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田島は左を見たい

「ここがAsin(pn+θ)だから……」


「……なるほど」


 左から聞こえてくる波瀬の声に合わせてペンを走らせると自然と頭に入って行く。

 それは簡略化した内容を順序立てて説明してくれているからであって、同時に彼の理解の深度を表していた。


「ここまでが一通りの流れ、分かったかな?」

「はい、波瀬さんの説明分かりやすいです」

「うん、でも今の説明じゃ抜けてたとこ多いと思うから田島さんも大体は理解できていたんだと思うよ」

「そうですかねぇ……。あ、それとここなんですが……」


 大学の図書館はあまり利用したことがなかったがこういうミーティングルームがある事は知っていた。でも肝心のミーティングをする相手がいないのだ。彼女にとっては縁のない場所だと思っていた。

 

 実際にこうして使用していると大きな部屋の割に二人っきりというのは恥ずかしい。外から覗かれているんじゃないかとか、彼の腕が当たったとか、どうでもいいことばかりに気を取られてしまう。

 

 しかしそうしている間にも彼の説明は続いている。彼女は彼の話を聞きながらも周りの様子が気になってしょうがないのをこらえて必死にペンを動かした。


「うん、ここまでできればいいと思うよ。というか僕がここまでしか理解してないんだけどね」


 教科書を今までやった分一通り演習まで終えると彼は手に持った参考書を閉じてそう言った。


「ありがとうございました。私でも分かった気がします。でも波瀬さんはここまで理解するの大変じゃなかったですか?」

「うーん、そうだね。僕も君が行ってる県立の方の図書館に行って課題とかやってるんだけど、こつこつやって何とかできるようになったよ」


「……そうですか。あの、図々しいのはわかっているのですが、今度分からなくなったらまた教えてもらえないでしょうか?」

「いいよ。僕の分かる範囲であればね」



 波瀬が電気を消して部屋から出てくるのをまつ。

なんだかこうしていると二人が付きあって見えないだろうか、と思った瞬間に田島は自身の頬が張り赤く上気するのを感じた。


 「どうしたの?」

 波瀬がそれを気にしてか何気なく聞いてくるが火照った顔を見せるわけにもいかず、かといって変に立ち回れば彼の不審を買うかもしれない。

田島はおとなしく顔を上げると今日はありがとう、と短く感謝の気持ちを伝えて足早に図書館を出た。


 外に出て何歩か歩くと、依然として残る熱と冷たい雨の粒子を纏った風が上気した頬の感覚を麻痺させた。

 その途端にせっかく教えてもらったのにあの去り方はどうなのか、とまたいつもの脳内妄想議会が始まった。

 お礼とかするべきではなかったのかとか、次の機会のために連絡先聞けばよかったなど案件が次々に提示される。

 でもそんなの口実で、ほんとは素で彼の連絡先を知りたいだけのずるい人間だと反論もとい本性を語ってはやってもいないことに嫌悪感を抱いて自分を卑下する。


 しかし今日、彼女の中ではっきりしたことがあった。

図書館で教えてもらっている時の、彼の真剣なまなざしは鋭くて、その横顔はかっこいい。


彼女は帰り道でも一瞬だけ見ることが出来たその横顔を思い出していた。



誤字、脱字を指摘していただけると嬉しいです。

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