波瀬は見て見ぬふりをする
波瀬の夜は日記をつけることで締めくくられる。
彼は高校生の頃から日記をつけている。その概要はその日の出来事とその感想を一、二行程度で箇条書きしていくというものでぱっと見ると日記には見えないが彼にとってはこの書き方が性に合っていた。
そして今日も就寝の準備を終えた彼は再び机についていた。
さらさらと流れるように日記を書いていく。
日記をつけ始めてから幾分記憶力が良くなった気がする。書き始めた最初の頃に比べて夜に思い出そうとした時、以前に比べて簡単にその時の行動や感情を思い出せるようになったと感じるのだ。
特に、日中何も考えずに行動することが無くなったのは良い傾向だったと彼自身思っていてそう言ったプラスの面が彼に日記を付けさせ続けていた。
最近の話題と言えば田島智子の事であろうか。
図書館での一件以来、彼女は波瀬に時たま話しかけるようになっていった。
初めの頃は勉強の話題を人の目を盗むようにこっそりと話しかけてきていたのだが、それも回を重ねるごとに自然に話しかけてくるようになり、今では授業間の中休みなどを使ってよく話しかけてくる。
彼も彼で初めは受け身で話しかけてくるのを聞いていただけだったのが、時には彼の方から話しかけるようになっていた。その内容というのはもっぱら授業の内容に関することであったがそれでも理解の伴う解答と意見は彼女にしか出せないものであり、普段自分から話しかけようとしないのが彼の常であったからそれは稀な光景であった。
彼はそのように変わっていく自身に気が付いていたが、変わってはいけない物と変わっていくことの区別はつけているつもりで彼はその変化を快く受け入れていた。
そう言えば、今日は彼女と初めて昼食を共にした記念すべき日であった。いつもは一、二行で済ますところを詳細に書き連ねていく。
彼女の食べる物は田島智子が食べる物と同じものだ。いや、食べる物だけではない。図書館で彼女が読む本も田島が一度手に取った事がある本で、着ている服も田島の持ち物の一つである。
現に彼女が来ていた服を次の日に田島が着てきたことがある。
そこまで同じで波瀬が彼女に出会うのは決まって田島の近くにいる時であった。
彼女はいつも遠くを眺めている。その視線を追っても何を見ているのか彼には分からなかった。彼女は彼女の中の世界を見ているのだろうと勝手に推測しているが、どうにか気が付いてくれないかとその視線の先に割って入ってみたりするものの芳しい結果を得る事はなかった。
彼女の存在を定義する上で一番重要なことは彼女が波瀬以外に認識されていないということである。と言っても本当にそうであるか確かめる術はない。
彼がその事に気が付いたのは最近のことでまだ波瀬自身もよくはわかっていない。ただ周りの人間が誰一人として彼女に視線を向けないことやまるで存在しないかのようにふるまい、そのくせ立ち止まる彼女を避けて歩く。
彼女の存在に気が付いているのは波瀬だという妙に説得力のある勘は彼と彼女の間には何か特別なものがあると波瀬に思わせていた。
田島には彼女が見えていないというのは言い切れないことではあるがそんなそぶりは一切見せないし何より波瀬が知っている限りで一度も彼女に視線を向けたことがない。そういう約束を取り付けているのかもしれないが、それにしては彼女の行動は自然すぎて気が付いていない、という風にしか映らない。そのため今のところ田島には見えていないという見解である。
彼女が波瀬に気付いている節もなくはない。目線も何度かあった気がするしバス停では手を振られたこともあった。しかし一度として言葉を交わしたことはない。彼女との交信は彼の視線による一方的な傍受のみであり明らかな彼女から彼への発信は受けとったことがなかった。
話をまとめると、彼女は波瀬以外には見えない存在であり、その存続のために田島智子に依存している。さらに彼女が波瀬を認識している可能性は低い、ということになる。
波瀬はそんな得体のしれない、非科学的なものを信じるほどオカルトに興味を持つ人間ではないが、自身が体験していることであるから信じないわけにはいかなかった。それに彼女の存在を決定づけるためにはそうする以外になかったのだから彼に選択権はなかった。
なんだかややこしい話になってしまったが、波瀬にはこの事態を受け止めることで精いっぱいというのが現状であった。
彼女の出現に規則性はなく、ふらっと現れてふらっといなくなる。
ただ彼女のその憂いは見ただけではっきりとわかるほど体で示していた。まるで彼女はこの世で独りぼっちなのだと、誰も気がついてはくれない、孤独な世界に取り残された存在なのだと、彼の目にはそう映った。
彼にできることは何もなかった。彼女に干渉する方法も分からない。彼女に触れる事さえできない。それは波瀬が現実に存在すると認識してしまう彼女に対してその他と同様に安易に接触することを拒んでいるのであって、そのために実際に彼女の身体に触れたことがないのであった。
そして、いつの頃からか波瀬は彼女を救いたいと思うようになっていた。いや、そんな大層なものでなくてもいつも憂いの表情を浮かべている彼女の顔をほころんだ笑顔で満たしたいという願望が彼の心を揺さぶり彼を焦らしていた。
一朝一夕でどうにかなるものではない、それはわかっていることだから彼は今日までの間試行錯誤を繰り返している。その成果が今日の“共に昼食をとる”であった。
と言ってもはたから見れば波瀬と田島が向き合って昼食を食べているようにしか見えなかっただろう。さらに言えば共に食事をした田島もそのつもりでいたと思う。
しかし実際は波瀬の算段で彼女が座るのを待ち何気ない感じを装って彼女の右斜めに座った。向かいに田島、田島の右に彼女が座るように。
どうしてか彼女が座ったところと同じところに座ろうとする者はいない。
それがどういう原理なのか波瀬には思いもよらなかったが先にも述べたようにその他大勢は彼女の存在を認識していなくてもその周囲を無意識に避けていた。
日記を書き終えてほっと息をはく。
彼女をどうにかしたいとは思うが手さぐり中なのだ仕方ない、と彼は焦る自身の心をなだめる。最近はあの子の顔をふと思い出してはこのような焦燥感に駆られている。
何はともあれ今日の試験的な昼食の実施は成功の範囲内であったと思う。彼女は食事中も一向にこちらを見る気配はなかったものの、終始田島とのたわいない会話のなかで彼女の動向を観察できた。そしてその中で分かったことがある。
彼女は猫舌であった。
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