが劇物としか呼べないような代物を持ち込んでいるのも、今のカルナにとって不安を倍増させる種になった。いつかも男性と話しながら何か見せていたようで、カルナの鋭敏な聴覚はリベリアの手元から奇妙な音を聞き取っていた。
カルナがリベリアの、自身への恋情を知っていれば、視力を失った――失っていなかったとしても、誰であろうカルナがいる家に、いくら男性が管理しているからといって、彼女の生命や生活を脅かす危険のあるものを置いていくはずがないと分かるのだが、残念ながらカルナはそれを知らなかった。いや、正しくは、おそらく好意はあるのだろう、程度にしか理解できていなかった。
男性が知ったら苦笑するだろうし、リベリア本人が知ったら、予想はしていてもどれほど意気消沈するだろうか。
「とりあえず触っても何ともなかったから腐食効果はないよね。寝てて大丈夫だったんだから即効性もない。遅効性ってことだから、早くこれを処理すればいいだけ。外に捨てるか、密閉容器に入れればいい」
不安が独り言を妙に早口に滑らせた。すでに致死量を吸い込んでしまっているかもしれない、ということは、できるだけ考えないように。
ぶつぶつ呟きながらも急いでタオルで呪水を拭いたはいいが、脱走を防ぐため部屋には窓はおろか換気装置すらなく、丸い天窓しかない。
それも何メートルあるのだろうか、普通の人間が届くような高さのものではなく、何かの手違いでそこに届く、転落すれば即病院行きの高さの梯子などがあったとしても、結局は男性の認証がなければ窓を開けることはできない。
当然、現在はぴったりと閉められている。やたらと大きい部屋なので、人一人いる程度では、数日で酸素がなくなるなど有り得ないのだ。
外には到底捨てられない。残る手段、密閉容器はというと……そんなものがあるなんて、カルナは聞いたことがない。触った覚えもない。
あるとしたら、机の引き出し。
無我夢中にあれもこれもと引っ張り出して、引っかき回して、すぐにないことが分かったが。
「嫌だ……B、リベリア! 誰か開けてよ!」
いつもの場所から一番離れた玄関まで、本棚に肩や腕や足をぶつけながら転がるように走って行き、扉を叩く、蹴る、体当たりする、終いには殺傷能力を有する実弾を装填した拳銃で何発も撃った。
扉はどういう仕組みになっているのか、弾頭が潰れただけで、ビクともしなかった。触った限りではへこんでもいない。カルナの指に触れる感触は紛れもなく木材なのに。
呪術的効果のある、扉なのだろうとこの時初めてカルナは知った。男性の持つ呪術だけでなく、何かが、誰かが、悪意を持ってカルナを閉じ込めている。
自分をこんな目に遭わせている事の発端も呪術で、それから逃れられないようにしているのも呪術と知って、カルナの心に怒りの炎が燃え上がる。
だが、そう長くは続かなかった。事態の緊迫は不安を呼び水として怒りをあっさりと消火し、涙の海のように溢れかえる。今にも泣きそうに震える唇から、不安が形となって零れ落ちる。
「あれ、何の薬……? カルナ、死んじゃうの……?」
チリ、チリ、とやや遠い位置から音がした。反射的にカルナは拳銃を向ける。
チリ、チリ、チリ……。不安が攻撃的な行動を平静よりも簡単に後押しし、カルナは不審な音が聞こえてから一秒と置かずに銃弾をぶっ放した。
バゴン! 一瞬だが、耳をつんざく鈍い破裂音が響く。
ドサドサと、本が大量に落ちる音がそれに続く。
「ガスみたいなものなの? 引火……した? 動いたら危ないの?」
すでに半泣きの状態で、パンパンに膨れ上がった不安のために動く気力がごっそり消え失せ、カルナの体がズルズルと床に崩れ折れる。
そのまましばらく、カルナは震えながら膝を抱えて縮こまっていた。
*******
『次第に激痛も感じなくなった。
水中にいるような遠い感覚の中、
光と闇の狭間に浮いていた。』
ピチャッ、と水音が聞こえた。
それは微かな音だったが、不安に震え、いつもよりさらに鋭敏になっているカルナの聴覚は易々とそれを捉えた。栓の外れた試験管から零れていた水滴の落ちる音とは、何か感じが違う。
同時に、何かが爆ぜるような、嫌な音と臭いも感じ取る。部屋の中が暑く感じるのは気のせいだろうか?
「焦げ臭い……?」
確信に近い疑念と、逃げ場のない恐怖を胸に、数歩、前へ行く。
飛んでくる、と勘づいた時にはすでに、右腕を何かが掠めていた。
「熱っ!」
声に応えるように熱気が全身を撫で、熱い何かが触れた肌が熱っぽい痛みを訴える。
火傷。腕に触れたのは火の粉か、もしかすると燃えた本のページの一部分かもしれない。今度こそ疑いようもなく、カルナは火事なのだと確信した。
逃げ場はどこにもない。確かめたばかりなのだから。
「B……まだ帰ってないの? そっちにはいないんだよね!?」
出火場所はどうやら部屋の奥だ。カルナは叫んだが、返答はない。
恐慌が感覚を狂わせて、誰かがいるのかどうか上手く掴めず、カルナは何度も叫んだ。
四方八方から、あっという間に熱が襲ってくる。本ばかりのこの部屋はとても火の回りが早かった。
熱が足元に達する頃、ようやくカルナは生物が燃える時独特の、あの鼻が曲がりそうな悪臭がしないことに気付いて、男性がいないことを確信した。
無論、男性が焼死しかけていたとして、実際人間と同じ状態になるか、今はもう、誰にも分からないのだが。動物が火にかけられたのと同じ臭いがするとは限らないし、創られた存在である男性は、おそらくそうでない可能性のほうが高いだろう。
しかし、この時のカルナに、男性が人間であるかどうかなど、関係がなかった。思いつきもしなかった。男性は、カルナにとって家族以外の何物でもなかった。
人間であるかどうかなど二の次であるために、焼ける匂いがしなかったことでとっさに男性の無事を信じたのだ。
「そっか、B、いないんだ……。よかった……。でも、カルナ、焼け死んじゃうよ……。助けてほしかったな」
いつもそばでタイプライターを打つ男性、拳銃の使い方を教えてくれた師匠でもあるリベリア、大掛かりな呪術を使って人を助けるナルク、子ども扱いするけど優しいアーディ夫人。
思いが巡り、そして最後に思い浮かんだのは『あの日』の記憶。
血の海の中……一切の光を失った瞬間。カルナの人生の、討つべき仇。
炎の闇で燃え尽きる寸前、憎悪が滾った。
*******
『私は魔女だったのだろうか。
炎に溶けて身体を失いつつあるはず名なのに
今なお意識が残る……いや、それでも私は信じている。』
突如、冷気が四方八方へ走り、壁が、本が、床が、凍り付く。灰になろうとしていた部屋の崩壊を食い止める。
カルナは何が起こったのか分からなかった。ただ……。
「寒い……」
右手の指先に感覚がない。
手袋をしたままだったことに気付いて脱ぐと、濡れていたはずの箇所は凍っていた。あちこちに気を取られていたとはいえ、呪水を吸い取った手袋を嵌めたままでいたとは。
今更にカルナはぞっとして、できるだけ遠くへと右の手袋を投げた。
残った左手の手袋越しに、恐る恐る周りに触れてみる。どこもかしこも硬く冷たく、手が痺れそうになった。
手袋をした手首から上はともかく、油断すると、皮膚が張り付いて剥がれてしまいそうだ。
「部屋が凍ってる、の? 何が起こったの?」
火の粉の舞う音も消え、不気味なくらいの静寂が部屋を支配している。聞こえてくるのは自分の呼吸だけ。
どうやら床も凍っているらしく、立ち上がると転びそうで、なおかつ掴まろうにも本棚から壁から凍てついてしまっている。
仕方なく、カルナは這うようにして奥へと戻った。
どこに触れても凍っている。燃えて多少形は崩れてしまっていたが、机もソファも、タイプライターも。
燃えかけの本はページを開いたまま凍てついていて、点字が読み取れなかった。もしかすると、点字に訳す前のものかもしれないが、この状態ではそれも分からない。
カルナには見えないが、息は吐く度に部屋の中で白く映し出されていた。
部屋の温度は零下を下回っていて、普段着のままでこの状態が続けば、凍死しかねないほど寒かった。
体はガタガタと引きつけでも起こしているかのように異様に震えるが、かといってすぐに死ねるようなものではなく。
「た……退屈……だなぁ……。まだ……か、帰ってこない……のかなぁ……」
嫌いな嫌いな退屈が、寒さと一緒に纏わりつく。本は読めないし、眠るのは怖い。この状況で眠ったら、それはそのまま永眠になってしまうだろう。
カルナは虚ろな思考を巡らせて、暇つぶしを考える。つらつらと流れ行く様々な思いに耽るうちに、懐かしい記憶が現世に零れ出た。
「ねぇ、知ってる? 僕に~、光を分けてくれるんだ~
寝ても覚めても、夢は遠くて
そんな夜を~、鮮やかに塗り替えてくれたんだ~」
意味こそカルナは知らないが、身に染み付くようにして覚えている唯一の歌。時々こうして心細くなったら歌うのだが、誰にも、それこそ男性にも聴かせたことはない。
「ビルだらけ、埋もれた真っ暗な空には~、カーテン引いて~
星空煌く、君の歌を聞こう
そばにいる時間、じゃなくて~
今、僕の隣に君がいるよ~」
この歌を人前で歌って、形はどうあれ、否定されてしまうのが怖い、とカルナは心の深層で感じていた。
なぜなのかは自分でもよく分からない。過去にそうされたわけでもないのに、どうしてそう思うのか。
歌詞の意味を考えたこともない。それはカルナにとって、常識やモラルを疑うような行為だった。この歌がこの歌であること、それ以上に意味を持たせようとも思わない。
「目を閉じないで~
耳塞がずに~
心いっぱいに、君を聞く
キラキラな星空に、消えない夢~
とびっきりのstar light」
前向きな曲調とは裏腹に、カルナにとっては心穏やかになる歌だった。
男性のいない空白を埋めるにはちょうどいい。
歌う度口元から漏れる呼吸の白さは、音を紡ぐにつれてよりはっきりと濃くなっていった。
白い吐息は消えることなく、凍てつく空気を、カルナの孤独を、さながら霧のごとく埋め尽くし、やがて純白の闇と化した。
*******
『私の命が暗黒へ臥す寸前、神の御声が降ってきた。
「奇跡を生み出すを許されぬ身だから、お前を救うことは叶わなかった。
だが、お前は魔女ではない。お前の魂がそれを証明するだろう――」』
カルナが悪夢から醒めると、男性の心配そうな顔が彼女を見下ろしていた。
ひどく物静かな気配。それだけで、見えなくても、何も言わなくても、カルナには目の前にいる人物が誰で、どんな表情をしているのか、すぐ分かる。
「B……」
「すみませんねぇ……。もう大丈夫ですよ」
部屋は男性が空調をいじったのか、留守番をしていた時分よりも少し暖かいくらいで、カルナの心に心細さを感じさせるものは何一つなかった。
そして、元通りのソファに寝そべる自分。部屋が燃えたり凍ったりした痕跡などないということは、少し手を伸ばしてあちらこちらを触れば分かった。
カルナはようやくこれまでの出来事がナイトメア能力による現象だったと理解し、叫んだ。
「Bのバカ! 大嫌い!」
不安が解けたことによる、その安心感が、責める気など全くない責める言葉をカルナに口走らせる。
男性は表情に一滴の悲しさを落としたのみで、ただ黙って聞き続けた。
数分すると、散々叫び、男性に当たったカルナは、瞳にいっぱい涙を溜めていた。
そのまま泣きじゃくり始めたカルナを、そっと抱えてあやす男性との図は、父と娘……は無理でも、兄と妹程度には見える。
男性はそれを知っていた。知って、深い安堵を覚えていた。
ねむねむ……奈々月です。
年末絶賛お仕事期間中につき、すっかり更新遅れていて申し訳ないです。
書かなくなると、書けなくなるのでちまちまでも書いていたいのですが……むむむ、体が足りませんね……。
今回の話は、尺がちょっと短めだったので、1話1章にしてみました。
カルナの住んでいる場所と、環境がちょっと伝わるお話だったかと。
まだまだ続くお話ではありますが、ワガママで子供で、とことん女の子なカルナをお気に召していただければなぁ、と思います。
それでは……おやすみなさいませ……。